開明的?ただ無知なだけでは?
これから自己批判をしよう
今回の記事では、痛烈な自己批判をしたいと思う。
学生の頃、私は大学までの片道20kmを自転車で通っていた。電車の便が悪く、自転車の方がやや速かったからだ。
通学中、特にすることもないので、自転車を漕ぎながらあらゆることを思考した。友人との会話の続き、バイト先での出来事、卒論の内容等、通学の一時間は思考を耕す場でもあった。
当時の私は碌に読書をしておらず、新たな知識を得る機会といえば、半ば寝ながら聴いていた授業かSNS程度しか無かった。
しかし碌な知識が無かったからこそ、当時の私の思考は何にも縛られず、常に自由で、いくらでも飛躍させることができた。既存の常識に囚われずに思考できる者を開明的と言うのであれば、当時の私は正にそれであったであろう。
そんな私に戒めを与えたのが「美と共同体と東大闘争」である。
美と共同体と東大闘争
この本は、学生運動の季節末期の1969年に行われた三島由紀夫と東大全共闘との討論会の記録である。
政府の在り方に憤りを感じ、革命を起こそうとしていた点において両者の方向性は必ずしも異なってはいない。しかし、その「革命」に対する解釈の相違が両者の溝であり、この討論会の論点であったと考えられる。
三島は、過去から現在に至るまでの時間や事物の関係性を認めた上で革命について論じていた。したがって三島の革命には天皇の存在は欠かすことができず、天皇を奉じた革命を起こすべきであると論じていた。それに対し全共闘は、時間や事物の関係性を断ち切ることから始まるものが革命であると論じていた。したがって彼等の革命には歴史という時間の関係性は考慮されず、天皇の存在も認められない。
真の革命とは
両者の立場は明瞭で、それぞれの前提を逸脱しない論が交わされていた。しかし私はこの討論会で、どうしても全共闘側の論に共感することができなかった。
三島は、時間や事物の関係性を認めているため、現状を大きく逸脱せず、地に足のついた論を展開していた。
それに対し全共闘は、関係性の排除を前提としているため、いくらでも論を飛躍させることができた。しかしながら地に足つかぬ論は所詮言葉遊びでしかなく、実を伴っていないと私は受け止めた。
三島の考える革命が真の革命であり、関係性が伴う分、より困難であると考えられる。事物の関係性をより正確に把握する努力を惜しまず、その上で現状の枠を超える。しかし超えすぎても革命は成らないため、その程度は過去に倣わなければならない。
全共闘の考える、関係性を考慮する必要のない革命では、現状把握の必要はなく、ただ枠を破壊すれば革命は成る。
私が全共闘に共感できなかった大きな理由は、現状を全く考慮しない、つまり現状理解を放棄するという楽な道を選んだことである。そしてそれ故に彼等の論は宙に浮いていた。
赤ん坊は革新的か
赤ん坊は買い与えられた玩具よりも部屋に転がるティッシュ箱やテープの方に熱中することがある。本来玩具ではないそれらに、玩具としての性能を見出した赤ん坊は開明的であるか。否、彼等は関係性を知らないだけである。本来の用途という関係性、場面の関係性、名前という関係性、それらを知らないが故に玩具としての性能を見出すことができたといえよう。
無知が生む開明的発想
しかし今思えば、この状態は正に学生の頃の自分にも当てはまっていたと振り返る。
次から次へと湧き上がる斬新な思考。しかしそれは現状、過去を十分に把握できていないが故に湧き上がっていた物ではなかったか。
大学卒業と同時に国外に出たが、それは開明的であったのだろうか。当時の私には、日本人としての自己は本当に確立されており、その上での選択であったのか。今振り返ると自信をもって肯定できない。
関係性に囚われすぎては思考が束縛されてしまう。しかし、斬新であれば開明的であるということは誤解であると思う。
開明的なのではなく、ただ関係性を知らない、無知なだけではないか、自戒の念を込めてそう思わざるを得ない。