エッセイ『ロマンス』
都内の主要駅の地下通路には、
平日なんて言葉は無い。
駅に着いて、地上に出るまでに、真っ直ぐ進むなんて出来っこ無い。
ぶつかり合いそうな肩をかわして、歩くようにすり抜けていく、人ごみ。
地下の食品街では、色々な食材の匂いが混ざり、地上に抜けずに地下通路に漂っている。
地上に出る階段を駆け上り、歩調を緩めて大きく深呼吸する。
ほら穴からようやく出ても、
地上の排気に泣かされる。
上京してから今年で10年。
転勤を繰り返した私にとって、暮らす土地を変えると言う事に対して、大きな決断は必要無かった。親と離れて暮らす事以外では。
10年も経てば、大体の事は分かる。
どの駅が乗り換えに適しているのか、
どの駅周辺が1番遊び易いか、
どの時間帯が電車が混んでいるか。
そして、選ばれた場所に出掛ける事が増え、新しい土地開拓へ踏み切る事も無くなっていた。
携帯電話をいじりながら歩いても、足は歩みを続け、気付けばちゃんと改札口まで来ている。
大学生時代に身に付けた感覚のおかげ。
地下街に店を構えるテナントも、数ヶ月単位でフェイスを変え、こちらとしては色々な味を同じ場所で楽しめる、都合のいいサイクルだ。
目印は店じゃなく、改札から流れる放送だったり、柱だったり、人の流れだったり。
意識の外で、多くが私を導いてくれる。
それは、まいぶれも無く訪れた。
人ごみの中、通り過ぎたコロンの香りに、ふと足を止め、振り返る。
まだ消えきらない想いが蘇る。
後ろ姿を捉えても、それはすぐに人ごみに消えてしまう。
かき消されたコロンの香りは、その余韻だけを残したけれど、私の記憶を充分に刺激した。
流れに沿って進めていた歩みを失うだけの威力があって、人ごみをかわしていた体に、多くの肩がぶつかる。
「すみません、、、すみません。」
心の動揺を隠すように繰り返し、通路の脇まで出てくると、食品街の生ぬるい空気に思わずむせてしまった。
本当にかすかなコロンの香り。
食品街からは、こんなにも強烈な匂いが漂ってきているのに、見つけてしまう、感じてしまう。
はしゃぎ過ぎた季節とは正反対のこの時期に、呼び覚まされた夏の記憶。
それは、あの人とのロマンスの夏。
10年の間に経験した恋の持ち合わせはいくらだってあるのに、どうしても消えきらない。
日常を楽しく過ごしていれば、思い出す事は殆ど無いのに、きっかけ1つで、こうまで私を引き戻す、あの夏へと。
どの人とも訪れたこの駅地下街でも、買い求めた店たちの姿が消えれば、一緒に思い出も薄れていく。
そう言えばここは・・・と思っても、ちゃんと過去に出来ている。
改札口まで辿り着き、ICカードで通り抜け、帰宅の電車へのエスカレーターに乗ると、吹きっさらしのホームから冷たい風が吹き込んできた。
風さえも、こうして冬を伝えているのに、蘇った夏はなかなか通り過ぎてくれない。
帰宅ラッシュ少し前の電車に間に合い、それでもシートは殆ど埋まっていて、わずかに空いたスペースに腰を下ろす。
電車に揺られ、落ち着きを取り戻した心は、
不思議と軽かった。
蘇った記憶を、心地良く感じている。
そう、私は悲しんでるわけじゃない。
取り戻したいと、願っているわけじゃない。
『いつまでも、大切に想っている』
ただ、その事だけを伝えたい。
けれどきっと、直接伝える事は出来ないだろう。
それならば、ずっと自分の心に刻み込んでしまおうか。
急行電車が通過する駅のホームに立つ人たちを、目で見送りながら、それぞれが持つ物語を一瞬想像した。
「振り向かない」とか、
「思い出さない」とか、
心に否定を押し付けるのは、苦しみを生むだけだから、全てをありのまま、心のまま従えば、きっと、思い出はカタチを変えていくだろう。
いつまでも、柔らかい私の心の一部として、
あの人との夏が、きっと、優しさに変わっていくだろう。
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