編集者というただの器。
出てこなかった人や文化に光を当てることにこそ、
↓
出てこなかった人や文化が放っている光を捉えることにこそ、
僕はそういうところに光を見出すんです
↓
僕はそういうところに光を見ます
これは最近受けた、とあるインタビュー記事の校正戻しの一部。僕が秋田県に通い、よそ者の編集者として秋田の暮らしにある宝物を見つけていく様を語ったときの言葉だったと思う。ずいぶん細かいところを気にするなあと思われるかもしれないけれど、僕はこういう細部がとてもとても気になる。僕が、東京のメディアでお仕事されている編集ライターさんからのインタビュー原稿の仕上がりに満足することが少ないのは、そもそもの立ち位置が違うからなんじゃないかと考えている。今回はそこについて書いてみたい。
ちなみに、インタビュー記事なんだから、そもそもあなたが言った言葉なんでしょ? と思われるかもしれないので言っておくと、僕はこの修正指示部分を強く意識しているので現場でもこういう言葉遣いはきっとしない(手元に音源があるわけじゃないから「きっと」にしておきます…弱気)。これは、ページ数に伴った文字数の制約のもと、言葉が短く整理されていくなかで起こったんだと思う
出てこなかった人や文化に光を当てることにこそ、
僕はそういうところに光を見出すんです
僕はこの「見出す」とか「光を当てる」と言った言い回しが好きではない。だってそこに既に光があるから捉えただけで、僕がそこにスポットライトを当てたことで浮き出てきたわけじゃない。道端に咲くふきのとうに春を感じるような、そんな僕のなかの気づきや発見であって、ふきのとうはすでにそこにじっとあったのだ。
地方でさまざまな編集に取り組んでいると、そのことを都会の人たちが取材してくれることも多いけれど、みなさんとても無自覚に「見出す」とか「光をあてる」という言葉遣いをするので驚く。僕にとっては、それはやはりどこか、上から目線で失礼な気がするのだ。逆に「あの人が見出してくれたおかげだなあ」なんて思うことはあっても、自分の手柄を高らかに掲げるような年齢でもないし「僕が見出した」なんて言葉を僕は使わない。
以前もこのnoteで書いた気がするけれど、僕は民藝運動を推進した河井寛次郎のこの詩がとても好きだ。
「物買ってくる 自分買ってくる」
これを編集者に置き換えるなら
「光を捉える 自分を捉える」
なのかもしれないと思う。編集視点で光を捉えるということは、それをきれいだと思ったり、素敵だと思ったりした自分自身に向き合うことであって、それを声高に叫ぶようなことではないのだと思う。僕はそこに光を見た。ただそのことを文字にしたり、記事にしたりする。そのことが、結果的に意味をもったりするのだろう。
民藝の魅力は無名性にある。生活の必然で生まれた器の裏には◯◯作という作家名は刻まれていない。そこにある美は、誰かが作為的に作ったものではなく、言わば、後からついてくるものだ。編集者の仕事もある種の無名性に魅力があるのだと思う。
先日、とあるトークイベントに呼ばれて、ミシマ社代表の三島邦弘くんと、MBS毎日放送アナウンサーの福島暢啓さんと三人で鼎談をさせてもらったのだけど、その際も、そう言った無名性の話になった。現場でインタビュー取材をする福島アナが、仕上がりのVTRを見て、質問者である「自分の声がカットされていればいるほど嬉しくなる」と話してくれて三島くんも僕もとても共感した。
つまり、冒頭の文字修正のポイントはここだと僕は思う。都会の人がみんな自分を売りたいと思っているとは言わないけれど、やはりどこかで民藝的無名性ではなく、作家的有名性を良しとするところがセットされているんじゃないだろうか。そこを起点に記事をまとめていくから、悪気なく「光を当てる」とか「見出す」といった言葉遣いになってしまう。
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