夢と現の狭間で
少し強めの慣性が目覚ましとして起こしたのは、通っている大学の最寄り駅だった。各駅停車の周期的な加減速が、揺りかごのような効果を発揮していたのか、気付かぬうちに寝てしまっていたようだ。
大学に着くまで暇だからと、読み進めていたはずの本は、押さえていた手から離れ、ページが巻き戻っていた。「フィクションの世界ならば、時間の不可逆性による縛りを、振り切ることが可能なんだなぁ。」と思いながら、読んだ記憶があるところまでページを進める。
アインシュタインが発表した特殊相対性理論が破壊した時間の絶対性は、今度はエントロピー増大則から抜け出すのか。クリストファー・ノーランは、『TENET』で見事に脱出してみせたが、あれはフィクションの世界だ。現実でそれを行うためには、マクスウェルの悪魔を召喚するほかないような気がする。
そんなことを考えていたら、発車ベルが鳴った。
この前行った本屋で見た、カルロ・ロヴェッリの『時間は存在しない』が気になったことを思い出しつつ、急いでいる素振りをなるべく見せないように、今にも閉まりそうなドアから出る。
改札を抜け、階段を下りる。
かつて交通事故が多かったのか、駅を出てすぐの交差点に配備されている警備員さんに会釈をしながら、またしても時間について考える。
そういえば高校の頃、世界は三次元空間に時間という次元をプラスしたもの、と聞いたことを思い出した。時間と空間の関係に思いを馳せながら歩く。
「いらっしゃいませ」
世界が存在するためには、空間に対して時間が関係していなければいけないような気がするが、はたして時間が関係していない空間を、世界とは呼べないのだろうか。世界が世界足るためには、時間は必要不可欠なものなのだろうか。
全然関係ないんだけど、モンスターのボトル缶は見つかるのに、レッドブルのボトル缶が一向に見つかんねぇのは誰かの陰謀か?
「レジ袋はいかがなさいますか?」
「大丈夫です」
話を戻そう。我々が生活しているこの世界は、確かに空間に対して時間が関係している。エントロピーによって方向が定められた時間の制約を受け、空間が時間軸の上を正方向に進む。
つまり、空間が時間の流れに沿って流れていくわけだが、これをあえて逆から捉えてみる。
『PayPay』
「ありがとうございました」
時間とはなにか。空間と関係しているならば、空間を使って説明ができるのではないか。
時間というものを、世界を時間で微分したもの、つまりある瞬間に存在する空間の連続として考えることはできないか。そう解釈した場合、時間というものは存在しないと言えるのではないか。
そうすると、空間の連続する方向を逆に出来れば、時間をさかのぼることは可能なのではないか。
『時間は存在しない』には、こんなフワッとしたものではなく、しっかりと根拠を持った話が載っているに違いない。というかそもそもこんな感じの話なのだろうか。今度本屋に行ったら買ってみよう。
時間と空間について長々と考え、途中のコンビニで、一向に見つからないレッドブルのボトル缶の代わりに、缶コーヒーを買いながらひたすら歩いていると、いつの間にか大学の西門の前に来ていた。考えながら歩いているときの、道中の記憶がすっぽり抜け落ちているのは僕だけじゃないはずだ。歩いた記憶はないのに、しっかり歩けていることが若干不思議だったりする。
スマホのカメラを起動する。大学に入る前に必ずQRコードを読み込まなければならないのである。近年流行している感染症の影響だ。
コードを読み込むと、大学側が設定したGoogle Formsのアンケート画面が出てくる。ありがたいことに、既に必要事項が記入された状態で表示されるため、実質ワンタップで済む親切設計だ。
すっかりこの生活にも慣れてしまった。約2年前に始まったニューノーマルな生活は、既にノーマルになってしまっている。終息を心待ちにしていた国民たちは、このニューノーマルを受け入れ、いつの間にか共存の道へと歩みだした。毎日発表される数字に右往左往し、大きな波が来るたびに、画面の向こうからは「テアライウガイ」のリピート。終息という全世界の夢は、まだまだ叶いそうにない。
西門を抜け、しばらく歩くと4号館が見えてくる。キャンパスに入構した学生は、この中に設置してある非接触型検温機器の前を必ず通らなければならない。家電量販店に置いてあるような、カメラ型の計測器で、正確に測れている気配が全くしないあの機械だ。きっと形式的なアレなんだろうなと思いながら通過し、映像が映し出されているであろうディスプレイの前に座っている警備員さんに会釈をしながら、この後どうしようか考える。
現在の時刻は9時28分。午後の工業力学の授業まで暇だ。どうしようか。
最近、大学図書館で時間を潰すことが趣味になりつつある。PCとタブレット、数冊の本を持って、特にやることは決めずに図書館という空間に浸る。そのうちやりたいことが浮かんでくるから、それをちまちまとやる。そんな時間が地味に面白い。今回もそのコースでいこう。
大学図書館は、入り口に学生証を通すゲートがある。前は、大学関係者だけを入れるためだけのゲートだったが、約2年前からはタイムカード的な役割も果たすようになったと予想している。
教室や食堂には、席ごとにQRコードが貼られていて、それを毎回読み取ることになっているが、図書館にはそれがない。そのことを考えると、僕の予想はそこまで外れていないのではないかと思う。図書館内は、飲むのは大丈夫だが食べることが禁止されているため、感染リスクを考えると使用した席を記録するほどじゃないのかもしれない。きっと入退場の記録だけで充分なのだろう。
そのゲートに学生証を通し、入ってすぐの階段を上って2階に行く。2階にはキャレルが設置されていて、ゆったりと作業をするのに最適なのだ。普段はこの時間になるとすべて埋まっていることがほとんどだが、入構制限のおかげで数席空いていたりする。こういうところは数少ない恩恵のひとつだ。ありがたいようなありがたくないような。
今日も空いていたキャレルに陣取り、PCを開く。以前クラウドファンディングで支援した、ある研究室のリターン品であるステッカーがこの前送られてきて、僕のPCにはそれが貼られている。閉じていても開いていても計算機自然化したマイPCは、見るだけで少し頭がよくなった気がする。これも一種のメンタルケアだ。
何をやるか考えることになるだろうと思っていた数秒前を大胆に裏切り、PCを開いた僕の指は、シームレスにGoogle Chromeを開き、noteを開いた。どうやら、最近書けていなかった雑記と名付けている思考記録をするようだ。
選んだ題材はコーヒーミル。半年ほど前から手動で豆を挽いていたのだが、先日ついに我が家に電動のコーヒーミルが参入してきたのだ。電動を使ってみて、確かに便利だが何かが違うと感じたときのことを、書きながら思考し、纏めながら書くことを繰り返す。
基本的にnoteに書くときは、知らぬ間に1000文字を超えていることがザラなのだが、今回はさらに1000字上乗せして書いていた。考えながら書いていた割には、しっかりと書けているし、量もあるしで、我ながら素晴らしい。
今日は結構調子が良いので、この調子であと2、3本は書けそうな気がする。ここまで調子がいい日も珍しいので、指が動くままに書いていこうと思っていたが、流石に3本目あたりで文構成がおかしくなってきたので、これ以上はやめたほうがよさそうだ。
時計を見ると11時30分を指していた。お昼を食べるには少し早いかもしれないが、昼時の込み具合を考えて、このタイミングで食べることにしよう。
食堂棟に向かいながら、1階の学食で食べるか、2階の学生生協の購買で済ますか考える。食堂の鉄板プレートも食べたいし、日替わりの定食も食べたい。でもお腹はすいてないから、そこまで量はいらない。惣菜パンだけで済ましてしまうか。いやでもそれは味気ないな。何にしようか。
学校がオンラインメインになってから、ペヤングを食べていないことを思い出した。今日は2階でペヤングを食べることにしよう。
この学校の購買には、ペヤングの普通サイズはなく、超大盛りか激辛とのハーフ、もしくはキャベツマシマシの3択になる。超大盛りは普通サイズの2倍の量が入っているが、正直このくらいの量が最適な気がしている。異論は認める。
モバイルSuicaで会計し、サクッと食べてしまう。お昼前という時間帯と、入構制限が相互作用し、人は3ソロと2デュオがいるくらいで、ガランとしていた。きっと1階の食堂もそんな感じになっているだろう。
今はどこの飲食スペースも、アクリル板が設置され、全国的に味集中カウンター化しているが、我が大学もそれに漏れず、全席にアクリル板が設置されている。それに加えて、隣の椅子をなくし、物理的に隣が空くようにしているほど徹底してソーシャルディスタンスを実施している。
そういえば、ソーシャルディスタンスという言葉が出てきてからしばらくして、フィジカルディスタンスと呼ぶ動きもあったように記憶しているが、あれは一体どうなったのだろうか。結局ソーシャルディスタンスで落ち着いてしまっている。
ついでに言うと、英語圏ではソーシャルディスタンスではなく、ソーシャルディスタンシングだというのも聞いたことがある。英語の品詞的にそれが正しいのだろうが、そんなところまで気にする人はいないだろう。
適当な場所に席を確保し、ペヤングにお湯を入れに行く。お湯を入れた後の待機時間3分を計るのに最適な、神山羊の「YELLOW」のMVを再生しながら、ただひたすら待つ。もし4分のカップ麺の場合は、同じく神山羊の「青い棘」のMVが最適だ。
でも正直なところ、ペヤングは2分半くらいの麵の堅さが一番好きだ。若干の噛み応えがある方が、しっかり食べている気がするのだ。
イヤホンから流れてくるYELLOWの途中で、お湯を捨てる。冷たいシンクにお湯がかかり、湯気が立つ。
落ちるお湯と、昇る湯気。この運動方向のベクトルの違いを生み出すのは、密度の違いだけ。世の中で当たり前に起こっている現象も、分析すれば科学的な根拠が存在する。
太古の人類が「神のみぞ知る」と言えば、近代化した人類は「神はサイコロを振らない」と言う。そうかと思えば今度は「神は死んだ」と言い、神の所在は何処へいったのか。
『インターステラー』で、土星のそばにワームホールを創り出し、クーパーを高次元空間に招待した“彼ら”の正体は神なのか。2045年を迎え、シンギュラリティを越え計算機自然化する近未来世界の、仮想と現実の垣根を消すAIたちがそうなのか。
確率論で成り立った量子世界で、いずれサイコロを振る必要はなくなるのかもしれない。いや、いつまで経ってもサイコロに頼ることになるのかもしれない。研究の当事者ではない我々にとっては、それこそ神のみぞ知るところに近い。
そうこうしているうちに食べ終わり、901号室に向かう。もうそろそろ工業力学が始まる時間だ。
ただひたすらに行列とベクトルの計算をする退屈な授業をこなす。神もサイコロもない。淡々と進んでいく授業。味気ないどころか味がしない90分間を終え、帰路に就く。今日課された課題は、週末に一気にまとめて片付けてしまおうか。
時刻は14時56分、ここから家まで約1時間半かかることを考えると、家に着くのは16時半か。夕刻の雰囲気に合う曲を探しながら、電車に揺られる。電車に揺られながら、90km/hで疾走する鉄の箱を感じる。
線路のすぐそばに生えている草木は90km/hで、遠くに見える山々は4km/hで流れる。前後のレイヤーごとに流れる速度が異なることは、流れている時間も相対的に異なるということ。しかしそれは見かけでしかなく、本当は自分の時間が遅れているだけ。我々鉄の箱軍団が周囲の草木から遅れている…。
そんなことを考えていたら、眠っていたようだ。目を覚ますとそこは大学の最寄り駅。腕に巻いた時計が示す時間は9時12分。大学に行き、図書館で作業をチマチマとこなし、退屈な授業を終え帰宅していると思いきや、ここまで全てが夢だったようだ。
荘子は胡蝶の夢を、僕は僕自身の夢を見た。夢なのか現なのか分からなくなった荘子と異なり、僕は僕の夢を見て、それが夢であり、今は現実であることを確信している。だがしかし、これすら夢かもしれないと説いたのが荘子であり、そんな夢の入れ子構造を見事映像作品に起こして見せたのが『インセプション』だ。
今見ているこの世界は、夢の現か、現の夢か。とにかく僕はこの世界が現だと信じ、大学に向けて歩を進める。