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短編小説『初恋のヴィーナス』1話完結
~君が僕に残したモノ~
中学3年の夏休み。僕は君に恋をした。
夏休みの図書室は、
週に3度解放され、
受験生の僕は、塾の帰りに度々立ち寄った。
ミーン ミーン ミーン・・・
クーラーが効いたひんやりとしたフロア。
蝉の鳴き声も心地良く、
新緑が作る木漏れ日に、額の汗も引いていく。
ガラッ。
扉が開くと、
ムッとした生ぬるい空気が入り込み、
その度に、僕らは机から顔を上げた。
その様子に、後ろ手で慌てて閉めた生徒は、
冷やされた室内に、救われたように息をついた。
僕が図書室を利用し始めて5日ほど経ったのだが、
他の生徒の顔ぶれはいつも同じで、
皆、僕と同様、分厚い参考書を広げていた。
その日も僕は、塾の帰りに図書室に立ち寄った。
いつもの顔ぶれを確認し、
すっかり指定席となったビデオブースの脇の席に荷物を置き、
椅子を引いた。
その時。。。
「いつもと同じ」じゃ無いことに気付いた。
図書室の長い机の斜め前に、1人の女生徒が座っていた。
常連達は殆ど、1人1つの机を利用して、
参考書や問題集を思う存分広げていた。
僕もそのつもりでいたが。。。
他の机も空いていたから、
そちらに行こうかとも思ったけれど、
席につくつもりで椅子を引いたのに、
その女生徒がいるからそれを止めるのも気まずかった。
今日は、歴史の復習だけだから、
そんなに時間もかからないだろう。
僕はそのまま席についた。
チクタク チクタク・・・
静かなフロアに小さく刻まれる時計の音。
そして、それぞれがめくるページの音。
静けさの中の、
不快を感じない音たちに、集中力が増していく。
(あれ?無いなぁ。。)
今日、塾で配られたプリントが無い。
僕は、机にかじりついていた背中を起こした。
気付けば、いつの間にか、
机いっぱいにプリントや参考書類を広げていた。
その最先端は、斜め前の女生徒のすぐそばまであって、
僕は慌てて掻き集めた。
その時初めて、
彼女が読んでいる書物のタイトルに気付いた。
『ギリシャ神話の神々』
(受験生じゃないのか。。珍しいな。)
彼女が見ているのは、絵画集のようだ。
受験勉強目的以外で、
夏休みの図書室を利用するのは珍しかった。
夏休み中は、新たな貸し出しは行っていない。
だから、利用するのは、僕たちのように、
塾帰りなどの自習室として訪れる受験生ばかりだ。
大きく、見るからに重そうな絵画集の、
見開き左半分を机に置き、
右半分を立て、肘をついた右腕で支えている。
顔は、立てられた表紙に隠れていたが、
右半分と表紙を支えている腕は、
夏だというのに、白く美しかった。
ー次の日ー
図書室は、平日の1日おきに解放されるので、
今日は塾の自習室を訪れた。
自習室の机は、図書室のと違って、
細く、椅子も固定されていて、
姿勢も制限されてしまう。
1席置きに着席してはいるが、
何十人、いや、100人は超えているだろう受験生の熱意が室内に漂い、
息苦しかった。
(やっぱ、苦手だなぁ。)
僕は、1時間もしないうちに、自習室を出た。
ミーン ミーン ミーン・・・
自転車置き場で、
500mlのペットボトルを取り出し、
半分ほど残っていたお茶を、一気に飲み干した。
自転車で家まで15分。
水分補給は重要だ。
本屋の前を通りかかったところで、
新しいマーカーペンを買いに寄ろうか迷ったが、
お茶を飲み干してしまった喉に、
既に渇きを感じ始めていたので、
そのまま通過した。
ー図書室の解放日ー
昨日寄れなかった本屋で、
マーカーペンとルーズリーフを買い、
本屋の紙袋を手にしながら図書室の扉を開いた。
今日は、指定のあの席に、あの女生徒はいなそうだ。
僕は、ぬるい外気を断ち切るように、
急いで扉を閉めた。
席につき、紙袋からマーカーペンだけを取り出して、
ルーズリーフは紙袋に入れたまま、カバンにしまった。
僕は、大学は文系の学部を希望している。
進学希望の高校も、
なるべく理系科目は必須科目だけにし、
文系の科目に力を入れるつもりでいる。
文系の受験科目は暗記モノが多い。
マーカーペンの減りも早い。
新しいマーカーペンで引いたラインは、気持ちがいい。
今日は勉強がはかどりそうだ。
図書室を見渡す。
周りの皆んなも頑張っている。
誰も席を立たずに、勉強に集中している。
いつも通りだ。
(あれ、誰かいるな)
正面の本棚で、1人の女生徒が本を引き抜いているのが見えた。
大きな本を抱えて歩いてくる。
そして、僕の斜め前の席に座った。
(なんだ、こないだの子、来てたのか)
女生徒は、大きな表紙をめくった。
一昨日は、右腕だけしか見えなかったが、
席に歩いて来た時の横顔は、
とても綺麗だった。
開かれた表紙には、
前回と同じタイトルが書かれてあったが、
描かれた絵は違っていた。
2巻と言ったところだろう。
相変わらず彼女の右腕だけが見えていて、
相変わらず白く、美しい腕だった。
それから僕は、図書室に訪れる度に、
彼女の姿を確認するようになった。
いつものように、
僕の斜め前の席に座っていたり、
本棚に向かっていたり。
本棚のある通路をうろつく事は無く、
居る時は必ず『美術関連』の前にいた。
本棚に向かう横顔は、
涼しさも暑さも感じさせない、
ただ美しい横顔だった。
彼女に気を取られて、勉強に集中出来ない。。。
と言う事は無かった。
むしろ、視界の隅の方で彼女を感じる事に、
心地よさを覚え始めていた。
正面でも無く、横でも無い。
斜め前の対極にいる静かな存在が、
とても心地よく感じた。
見えるのは、毎回違う絵画集の表紙と、
本棚から戻る横顔と、
白く綺麗な、右腕だけ。
ーその日、彼女は現れなかった。
夏休みもあと1週間となった月曜日。
土曜日は、塾の模擬試験を受け、
日曜日は、受験の年くらいやめて欲しい宿題の読書感想文を仕上げた。
週が明ければ、彼女に会える。
僕はいつの間にか、
右斜め前を見るのが、癖になっていて、
彼女に会うのが楽しみになっていた。
ただ同じ机に座っているだけだったけど、
受験の雰囲気が漂う図書室で、
彼女だけは、柔らかかった。
次の解放日も、
その次の解放日も、
彼女は現れなかった。
最後の解放日もやっぱり。。。
僕は、彼女がいつも眺めていた絵画集が並んでいる本棚の前に行ってみた。
『ギリシャ神話の神々』
本棚の仕切り棚が1段外されて、
2段分の高さがあるその絵画集は、
全部で8巻あった。
(読み終わったってことか。。。)
僕の指定席はまた、
貸切りに戻ってしまった。
ミーン ミーン ミーン・・・
最後の力を振り絞るかのような、
蝉の鳴き声がフロア内に響いていた。
ー11年後 夏
「あの〜、この作家の新刊は入りましたか?」
「あぁ、コレね。特に予定はしてなかったけど、
いいよ!次の購入に入れておいてあげるよ。」
「本当ですか!ありがとうございます!」
「ただ、夏休み明けからの貸出しになると思うけど、平気?」
「いいです。夏休み中は、今までの分を全部読むつもりですから」
「そうか、じゃあ2学期になったら取りにおいで。取っておくから。」
「はい!よろしくお願いします。」
あれから何度、夏が巡って来ただろう。
あの夏に出会った彼女。
結局、新学期になっても彼女を見かけることは無かった。
僕は希望校に合格し、
それなりの楽しさの中、高校生活を過ごし、
大学4年間は、福岡で過ごした。
そして今、地元に戻り、
中学の図書室で、司書として働いている。
初恋だったのかもしれない、
あの夏こそが。
何度も巡ってきた夏に、
僕は彼女を思い出す。
記憶の中にあるのは、
あの美しい横顔と、
白く綺麗な右腕だった。
「先生、コレ延長して下さい。」
「はいはい、次は来週の水曜日までだからね。」
「はーい。」
職員室までの渡り廊下。
新緑が作る木漏れ日。
ふと巻き起こった夏風に、
僕は爽やかな初恋を思い出す。
ー君が僕に残したモノー
僕は毎年夏休み前に、
図書室の入り口に特集を組んだ。
『ギリシャ神話の女神 ヴィーナス』
ヴィーナス。
きっとそれは、彼女だった。
僕にとっては。
今でも彼女は僕の中にいる。
姿を消したヴィーナスを、
初恋と言うアルバムに、そっと残したまま。
ミーン ミーン ミーン・・・
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