神道はなぜ教えがないのか ー島田裕巳
<第1章 「ない宗教」としての神道>
宗教とは、救いを与えるもの、救済に結びつくものという定義の仕方も可能だが、神道には救いが欠けている。
開祖も、教義も、救済もない宗教が神道である。
神社の本殿や正殿の中には神の姿を象った神像などは存在せず、あるのは神が宿っているとされる鏡や御幣などの依代だけである。
神社の境内にあって、摂社や末社としての扱いを受けている小さな社殿、小祠には依代さえない。神社の中心には実質的に何もない。
<第2章 もともとは神殿などなかった>
岡田荘司「日本神道史」
神道祭祀のはじまりとして、宗像市の沖合、玄界灘にある沖ノ島と、奈良の三輪山におけるものをあげている。
神道のなかでもっとも古い祭祀が営まれていたと考えられる沖ノ島や三輪山では、どちらも祭祀は屋外の岩のところで行われていた。社殿はなかった。
沖ノ島
絶海の孤島。4世紀後半から10世紀初頭まで相当に大きな祭祀が営まれていた。
23カ所の古代の祭司遺跡がある。
おびただしい数の鏡や鉄剣、勾玉、金銅製の馬具などが用いられており、12万点に及ぶ出土品は一括して国宝や重要文化財に指定されている。
豪華さから考えて、祭祀の主体は大和朝廷ではないかとされている。
三輪山
かつては山中にある磐座で祭祀が行われていた。
禁足地のため発掘はできないが、周辺にも祭祀が行われた遺跡があり、そちらの発掘から4世紀のものであるとわかっている。
鏡や土器、勾玉などが出土しており、三輪山の磐座でも同じようなものを用いて祭祀が営まれていたと考えられる。
登呂遺跡や吉野ヶ里遺跡に祭殿があったとは考えられない。
伊勢神宮のような建物が弥生時代にあるはずもない。
地鎮祭を行うときに、建設現場に臨時の祭場をもうけるというやり方が、古代の祭祀の形式にはるかに近いのではないだろうか。
<第3章 岩と火 原初の信仰対象と閉じられた空間>
神倉神社 ゴトビキ岩 新宮市
岩の周辺からは経典を奉納した経塚がいくつか発見されている。
平安時代の経筒、懸仏や仏像も発見されている。
弥生時代の銅鐸の破片もある。
どの経塚も岩の隙間から発見されている。
天岩戸神社 高千穂
仰慕窟という洞窟があり、その前の部分が天安河原と呼ばれている。
巨大な岩が作り出す透き間、何もない空間が重要な意味を持ち、そこが祭祀の場となっている。
神々は天にいるが、祭祀は岩陰で天から見られないように行われる。
神社に祀られる神は、閉じられた空間のなかに封じ込まれるような形になっている。
岩陰も閉じた空間であり、神々に対して祭祀が行われる際、神はそこに閉じ込められる。
神道の祭祀とは、何もない空間を作り出し、そこに神を封じ込めることで営まれるものだと定義することもできる。
<第4章 日本の神道は創造神のない宗教である>
日本の神話全体を考えたとき重要な事柄は、最初に天地を創造した主体が不在だという点。
天地はいきなり出現し、神々が次々と生み出されていく舞台となる高天原という空間も、いつの間にか出現している。
一神教の源流はユダヤ教にある。
ユダヤ人の作り上げた国家は安定せず、国家が分裂したり、バビロン捕囚のように国を追われて異国での生活を強いられたりした。
そうした状況におかれたユダヤ人を統合するためには、信仰の対象となる絶対的な神が求められた。
<第5章 神社建築はいつからあるのか>
社伝によれば、もっと古い神社は鹿嶋市の鹿島神宮で紀元前660年。
「常陸国風土記」では、大化5(649)年に、鹿島神宮を含めた三つの社があわさって、豊香島の宮と名づけられ記されている。これが正しいなら、7世紀前半には鹿島神宮には社殿が存在したことになる。
社伝の造営についてもっとも古い記述は、熊野本宮大社についてで、社伝によれば崇神天皇の時代(前97から29年)とされている。
伊勢神宮の社殿にかんしてもっとも古い記録は、平安時代初期に成立したと考えられる「皇太神宮儀式帳」である。
今日の社殿にかなり近い形で記載されているが、現在の社殿の両脇にある太い棟持柱についての記述はない。
宇治上神社 宇治
本殿は現存する最古の神社建築。
平安時代中期の11世紀後半の建立。
拝殿は鎌倉時代前期の13世紀のもので、拝殿としてもっとも古いものの一つ。
一間社流造というポピュラーなつくり。
法興寺 飛鳥
日本最古の寺院。
蘇我氏の氏寺として6世紀末から7世紀初頭に創建された。
発掘調査の結果、一塔三金堂式という壮大な伽藍を形成していた。
飛鳥寺と名を改めて現存し、7世紀はじめに作られた本尊の釈迦如来像(飛鳥大仏)で話題。
法隆寺金堂
現存する最古の仏教建築。
聖徳太子が建立した時代か、天智9(670)年の火災以降かで論争があり決着がついていない。
火災後に再建されたとすると、7世紀後半の建物。
仏教の場合、仏像を本尊として安置するために、どうしても建物が必要。
東塔のような塔は、釈迦の遺骨である仏舎利をおさめることを目的としていた。
さらに教えを学ぶ僧侶が寺院で生活するためにも建物が必要。
最初の神社建築は小さな祠程度のものだったのだろう。
それから寺院建築を真似るような形で、小規模の単純な流造の社殿が建てられた。
さらに仏教建築との違いを明確にするために、屋根の上に千木や鰹木が設けられるようになり、春日造、神明造、大社造、住吉造といった形式の神社が作られるようになっていったのであろう。
日本書紀や続日本紀を見ると、飛鳥時代から奈良時代にかけての記事のなかに、神社の創建について述べたものはない。
伊勢神宮の式年遷宮は、内宮の場合、持統天皇4(690)年からはじまったとされるが、そのことさえ出てこない。持統天皇6年の持統天皇の伊勢神宮への行幸については述べられているにもかかわらず。
日本書紀や続日本紀では、寺院の創建や、伽藍の建設については触れられている。
<第6章 「ない宗教」神道と「ある宗教」仏教との共存>
仏教が正式に日本に伝えられたのは、宣化天皇3(538)年。
百済の聖明王から仏像と経論などが贈られた。
ただしそれ以前に朝鮮半島との交流は行われており、仏像などが日本にもたらされていたと考えられる。
蘇我稲目は朝鮮半島でも仏教が信仰されている状況を踏まえ、日本でも信仰すべきdsと進言した。
物部尾輿は、異国の神を礼拝すれば日本の神が怒るであろうと反対した。
宗教戦争が起こったとされるが、物部氏の本拠である河内の国の渋川郡には、渋川廃寺という寺院跡があり、物部氏も仏教を信仰していた可能性がある。
神道と仏教の平和的共存という事態は、世界の宗教の歴史を考えると、かなり珍しい。
ヨーロッパにキリスト教が広まることで、各地域にあった土着の民族宗教は駆逐されていった。
ヨーロッパの民族宗教の冬至の祭りがクリスマスとしてキリスト教の枠組みのなかに取り入れられた事例もある。
魔女狩りなどは、キリスト教会による民族宗教の否定の延長線上に起こったこと。
イスラム教は偶像崇拝を徹底して否定するため、民族宗教は偶像崇拝として否定され一掃されてしまった。
キリスト教やイスラム教に民族宗教が取り込まれることで、シンクレティズム(諸教混淆)という事態が生まれた。
神道と仏教の場合には、どちらかがもう一方を圧倒するという状態にはならなかった。
明治新政府が出した神仏判然令(神仏分離令)で、神道と仏教とを分離することができたのは、両者は習合しつつも独立性を保っていたからだ。
ヨーロッパで、キリスト教と土着の民族宗教とを分離したとしても、民族宗教はすでに形を失っており、独立した宗教として活動を再開することは不可能であろう。
「ない」と「ある」ではぶつかりようがなかった。
もし神道が開祖や宗祖、教義や救済の方法をもっていたら、仏教はインドや中国の高度な文明を吸収して成立した宗教であり、複雑で体系化されている分、神道を圧倒していたはず。
もし仏教がない宗教であったら、日本人は魅力を感じなかったはずだ。同じ性格の仏教を取り入れる必要性を感じなかったに違いない。
神道は、なんでも揃っている仏教からさまざまな要素を取り入れ、その体系化を進めていくことができた。ないものは仏教にあり、それに依存すればよかった。
神道には、仏教にあるものはことごとく欠けていたため、どこまで深く浸透しても対立することがなかった。
本地垂迹説
神道の神々は仏教の仏がこの日本に現れものだとする。
中世の仏教の僧侶たちが教義の形成を担った。
神道と仏教は、片方が生の領域に深くかかわり、もう片方が死の領域に深くかかわることで役割分担を行うことが可能となった。
神道は神々や人間が想像される過程を明らかにし、それが世代を超えて受け継がれていくことに強い関心を向けてきた。
また作物の栽培などを守護する役割を果たすようになり、人々の日常の生活に深く関与してきた。
仏教は、悟りを開いて仏になるということと亡くなって浄土に生まれ変わるということに共通性を見出し、両者をともに成仏としてとらえらことで、人間の死の領域に踏み込んでいった。
神道では死後の世界として黄泉の国が想定されているが、それは生者の世界と地続きで、生の世界と死の世界とのあいだに決定的な断絶はない。
仏教の浄土は、現実と断絶した場であり、理想化されている。
通過儀礼においても、出生や子どものせいちょう、結婚などにかかわるものは神道が担い、葬式から死後の供養などは仏教が担う体制が作られていった。
<第7章 人を神として祀る神道>
八幡神社が日本でもっとも数が多く、7817社。
次が天照大神を祀る神社で、4425社。神明神社、皇大神社、天祖神社、大神宮など多様。
八幡神
別名は誉田別尊。歴史上実在の可能性がもっとも古い天皇とされる応神天皇と同一視されている。
はじめて宇佐の地に姿をあらわしたのは、欽明天皇32(571)年のこととされているが、それを伝えているのは宇佐神宮の社伝である。
由緒は神話には遡らない。忽然と歴史の舞台にあらわれたという印象さえある。
国家事業としての大仏建立を助けようとしたという点が、好感を持たれたのであろうか。
宇佐八幡宮信託事件
皇位就くことをねらった弓削道鏡は、宇佐八幡から彼を皇位につければ天下が安泰になるという託宣を得たと言い、それを根拠に皇位に就くことを訴えた。
ところが、和気清麻呂が、宇佐八幡に参拝して、それを否定する内容の託宣を得てきたことから、失敗に終わった。
当時の宇佐八幡に皇位の継承を決定する力があると考えられていた。
さら源氏の祖になる清和源氏が、八幡神を氏神としたことで、武家の神、武門の神として広範な信仰を集めるようになる。
鎌倉、室町、江戸と幕府が続き、八幡神への信仰はさらに広がっていく。
国内にある神社の数は、神社本庁に属するものだけでもおよそ8万社、それ以外を含めると11万社。
キリスト教のカトリックでは、教会の側が聖人を認める手続きを定めており、聖人として認めるための儀式として列聖が用意されている。
神道では制限はなく神々は次々と増えていき、分霊や勧請によって、一つの神が無限に増殖していく。
<第8章 神道とイスラム教の共通性>
イスラム教では、偶像崇拝を禁じており、神の像は造られない。
モスクの内部の壁には、キブラと呼ばれるメッカの方角を示す目途としてミフラープと呼ばれる窪みがあるが、あくまでも方角を示すための目印でしかない。モスク内部には神聖とされるものはいっさい存在しない。
イスラム教と神道では聖なる世界と俗なる世界の区別がない。
出家が制度化されているのはキリスト教と仏教だけ。
この二つでは、現実の俗なる世界とは根本的に異なる世界の存在が前提となっている。
イスラム教と神道では、指導者は俗人のままで、世俗の世界を離れた生活を送ることにはならない。
イスラム教の指導者であるイマーム(導師)うあウラマー(法学者)は、俗人で、神道の神主も同じ。
<第9章 神主は、要らない>
寺院では、礼拝や祈願だけでなく、僧侶が修行を実践したり、学問の研鑽を行う場でもある。
神社の場合は、神主は儀礼の執行者であり、その場
文化庁「宗教年間」平成22年版
神社の総数は8万1224、神職の数は7万7266人
寺院の総数は7万7496、僧侶の数は35万2143人
神のための神社と人のための寺院の違いがはっきりと示されている。
神社の小祠には、神職が常駐していない。祭祀のときだけ祀り手がいればいい。
村にある鎮守様の場合だと、近代以前には定まった神主などいなかった。祭祀を行うときには、村人が順番でそれをつとめる当番制だった。
祭祀を司るには一定の作法があり、その通りに行えば特別な修行など必要としない。
仏教や密教の儀礼では、それを実践できるのは修行を重ねた僧侶に限られる。
神道の儀式では、主体はあくまで神。
僧侶はプロフェッショナルだが、神主はアマチュア。僧侶はつねに僧侶だが、神主は祭祀のときだけ神主になる。
<第10章 神道は変化を拒む宗教である>
長い歴史を持つ著名な神社には代々神職を世襲する社家がある。
伊勢神宮: 内宮 荒木田氏・外宮 度会氏
京都の吉田神社: 卜部氏(吉田氏)
上賀茂神社・下鴨神社: 賀茂氏
大阪の住吉大社: 津守氏
出雲大社の社家 千家氏・北島氏
もともとは一つの家で、14世紀のなかばに分かれた。千家氏が本家で、北島氏が分家。
60年に一度の遷宮の際の手斧始、柱立、棟上といった祭儀は、千家氏が担当する。
千家氏の屋敷は出雲大社の西側に建っていて、北島氏の屋敷は東側に建っている。
出雲国造
地域の豪族で、政治と宗教の二つの領域にまたがった祭祀王。
大和朝廷によって全国が支配されるようになると、国造は政治的な権力を奪われ、祭祀のみを行うようになった。
出雲国造の祖先は、天照大神の子である天穂日命であるとされている。天皇と同様に神につながっている。
神火
国造はその地位にあるかぎり、屋敷のなかの斎火殿において神火を灯し続けなければならない。
国造はその神火で自ら調理を行い食べる。家族であっても、それを口にすることはない。
前の国造が亡くなったとき、後継者となる新たな国造は、喪に服さずただちに、火鑽臼と火鑽杵をもって、松江市八雲町にある熊野大社に向かう。そこで神火を鑽り出し、それを自らの死まで灯し続ける。
昔は前の国造遺体は赤い牛に乗せて運び出され、出雲大社の南東にある菱根の池に水葬された。
墓が造られないのは、国造は祖神である天穂日命と一体で、永遠に生き続けると考えられているから。
天皇は代替わりの儀礼である大嘗祭において、前の天皇に宿っていた天皇霊とでも呼ぶべきものをそのまま受け継ぐと考えられている。
神道には変化がない。
国造家ではこの慣習がはるか昔から受け継がれている。昔から変わらず、それを受け継いでいくことが根本的に重要。
国造のふるまいは、一般のヒトビトn目に触れないところで行われる。
国造以外には、国造がどうやって火を保ち続けているのかも、どうやって調理しているのかもわからない。見た者がいない。
そこに変化があるのか、外部の人間が判断することができない。
外部と無関係に営まれてきたことだけに、外部の変化に応じて中身を変える必要がない。
国造という存在は歴史を超越している。それこそが神道が本当に求めていることなのかもしれない。
<第11章 遷宮に見られる変化しないことの難しさ>
伊勢神宮内宮では寛正3年に第40回の遷宮が行われていたが、応仁の乱など戦乱が続いたため、次は123年後になった。
外宮は永享6(1434)年に遷宮が行われた後、永禄6(1563)年まで129年間途絶えている。
内宮は天正13(1585)年に遷宮が復活するまで、85年間にわたって正殿が失われていた。
外宮も相当に傷んでいたと推測でき、あるいは内宮と同様に正殿が失われていた可能性もある。
織田信長や豊臣秀吉が天下を統一し、造営料を寄進してくれるようになるまで、伊勢神宮は消滅の危機にさらされていた。
フランシスコ・ザビエルは、天文20(1561)年に上京し、天皇から布教の許可を得ようとするが、そのとき、天皇は京都御所のなかの掘立小屋に住んでいて、ザビエルを落胆させた。
戦乱のなか、とても遷宮の費用を捻出することができなかった。
伊勢社殿は古代と同じ姿ではない。
遷宮が復活した後描かれた「伊勢参詣曼荼羅」では正殿は朱塗りになっている。
延暦23(804)年に記された「皇大神宮儀式帳」では、棟持柱については言及されていない。
江戸時代の復古神道
賀茂真淵、本居宣長といった国学者が、日本の古典を研究するなかで、そこに日本独自の精神性を見出すようになり、古代へ回帰する復古神道の流れが形成されていく。
出雲大社の社殿
現在の本殿は、延享元(1744)年に建てられたもの。
それ以前、江戸時代初期の「杵築大社近郷絵図」を見ると、本殿は朱塗りになっている。境内には三重塔や弁天堂、大日堂があり、神仏習合の信仰が示されている。
延享元年の本殿は、その前に式年遷宮が行われた寛文7(1667)年の建物をそのまま引き継ぐ形で造営されたと言われるが、その際江戸幕府は、日光東照宮ほどではないにしても、組物を多用し、下方が開いて蛙の股のような形をしている装飾的な蟇股を配した建物にすることを考えていた。
これに自清が異議を唱え、粘り強く交渉を続けることによって、最終的に、今日のように装飾性に乏しい直線的な部材を使った、古代を彷彿とさせる建物となった。
伊勢神宮も出雲大社と同じように、江戸時代になって今日の姿をとるようになったのではないだろうか。
伊勢神宮の前回の遷宮は327億円、今回は550億円にのぼる。
さらに必要な檜が手に入らなくなっている。
現代においては変わらないということがとてつもなく難しい。
<第12章 救済しない宗教>
僧形八幡神像
平安時代初期の九世紀からしばらくの間、神道の神像がさかんに造られた。
仏像にそっくり。
多度大社の境内に建てられた多度神宮寺の「多度神宮寺伽藍縁起しょう資材帳」によれば、満願禅師という私度僧が道場を建て、阿弥陀仏を造立したところ、多度神の信託が下った。多度神は輪廻をしていくなかで重い罪業を犯してしまい、神道の世界に生まれるという報いを受けた。そこから救われて仏教に帰依したいという。
神道の世界には救いがなく、仏教にすがるしかない。
平田篤胤
死後の魂の行方に強い関心を持ち、仙界を訪れたと称する人間に会って聞き書きし、仙界の姿をあきらかにしようとした。
死後の魂が仙界において救われることを示すことで、神道独自の救済論を打ち立てようとした。
神道系の新宗教は、こうした考えを取り入れて、それぞれの教団に独自の救済の仕組みを整えようとした。
柳田國男も影響を受け、先祖供養を核とした土着的な信仰世界のあり方を体系化しようとした。
神道全般では、こうした救済論を確立しようとする動きは少数派だった。
一般に、宗教への入信動機は「貧病争」。
貧さからの脱却、病の治癒、家庭内の争いからの解放を求めて宗教にすがる。
新宗教、教派神道にはこうした点が入信動機になる。
人々は神社神道に対しては、そうしたことを期待しない。
神社で手術がうまくいくことを願ったりするが、病気そのものを治してくれるよう求め、神だけにすがったりしない。
日本人は神道に対して、現状がそのまま無事に続いていくれることや、少し状態が改善されることを望むが、今抱えている悩みや苦しみから根本的に救ってもらうことを望んだりしない。
神前で神に祈るよりも、密教僧による祈祷のほうがはるかにご利益があるのではないかと考えてしまう。
<第13章 姿かたちを持たないがゆえの自由>
神道では偶像崇拝は禁止されているわけではない。
神が姿形を持たないがゆえに勧請や分霊できる。
私たちはどの神社を訪れたとしても、姿形をもたない神に祈っている。
逆に、神が姿形を持ったり、人格が明確になると、神々しさを失うのではないかという感覚を持っている。
神とのかかわり方や儀式が教えとして明確化されているわけでもなければ、神道家が理論化したわけでもない。
規制するものがないにもかかわらず、その形が保たれている。
何ものもないがゆえに、揺るがない。
<第14章 浄土としての神社空間>
平等院鳳凰堂
藤原頼通により永承7(1052)年に創建。日本では末法の世が到来した第1年とされた。
浄土式庭園。
木津川の浄瑠璃寺
西方極楽浄土と東方極楽浄土が一つの空間に表現されている。
中世の仏教寺院は、規模の大きなものの場合、さまざまな方面から寄進を受け、莫大な荘園を保有していた。
興福寺は奈良県全体の土地を寄進されていたため、鎌倉幕府も室町幕府も、奈良に守護を置くことができず、興福寺が代行して役所として機能していた。
寺院は世俗の空間だった。
高野山は仏教の聖地とされているが、商店が立ち並び飲み屋だってある。
神社が神のための場所であるのに対し、寺院は人のための場所である。
寺院からは人の生活の匂いがする。
寺院空間は、必ずしも神聖さを保ってはいないし、浄土としてとらえるわけにはいかない。
神社には世俗性がない。
<第15章 仏教からの脱却をめざした神道理論>
吉田神道
吉田兼倶が唱えた。
応仁の乱で京都が戦乱に巻き込まれ、朝廷の儀礼や祭祀は中断された。
伊勢神宮の遷宮も中断された。
兼倶の屋敷や吉田家が神職をつとめていた吉田神社が焼失し、神社周辺の住民たちが殺された。
兼倶は強い危機感を抱き、新たな神道理論を構築し実践していく。
吉田家では、公家や武家の支持を得て、神道の裁許状を発行したり、神号を授与したり、神職を任命する権利を獲得した。それは江戸時代に幕府によって出された「諸社禰宜神主法度」によって制度化され、吉田家は神職の総元締めの地位を確立していく。
各地の神社は吉田神道の傘下におかれた。
中世には仏教の影響を強く受けた神道理論が唱えられたのに対して、近世に入ると、儒教の影響を受けた神道の理論が唱えられるようになる。
神道から仏教色を取り除くことに貢献したものの、やはり外来の思想である儒教に影響された。
国学
仏教と儒教の影響を排除して、神道に独自の理論を打ち立てるために、日本の神話や古典文学に根拠を求めた。
国学四大人: 荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤
日本人の信仰世界には、仏教や儒教など、外来の宗教の影響が強かった。神道は仏教や儒教を取り入れて、その時代に即した信仰世界を築き上げてきた。
ところが国学者はその価値を否定し、外来の影響を徹底して排除しようとした。
国学はナショナリズムにもとづくイデオロギー的なものとなった。
平田篤胤
数日間食事せず、ろくに眠らず作業する。
「霊能真柱」を書いた後、異界に強い関心を持ち、仙界を訪れた人に会って話を聞き著作にまとめた。
<第16章 神道は宗教にあらず>
本地垂迹説に対して、中世には神道側から神本仏迹説(反本地垂迹説)が唱えられた。
これは神のほうが主で、仏のほうが従だとする考え方だが、本地垂迹説ほどには広まらなかった。
仏教が複雑な世界観を発達させた上、高度な学問や儀礼が含まれていたため、神道には太刀打ちできなかった。
廃仏崇儒
朝鮮半島では李氏朝鮮の時代に数多くの寺が廃された。
日本では権力者が儒教や道教に深く傾倒して、仏教を否定することがなかったため、廃仏という方向には向かわなかった。
皇室祭祀
近代における天皇は、神であると同時に、祖神などを祀る神主。
出雲国造のあり方に似ている。
江戸時代までの天皇家では、仏教の信仰も実践され、泉涌寺が代々天皇の菩提を弔う菩提寺だった。
宮中にはお黒戸という仏間があり、歴代の天皇や皇后の位牌が祀られていた。明治には追いやられお黒戸は泉涌寺に移されてしまう。
そして宮中には、新たに賢所、皇霊殿、神殿からなる宮中三殿が設けられ、天皇を中心とした祭祀が営まれるようになった。
過去の天皇は熱心な仏教信者であり、東大寺などその発願で建立された寺院も少なくない。
ところが明治になると、天皇家から仏教関係の信仰は一掃されてしまう。
神道の祭祀への参加が国民全体に強制されていく。江戸時代には事実上、仏教が強制された。今度は神道。
神道は宗教にあらず
明治22年(1889)発布された大日本帝国憲法明治憲法では、信教の自由が認められた。
神道は国家全体の祭祀であり、特定の宗教の実践ではないとされた。
神道が、開祖も、教義も、戒律もない宗教で、宗教の本質的な構成要素を欠いており、伝統的に受け継がれてきた社会的な慣習であるという側面があり受け入れられた。
戦後神道が国家祭祀として強制された体制は、国家神道として批判に対象となる。
キリスト教徒との間には軋轢が生まれ、現在まで影響を与えている。神という神道用語を、キリスト教にも応用したことに問題がある。
<第17章 「ない宗教」から「ある宗教」への転換>
幕末維新期から新しい宗教が台頭する。
黒住教、天理教、金光教。
天理教
天保9(1838)年10月26日を立教の日としている。
中山みきはお産の神様として、天理市周辺の妊婦の苦しみを助ける活動をして信者を増やしていった。従来のお産にまつわるタブーを否定し、合理的な教えを説いたが、一方で妊婦の腹に息を吹きかけたりなでたりするまじないに近い行為も実践した。
山伏などの民間信仰と対立し、迫害を受けた。
そこでみきの長男である秀司は、ツテを頼って京都の吉田神道の吉田家に入門して修行し、中山家に戻った後吉田神道の儀礼を実践した。
明治になり吉田家が神道の総元締めとしての地位
を失った。
明治7年には、神祇省から改組された教部省によって、呪術的な信仰治療を実践し、医者や薬を否定する行為が禁止された。
当時の天理教は「ビシャッと医者止めて、神さん一条や」と説いていたため取り締まりを受けた。
明治13年には大阪府から、今日の軽犯罪法にsたる違警罪の一項として、「管許を得ずして神仏を開帳し人を群衆せしめしもの」が取り締まり対象となった。
天理教は教祖や幹部が逮捕され、拘引された。そこで天理教は、高野山真言宗の金剛山地福寺の傘下に入り、転輪王講社という組織を作った。講社の社長を地福寺の住職が務め、秀司が副社長となった。
神道から密教への転換。
天理教が教派神道の一派として認められるためには、国家に対して従順な姿勢を示す必要があった。そのため人類の創造を語る独自の神話が存在したものの、それを表には出さず、国家神道の考えを大幅に取り入れた教典を作るなど、体制に迎合した。
戦後に日本国憲法のもと信教の自由が確立されると、中山正善のもとで、国家神道の影響を受けた教えを元に戻す復元という試みが実践された。キリスト教をモデルにし、一神教的な側面を強調し、新約聖書の福音書に似た形で教祖の伝記を作り上げた。
天理教は、人類発祥の地という聖地を持ち、神と同一視される教祖がいて、聖典のある宗教。
神道13派 戦前における教派神道
神道大教、黒住教、神道修成派、出雲大社教、扶桑教、實行教、神道大成教、神習教、御嶽教、神理教、禊教、金光教、天理教。
教祖がいて、その教えに基づいて組織されていたのは、黒住教、金光教、天理教だけだった。
<第18章 神道の戦後史と現在>
昭和20年12月に、GHQが日本国政府に対し「神道指令」を出し、信教の自由の確立、軍国主義の排除、国家神道の廃止、国家と宗教の分離が指示された。
これにより神社神道は国家による財政的な援助を受けられなくなった。
寺社領を奪った明治4年(1871)年1月の上知令により、神社の境内地は固有になっていたが、それは無償、あるいは有償で神社に譲渡された。
戦没者にかんしては、無宗教の国立追悼施設を作るべきだという主張があり、政府も検討を進めてきたが実現に至っていない。
明治神宮は大正時代にできた新しい神社だが、周囲を杜によって囲まれるようになっていた。
創建当時に境内に木を植える際に、安定した状態をはやく迎えるよう、樹木の種類や植える場所が研究された。
グローバル化が進んでも、民族宗教という枠のなかにとどまっている神道は、その影響も受けることがない。
国境を超えて外に広がっていく必要はないし、日本にやってきた海外の人たちも、自分たちの信仰はそのままに、神道にかかわることもできる。神道には教えがない分、他の宗教と対立することもない。
神道は融通無碍。
神社には拝観料がない。神社には美術的な価値の高い像や画、建造物がない。
仏教は教団を組織することを基本とするが、神道は本来教団を必要としない。
教団があれば、その世界はメンバーだけのものとなる。
教団がなければ、あらゆる人のためのものである。