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泡沫の美

アニメ『平家物語』を見ていると、様々な死の場面に遭遇する。
始めはびわの父、そこから様々な身分の人が、様々な理由で死んでいく。

病で死んでいくもの。
寿命を迎え死んでくもの。
討ち取られ死んでいくもの。
入水して死んでいくもの。

そこに至るまでもまた、様々な背景を持ってきている。



栄華を極めたものが没落していく様を、盛者必衰と思い、それが連なっていく様を、諸行無常と表現する。
世に溢れるディストピア小説的無常観とは異なる、日本的禅文化とでも言うのか、侘び寂びを感じる儚くも美しい無常観。

季節が巡るように、時代が巡っていく。
そこには、数多の栄枯・盛衰、数多の生・死。
平家が栄え、源氏が栄え、足利が栄え、豊臣が栄えたと思えば徳川が栄えた。
その中で、日の本の中心には常に天皇がいた。
誰が栄えようとも、頂点が天皇は変わらなかった。
ここに、海外にはない日本的無常観の真髄があるような気がする。



平敦盛の最期を見ていると、お前らは武士として生きているのかと問われているような錯覚に陥る。
あるいは錯覚ではないのかもしれない。
日本国民として、大和魂を持つものとして、恥ずかしくない生を全うできているのか。
腰から刀を手放した僕らは、代わりに何を手にしたのか。
一ノ谷の泡沫に有終の美を飾った彼に、胸を張って語れるだろうか。

武士として生きるとは何なのか。
そこには正解はないのかもしれない。
各々が感じる武士を、各々で表現すればいいのだろうか。
様々な場面で散っていった先達たちに、自分が表現する武士を認めてもらえれば、これ以上の誉はないだろう。



日本国民として生まれ、おそらく日本国民として死んでいく。
自国民が故のバイアスがあることは百も承知だが、それでもやはり日本文化を日本国民として感受できることに、最大の幸せを感じる。
西洋文化を受け入れ、和洋折衷した今、真の和に触れることは難しいのかもしれない。
それでも、八百万を感じ、自然の中で、自然に生き、自然に死ねれば最高だ。
自然に死んだ後に、僕だけの武士を先達たちに見せよう。
「どうだ、この俺の生き様は」ってね。

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Mayu Shiina
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