「誰かに言われたからやる」とか、「誰かに言われたから辞める」とか。その程度ならやめたほうがいい。ほとんどの場合、自分にとって「本当にやりたいこと」ってもう気付いたら始まってるようなことだもの。
だから「いつか」とか「1年後に」とか言ってる時のその「いつか」は来ない。ほとんどの場合「いつか」はそのまま「いつか」だし。それはずっと「いつか」だと私は思う。それと
私の経験上、焦らなくても「本当にしたいこと」や「こうなりたい自分」があるときって、暮らしとかお金とか関係なくて。居ても立っても居られず立ち上がるものなんだと思うよ。そういうことが正しいとか、間違っているとかはさておき。
人は、衝動がすべてだ。
目の前にピカッと光がさして、自分をぶっ壊されるような衝撃に出会ったら最後、誰のいうことも聞かないくらいのやつが始まるんだ。はじまったら泣いても笑っても、打ちのめされて怒られて、死にかけて倒れ込んでも。終わりまで駆け抜ける。そんな衝動があるところに人のエネルギーってある。それはあの一目惚れのような「恋」とも似ているよね。
「衝動」こそ生きる原動力なのだろう。
だから「らしく生きる」って本当は誰のせいでもない、自分の衝動のせいなんだと私は思う。
また、反対にそうした「衝動」がない時、人は生きていることに張りがなくなり、エネルギーなんてものはあまり感じないのかもしれないね。
ちなみに正直な話をすると、私は自分のそういう時や他人のそういう時がはっきりわかる。スピード感が速くなったり、遅くなったりすること。どっちが良いとか悪いとかじゃないよ。けど私自分が心地良いのはやっぱり、無我夢中の時だと思う。
そう言う話をすると、最近の私は失速気味かな。だから近頃は毎晩のように本を読み漁って、感動と出会うために世界へ目を凝らしてる。それで、たくさんエッセイを書いて、書いて、書いて、よく寝てる。
自分にできることをやろうって感じです。
そうして本を読んで学んでいる間や、エッセイを書いている間の私はあれこれ考えていない。死にたいもないし、生きたいもない。エネルギーはあまり感じないなぁと思うけど私には「今、自分にできること」をしているという自覚だけがある。
赤信号の間にぼぅっと突っ立っているようなことだけはしたくないな。
次に一歩踏み出す時、じぶんが空っぽだと歩みは鈍くなる。退屈なんて言わずに世界に感動し続けることって必要だよな。新しい自分に出会うまでにできることを淡々とやろうと思う。淡々と淡々と。