感情体験は本来の自分の望みや在り方を思い出すためのカリキュラム
今日の空の青色は、また一段と澄み切っていて、とても綺麗でした。
さて、
存在としての優劣をつける
それを体験させられる義務教育
僕は、それを残酷なものとして体験しました。
その悲しさ、残念さ、意味について、
何かもやもやしていたのですが。
noteで自分の気持を文章で書いて表現してみたら、
また次の思いが出てきて、また考えてみたくなった。
やっぱ、書いてみるというのは、
自分の気づきになりますね。
ということで、シェアしていきます。
自分に取って居心地の良い居場所を選べるのが大人の特権。
その特権を持つことができたのは、
やっぱり義務教育のおかげのような気がしてきたのです。
先生たちへ、学校へ、親へ、
素直に感謝したくなる気持ち。
残酷で理不尽な、優劣をつけられる体験があって、
初めて、
人としてこれは、普通ではない。
本来の自分とは、こんなもんじゃない、
周りのモノサシで自分を評価されたくない、
自分の本当に求める物はなにか、
という、内発的動機を生み出させてくれた。
もし、最初から、何でも自由で、
頑張ることもない教育だとしたら、
こころの種は、こんなふうに芽を出すこともなかったであろう。
「僕たちを縛り付けて、一人ぼっちにさせようとした、全ての大人に感謝します」と歌った、甲本ヒロトの声が浮かんできた。
義務教育は、
多数派の大人社会に適応するための通過儀礼、
ではなく、
本来の自分の望みは何かを思い出すための通過儀礼、
だったのかも知れない。
と、ここまで思い当たって、ようやく、
なんだかスッキリした。
残酷さ、悲劇、苦しみ、理不尽、と思える体験は、
親や学校が存在してくれたから、感じて、体験できたことで、
その存在がありがたいと、自然に思う。
この、感謝、と言う気持ちも、
親や先生には感謝しなきゃ行けないから、感謝する、と、
感情をコントロールしようとしても、
中々できないし、とてもしんどくなってしまうけど、
感謝できない気持ちをしっかり体験することで、
感謝は自然に湧き出てくるものなのだなぁ、
というのも、気付きでした。
世間に疎くてよくわかりませんが、首相辞任ですか?
いっぱい批判の感情をぶつけさせてくれた存在だからこそ、
いま素直な感謝の気持ちに気がつく人が多いような気がする。
感情はコントロールするのではなく、体験するもの。
大きな存在は、自分に必要な感情体験を用意してくれている。
そんな仕組みが、働いているように思う。
安心して、怒ったり、泣いたり、寂しかったり、絶望したり、していい。
苦しみの中から気づいていくこのカリキュラムも、
ひょっとしたら最初から全部仕組まれていたのかもしれない。
小さな自分には知覚できない大きな仕組みの存在を、
信頼してもいいなと、また思い出させてもらったのでした。
というか、信じていなくても、忘れていても、
ちゃんと働いているから、大丈夫、ということですね。
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