仏教の『空』をVRMMOで解説してみます
あなたは仏教の『空(くう)』という言葉を知っていますか?
たとえ空という言葉を知らなかったとしても、悟りや、無念無想などを通して、間接的に知っている人は多いのではないかと思われます。
空という概念は創作でも良く使われていて、例えばFate/GroundOrderというアプリゲームに登場するキャラクター、宮本武蔵などがまさしく空という境地を目指した求道者といえるでしょう。
しかし、そういったアニメや漫画では空を必要以上に神聖視されていて、その影響であなたは、自分では到達できない、一生関わることのないものだと、そう空を解釈していられるのではないですか?
正直に言って、空は全然難しくありません。
現代社会に生きる者であれば、小学生でも理解できるでしょう。
空を理解し、体感した瞬間、あなたは無敵になれます。
この記事では、そんな空をできるだけ分かりやすくなるように、創作物でも数多く使われる題材であるVRMMOを使って解説していきます。
空とはVRMMO
VRMMOとは、「仮想現実大規模多人数同時参加型オンラインゲーム」の略です。
メチャクチャ長いですね。
なので簡単に纏めると、「多くのプレイヤーがゲームの世界に本当に入って、みんなで楽しむゲーム」のことを言います。
創作物で登場するような、五感全てでゲームの世界を感じられるVRゲームは未だに作られてはいません。なので今後に期待が持たれますね。
話が逸れました。
さて、なぜ私が空をVRMMOで解説できると言い切ったのかというと、空とVRMMOがとんでもなく類似していたからです。
空とはなにか?
その答えは「現実とは幻である」、この一言に尽きます。
要するに、私たちが現実だと認識しているあらゆる存在は、本当に存在しているのかも分からないほどに曖昧なものだったんです。
この事実を証明する根拠として、量子力学の不確定性原理というものがあります。
この原理は、原子などの小さな粒子は、その「速度」と「位置」を同時に正しく測定できないことを示しています。
つまり、私たちは原子の位置を正確に測定しようとすればするほど、速度がブレにブレて、逆に速度を正確に測ろうとすればするほど、位置が曖昧になっていき、分からなくなってしまうということです。
故に私たちは、この世界の物体を正確に認識することが、どう足掻いてもできないのです。
例えば、私たちは椅子を確固たる存在として認識していますけど、椅子とはなにか? という問いを徹底して突き詰めていくと、どんどん曖昧になって分からなくなってしまいます。
椅子ってなに?
存在しているの? していないの?
考えれば考えるほど分からなくなっていく。
まるで幻。
つまりは、空です。
椅子だけじゃない。
この世のあらゆるものが、空なのです。
この宇宙も、生き物も、僕たちの心も、全てが空。
ここまで聞いて、あなたは何か気づいたことはありませんか?
えぇ、そうです。
私たちが今生きているこの世界は、まさしくVRMMOそのものだったのです!
想像してみてください。
VRMMOで遊んでいる自分を。
楽しいですよね。面白いですよね。
たまには辛い思いや、悔しい思いをすることもあるかもしれません。
しかし、あくまであなたはこの世界をゲームだと認識しています。
どんなに心を揺さぶられようと、所詮はゲームでしかありません。
むしろ本気でゲームを現実だと認識している奴は、ただのやベー奴です。
ゲームがゲームだと認識していること。
それこそが、まさしく空観です。
空観とは、この世界が空だと認識している立場のことを言います。
ゲームとは、空なのです。
これが、小学生でも理解できる『空』です。
仮観とはゲームの職業
この空という考えは、とても画期的なものです。
空を本当の意味で理解した者にとって、あらゆる悲劇とは夢幻の如く儚いものに変わります。
例えば、ゲームで傷ついたり、死んだり、お金を奪われても、それで本当のあなたが傷つく訳ではないでしょう?
空観とは、その感覚を現実に適応したものなんです。
しかし、この空観は行き過ぎれば虚無主義、ニヒリズムに染まる危険性があります。
虚無主義とは、この世は空なんだから、何もしても意味ないし、自分がどんなに他者に酷いことをしても、どうせ幻なんだから大丈夫みたいな考えです。
これは、とても危険な考え方です。
なので、仏教はこの世はあくまで空だけど、それでも自分に与えられた仮の役割は全うしようよ、という『仮観(けかん)』を提唱しました。
これは、空を悟ったあなたには、この世は全て幻であると思っているかもしれないけど、あなた以外の人間はこの世が現実であることに苦しみ、悲しんでいる。それを放置していても良いのか、ということです。
VRMMOで例えると、あなたはどうせゲームなんだからと、プレイヤーを殺してアイテムを奪ったりして、好き放題しているけど、それで悲しんだりするプレイヤーは存在しているよね、ということ。
自分で自分に課した役割。
例えば剣士なら剣士、魔法使いなら魔法使い、自分の役割を全うして、みんなが楽しいゲームにしていこうよ、という感じです。
バランス良く中観
しかし仮観も、行き過ぎれば生きるのが辛くなります。
例えばブラック企業の社畜。
与えられた役割に応えようとし過ぎて、体を壊してしまう、そんなケースが現代日本には山ほどあります。
今与えられた役割は、ブラック企業の社畜かもしれない。
でも、それは空だから、別にやらなくても良いことなんだよ、と。
才能も能力も、生い立ちも全部関係ない。
だって、この世は空なんだから、自分が社会に対してどんな貢献をしたいのか、すなわち役割は全部君が決めても良いんだよ。
こういったように、仮観と空観の良いところをバランス良く取って、その真ん中に生きていく立場こそが、『中観(ちゅうかん)』。
お釈迦様は、そのような生き方を人々に求めたのです。
終わりに
はい。
以上で、この記事は終わりです。
どうでしたか。参考になりましたか。
この記事が、あなたの人生に彩りを加えることになれば幸いです。
まだまだ語り足りないことが沢山ありますので、これからも記事を書いていこうと思います。
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それでは、ここまで読んでくださり、ありがとうございましたー!
またの再会をお待ちしております。
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