幸せなら手を叩こうの歌って幸せじゃなくても手を叩いちゃうよね
どうせ、だって、でも、だけど、だから。ネガティブな接続詞がわたしの口癖。どうにも自分が不幸でなければいけないような気がしている。
なにがキッカケかなんて思い出せないけど、気付いた時には自分がたくさんの人間が交わる人生の中で、最も格下だと思うようになっていた。今も思っている。あの子よりかわいくない、あの人より愛想がない、アイツみたいになりたくないけどアイツより生き方が不器用。そう思い込むことで自分を守っているのかも。誰もそこまで責めてないのにね。
「子供ほしくならない?」バイト先の居酒屋にきた家族の、髪がきれいなかわいい女の子を見ながら店長が言った。悩むフリをしながら(これってセクハラ?)と頭の中で考えているうちに「ほしくならないかー」と店長は笑っていた。
ほしくないわけじゃないけど、別に今すぐどうしてもほしいってわけじゃない。だっていない現状で満足しているから。それに「ほしい!」と思ったら枕元に吊るした靴下に赤ちゃんが入っているわけじゃない。色々と大変なことを乗り越えなきゃいけないし。
その過程を考えると、「ほしい」よりも「面倒くさい」が勝ってしまうのだ。だって赤ちゃんを授かるには(一般的に)パートナーが必要なんでしょう????これから初対面の人と知り合いになって、友達になって、恋人になって、夫婦になるなんて!子供を作るってのはめちゃくちゃ体力がいる。いや、下ネタとかじゃなくて。心も身体も。
そうなると「どうせわたしに恋人なんて」「だって恋愛って面倒だしわたしが1番かわいいし」「でもわたし1人の意思ではどうにもできないじゃん」「だけど恋愛って2人でするんでしょう?」「だから無理だよ」と不幸でありたいわたしが顔を出す。(魔の5Dと言うらしい。)
何やら面倒くさがることは幸せを遠ざけているみたいだ。不幸でありたいわたしと、面倒くさがりなわたしはイコールで繋がっている。
そんな事を考えながら複雑な笑顔を見せる店長を見て、「ああ、これを答えるのも面倒だ」と思い「でも、かわいいですよね。子供。できたらかわいくて仕方ないんだろうな」と当たり障りのないことを言った。
なんだ、面倒くさがってもポジティブな意味にもなるんじゃん。不幸でありたい面倒くさがりなわたしは、どうやらただ幸せになる方法を知らないだけらしい。何を面倒とするかで岐路が変わるみたいだ。人って勝手に幸せになっても許されるんだってよ。
不幸でありたいわたしはきっと、ちょっとだけ、ずっと幸せだったんだろうなと思った。それを認めないだけで。これから正面で幸せをキャッチできるように肩あっためておこっと。