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個人的ケチのお作法

自分はケチです。
自他ともに認めるほどの。

ただ、自分なりにケチの作法ってものがある。
なんでもかんでも出費を惜しむのは無粋だと思っているからだ。

①「自分に対して」だけ慎ましく

ケチって自分に向けてそうしているだけ、でありたいと思っている。

なんでもかんでも外食にしない、とか消耗品は安いやつでいい、食品は安いスーパーを選んで買う、とか自分に対してお安くあればそれで完結させたい心がある。

他人にそれを強いるのはもう悪だと思う。
向こうは向こうの基準があるわけだし、それに自分の基準を強いたり、押さえつけるものではあってはいけないと思う。

②「他人に対して」気前よく

前項と繋がるけれど、友達と食事に行ったりとか遊んだり、旅でも良いけれど、そこではケチらない。
楽しむときはカネのことなぞ考えない。
できることなら、常日頃から考えずに過ごせればこんなケチの作法がどうの、と講釈を垂れずとも豊かなお人柄になれるのだろうが、貧乏人はそういうわけにはいかない。

気前よく、とはいえ食事を奢るとか、高価なオプションを付けるとかやたらブルジョアなことはしない。「身の丈の範囲で」気にせず楽しむ、ということ。
庶民の自分だから、自分の食べた分は自分で、とか。
この前多く支払ってくれたから今回は自分が、とかそんなギブアンドテイクを無意識に、当たり前にやる。これしきでしてやったりアピールしちゃうのは個人的にアウトだ。

学生時代、それすらケチっていた人を幾度見てきたが…そこまでくると害悪だと思う。
なら、来なかったらええやん、と毒づくことも幾度あったことか…

金の切れ目が縁の切れ目、というのはこういう仕草があるように思える。

③使うときは惜しまず

これも全てに繋がる。

ご祝儀の相場が友人なら3万円…とかでも付き合いが深くて3万円じゃ足りないと思えばそれより多く包む。
不幸でもそう。
こういうときに出し惜しまない。
どれも大きな出費に変わりないし、いずれ返ってくるものだし。
…多分ね。

「あまり出し過ぎても向こうが困るから…」ということもあるからそこまで弾むことはないが、その過分は心として伝わって…るかな?

旅行でもそう。
普段なら買わないようなものでも銭を落とす。
ロスになっちゃいけないから実用的なものを。
それが思い出になるかもしれないし。
やらない後悔より~とも言うし。
というと結局食べ物系が多いような…

つまり

ケチというより倹約家、のほうがニュアンスとしては正しいらしい。
前者は何事も出し惜しむ人、後者は無駄遣いしない人のことを指すらしい。
ここまで普段は出し惜しみしながら、ここで講釈を垂れてる時点で面倒臭いヤツに変わりはないし、それを晒してる時点でケチなヤツだと思うからもうケチでいいです。

実際、ケチのほうが馴染みやすい。
だからそう名乗っているだけに過ぎない、と思っている。
全員にそう思われている自信はない。
だからもうケチでいいのです(2回目)

ただ、実際はそうでもないことは付き合ってくれれば分かってくれるらしく、自他ともに…とはいえ長い付き合いの友人からはそう言われたことはない。

倹約家精神でありながら、これからもケチとして精進する(?)

江戸時代の儒学者、貝原益軒という人も同じことを言っていたらしい。

身に奉ずること薄きを倹約とし、人に奉ずること薄きを吝嗇とす

吝嗇(りんしょく)ってケチのことです

この益軒さんの養生訓というのが、上記含めても名言が多いらしいので今度読んでみようかな…


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清水青庸
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