カラフル
「うちの家族はみんな変わっているよなぁ」
そう兄が呟いた。彼はぼぅっと台所に立ち、麦茶を飲みながらこちらに話しかけてきた。
少し考えて「そうね。確かにね。」と私もぼそり。そういやうちの母はこのエッセイにも度々登場してきたが、いつ会っても全身花柄のピンクちゃんだ。趣味でベリーダンスを踊る永遠のハタチ(60歳)。はたまたお堅いサラリーマンだった父は、定年退職後Instagramにハマってなにやら農家に目覚め、今や無人直売所を作るためにオリジナルのロゴや屋号を決め青空の元せっせと農業に励んでいる。(やりすぎて熱中症になったりしている)そして当の兄は詩人。本屋で売っている冊子に載っているくらいの勢いがある病人だ(生まれつきの引きこもり&ペテン師)そしてわたしはヨガ講師の傍ら、カウンセラーのようなマッサージ師のような、三十を超えてもどこにも属さずフラフラしたまま。そういや私達の親戚にはコスプレイヤーや、ダンサーやインストラクターもいて皆がまぁまぁその界隈で有名になっていて。はたまたホテルの支配人や、パイロットまでいる。みんなどこか社会に飲まれてしまわないように虚勢を張る、アングラチックな家系ではある。
そこで話は戻るが。私はつい最近、その
「変わっている」みたいな価値観について
ひしひしと感じていることがあるんだ。
それは
「ひとは皆、変わっているんじゃないか?」
ってこと。私達家族が、というよりも、本来は人間みんながオモシロ可笑しく。自由で軽快な生き物だったんじゃないか?ってこと。
というのもある種、みんなが言う「ふつう」というのはルールのようになっているんだ。
「ふつう」から外れることはタブー。「ふつう」じゃないと困る。「ふつう」でいたほうがいい。そうしてみんなが「ふつう」を選び、個性を恐れるようになったのはやはり、教育の現場があったからだろう。
人並みから外れること、まわりと違う意見を持つこと、抜きん出ること、少数派になること、尖っていること、欠けていること。そのどれもが良しとされない日本の教育が背景にあったから。そうして「ふつう」の枠に狭く収まり続けたのが大人。
だからこそ、度々感じるのはみんなが「ふつう選び」に疲れているということだったりするよね。
誰もが同じ色に見えるし、同じような髪型、同じような服、同じような仕事、同じような毎日、同じじゃないといけない世界線。
冷たい毎日を、つまんなそうにしている。
不幸そうなのが「ふつう」なのかもしれないね。
少し派手な服を着ているだけで指を指されるそんなしょぼい世界だもんな。
話はそれちゃったけど。本当は誰もが変わっていて、それぞれの豊かさや、個性。欠けているものや、長けているものを持って生まれてきたんだと私は思う。それを隠して小さくまとめて奥にしまっての「ふつう」なんじゃないかなって私は思う。だから目立つ奴は潰したくなるし、成功者には嫉妬。自分の地味さに不貞腐れるんだろう。
だからやっぱり。みんながもっと、頭がおかしくなったみたいに歌ったり踊ったり、カラフルな洋服を着たり、髪を染めたり、盛大に失敗したり、それを励ましたり、抱きしめたり。そういった「ふつう」があったらいい。そんな世界線で生きてみたいと思う。毎日ひとつずつ、恐れていることにチャレンジしてみたいと思う。
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