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【聖絶】現代を生きる私たちにとっての意味

旧約聖書の中に、土地をイスラエル民族が占領するとき、先住民を人間のみならず家畜持ち物全部根絶やしにしなさいと神様が「聖絶」をお命じになる場面があります。時々、聖絶してしまうのを惜しんで、自分のために取り分けて隠す人が出てきて、その人が見つかって「聖絶」されちゃったりします。
私たちクリスチャンは、時々「聖書の神は残酷で、人を怒りで殺したり、聖絶を命じたりする。どこが愛なのか」という疑問や批判をぶつけられます。クリスチャンの方はこんな時、どう答えていらっしゃいますか。
いろいろな考え方があると思いますが、私はひとつの答えを持っています。
今日は無料記事ですので、最後までお読みいただき、得るものがあればご支援くださればと思います。

さて、私はカウンセラーとしてRCメソッドという心を扱うメソッドを構築しました。このメソッドは特にトラウマの分野に長けています。レイプや虐待といった深刻なトラウマも、全く影響なく生活できるまで回復できたという実績をたくさん上げています。
実はこのRCメソッドの技術を支える概念に【聖絶】があります。聖絶の概念がなかったら、完全な癒しは不可能でした。

どこから説明を始めようか、迷いますが、まず聖絶には、必ず領域が伴います。ある領域に入っていくときに、先にいる存在を滅するのです。残しておくと、後で生き残った者がイスラエル民族に悪い影響を与えるのです。

旧約聖書の時代は、神様と民との契約でした。民はひとかたまりで民であり、それを構成する「人間」が神様に従わないと絶たれました。「民全体」が混じり気なく神様に従うことが要求されたからです。

これが新約聖書の時代以降、神様と民から神様と個人との契約に移行します。(だからといって教会という単位が軽視されたりなくなるわけではありません。それについてはまた別の機会に)神様との契約に入った「ひとりの人間の全体」が混じり気なく神様に従うことを要求されるようになりました。
単位は変わりましたが、「全体が混じり気なく神様に従うことを要求されている」ことには変わりありません。

出エジプト記で、民は荒野をさまよいました。ある学者さん(名前忘れちゃったごめんなさい)が「神にとってイスラエルの民をエジプトから出すことは容易であった。しかし、民の心からエジプトを出すことは、神にとっても難しかった。」という内容のことを書いていたのを何かで読んで、膝を打ちました。現代まで、クリスチャンは罪を除くことができず、苦しんできました。選びによって救われたにも関わらず、罪を心から除くことができないためにさまよってきました。
神様に背いてはその刈り取りをし、苦しみ叫んでは憐れみによって助け出されることを繰り返すクリスチャンは、荒野をさまようイスラエルの民に重なります。

そろそろ、乳と蜜の流れる約束の地カナンに入っても良くない?
新約のヨシュア記に入ったと思うのですよ。

私は、クリスチャンとして歩むということは、
ヨシュア記でイスラエル民族がカナンを占領していったように、自分の内側という領土を神に従う者として占領していく作業を繰り返すことだと考えています。
私たち人間の心というのは多くの部分から成り、そのうちの思うより多くは、自分以外の人間に決定権を奪われています。本来自分の領土でありながら、支配権が他人のものになっているのです。これを境界線の破れと呼び、決定権を本人に戻して境界線を修復する、ということを技術として構築したのがRCメソッドです。

さて、そこで聖絶です。決定権が他者に渡っているものを取り戻す際、その他者の影響というものを残らず滅する必要があります。その上で、ご本人が支配権を持ったときに、心のその領域が完全にご本人に戻ります。
不思議と、心の場合共存はできません。支配権は、ひとつしかないのです。自分が持つか、自分以外の誰かが持つか、どちらかを選択するしかありません。

例を挙げましょう。クリスチャンであるにも関わらず、神様に愛されていると受け取れていない人がいます(意外と多いです)。なぜ受け取れないかというと、「自分の価値を決める」という領域を、他人(大抵は親)に占領されているからです。神様の愛という評価は、「自分の価値を決める」という領域の支配権が自分にないと、受け取るも受け取らないも決められないのです。「自分の価値を決める」という領域を取り戻すには、誰に支配権を奪われているかを特定する必要があります。次に、その特定した他人の支配を完全に除きます。それからやっとご本人がそこに入り、決定権を取り戻すのです。自分で決める権利を得て初めて、神様の愛を受け取るかどうかの決断をすることができます。これが私がカウンセリングで行っていることです。

ここで誤解しないでいただきたいのは、「決定権を神様に」はできません。決定権を自分が持ち、自分が神様に従うかどうかを決めます。神様は自由意志を尊重なさる方でしたよね。

この技術の概念は、ヨシュア記から教えられました。技術自体は他のいくつかの箇所からですけれども。
この聖絶という概念がなければ、支配権の移行という技術はうまく構築できなかったと思います。

聖絶は、「滅菌」に近い概念です。作りたてのジャムを滅菌したビンに入れて保存すると、1年以上長持ちします。しかし、ビンに以前入っていたものが残っているまま、洗わずにジャムを入れれば、そこから腐ります。

聖絶自体の概念は滅菌のようなものであり、大事なものであった、ということは伝わったでしょうか。

では、聖絶は残酷か?という問いについては、現代の倫理観を古代の聖書の時代に当てはめて評価することはできない、というのが私の考え方です。
動物が食べるために他の動物を殺すことが残酷でしょうか。生き延びるために殺すことは、残酷でしょうか。
人権などなく、法整備もきちんとなされていない時代、生かしておくことは自分の命取りになるということは、エステル記に出てくるイスラエル民族を滅ぼそうとするハマンが、第一サムエル記15章でサウルが聖絶しなかったアガグの子孫であったというつながりにも見ることができます。

人の命は尊く、等しく守られるべきものである、という考え方は比較的新しい、成熟した文化です。私は個人的には、神様は、時代時代の人間の理解の限界に合わせて事を起こしながら、現代を生きる私たちにも通じる普遍的なものを重ねて聖書に表している、と理解しています。現代に生まれたので感謝してそう思えるんですけどね。

そこには文化の違いがあり、現代を生きる私たちが「聖絶は残酷だ!」と言うのは、ヴィーガンの方々が「動物を食べるのは残酷だ」と言ったり動物保護団体が「イルカやクジラを殺すのは残酷だ」と言うのと同じように思います。人間の身体は動物性たんぱく質を必要とします。少なくとも、現代の常識はそうです。果物と種子類のみで生きる実験があることも知っていますが、その結果が万人に適用できるかはまだ証明されていません。
「そうやって生きてきた」文化を否定するならば、それに代わる文化や社会を提供できるのでなければなりません。数千年かけて成熟した、「聖絶を残酷だと思えるほど平和な社会」を今私たちは生かされているのです。

私は、カウンセリングを受けて涙を流しながら「万紀子さんに出会えなければ私は今頃死んでいました」とおっしゃる方々を見るときに、聖絶で亡くなった方々もいれば、その聖絶の概念に命を救われる人もいるのだ、と不思議な気持ちになります。
失われた命と救われた命が均衡するにはもっともっと広めなくては、と思うのです。

聖書はいつも完全で、必ず必要な答えがあります。人間がいつも読み間違えるだけ。


さて、聖絶についての考察でしたが、いかがでしたでしょうか。感想はコメントなどでいただけたらと思います。今回の記事は無料なので、多くの方々に読んでいただきたいなと願います。共感いただけたらSNSなどでのシェアも是非お願いいたします。(セルフプロデュースが下手なのです(ノ_<))
罪から離れるというテーマのヒントにもなると思います。またそういう記事も書いていきたいと思いますが、リクエストなどもいただけると嬉しいです。

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