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育児コラム☆wing②妊娠の覚悟と胎名が決まった瞬間。

胎名が決まるまで

一度目の妊娠は、初期流産に終った。
持病がある私は、妊娠時期も服薬していないといけない、
いわゆる、ハイリスクママだった。

妊娠する事は、簡単な事ではない。理由もそれぞれだ。
私の場合は、不妊ではなく、妊娠できる体つくりから始まった。



結婚する時、主人に確認した。
「私は子供は諦めるように昔から主治医に言われてるのは知ってるよね?
それでも、私と結婚する?」

主人からの返事は数日後。
「子供が欲しいから結婚するんじゃない。
両親にも話した。両親も、孫が欲しいからお嫁さんを貰うんじゃない、
お嫁さんになって欲しいから、結婚を望んでる。」

私はその時、
あぁ、孫を抱かせる以外の親孝行はなんでもしよう。
この人を親にしてあげられない分、良い夫婦になろう。
そう強く思った。

そして数年後。
致死率70パーセントの事態になり、死の淵をさまよった。
思考も定まらない意識の中で、私は、
『この苦しみから解放されるのは、きっと治療じゃない、死だ。』
そう悟っていた。
それでいいと思った。
この人と結婚し、孫を産む為のお嫁さんとして扱わなかった義両親、
ずっと私を見守ってくれた両親、姉、友人。

私は、幸せだった。
幸せの中、このままゆっくり消えてしまうのも悪くない。

そして、私がいなくなれば、悲しみが癒えた頃、
主人は新しい人と家庭を持って欲しい。
その時にはどうか、この人を父親にしてあげて欲しい。

私は、生還した。
一度、その人生の終わりを悟った私は複雑だった。

『私は何の為にこの世に戻されたんだろう。』

入院生活は新薬が沢山入る大学病院だった。
そこで、持病の薬を、妊娠可能な薬に変える提案をされた。

戸惑った。
親になる人生を描く事を、強制的に排除してきた日々だったから。
けれど、この事態に陥らなければ、新薬を手に入れる事は出来なかった。

『私はこの為に戻されたのかもしれない。
 命を落としかけたのだから、新しい命を求めてもいいのではないか。』

そして、数年かけ、薬の量を調整し、妊娠に耐えうる体をつくり、
持病の発作をコントロール出来ているのか、
その見極めを主治医と模索した。

発作が落ち着いてきた頃、主治医が言った。
「服薬しながらの妊娠は、奇形児のリスクは数倍に上がります。
問題無い場合もあるし、奇形児となる場合もある。
でもそれは、健常者でも同じです。神のみぞ知る、と言う事です。」

急に怖くなった。
自分の持病に怯えながら、
私は産まれてくる子供の全てを受け入れられるだろうか。

神に生かされたと思って頑張ってきたけど、
その神は、結果を先に教えてはくれない。
結果次第で放棄するのか?私は。

自分は醜い人間だ、弱い人間だ。
親になっても良いのだろうか。

そのままの想いを主人に話した。
主人は、あっさり答えた。
「君との子供が、どんな子でも、
 可愛くない筈が無い。怖いなら無理する事も無い。」

涙が止まらなかった。

その涙は、嬉しかったから。
そして、この人を絶対に父親にする。
この人は、親になるべき人だ。
決意の涙だった。


一度目の妊娠が流産に終り、
数ヵ月後、再び妊娠した。

初期から暫く出血が続き、不安でしかなかった。
産婦人科で経膣エコーからお腹エコーに変わった頃、
「市役所で母子手帳を貰ってきてね。」と言われた。

出血は相変わらず続いていたけど、
エコーに写る我が子は、元気で、順調に育っていた。

市役所で母子手帳を貰った帰り。
私は、バス停のベンチに座っていた。
その日はどしゃ降りの雨で、足もとがぐちゃぐちゃ。

『大丈夫かもしれない、この子は産まれてくる。』

そう思った瞬間、木漏れ日を浴びたような匂いを漂わせた、
そんなそよかぜが吹いた気がした。
こんなにも、雨で濁った空なのに、
私には、とてもキラキラして見えた。

その時、胎名が決まった。

そよかぜちゃん

その日から、私たち夫婦は、
妊娠後期に入るまで、その名を毎日お腹に向かって呼びかけた。

自己紹介noteにも書いたオチもあったりするけど、
あの日、私の心に吹いたそよかぜは、うぶ声に変わり、
その愛しい声を、今もなお、私たちの側で響かせている。

※自己紹介noteは、プロフィールタブからも見られます。

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