自由研究・思い出
僕はあまり後悔しないタイプだ。
やってきたこと、やらなかったこと。
その全てに意味があって、違う選択をしていれば
今、ここに僕はいなかったから…
↑マジでこう思っている系だ。
しかし唯一、後悔とも呼べる心残りがある。
それは。
「夏休みの宿題を一度も真面目にやらなかった事」
小学校、中学校、高校で12年間。
夏休みの宿題というのは毎年出ていたはずなのだが、
ひと夏も真面目にやった記憶がない。
ためしに「夏休みの宿題」で記憶の鎖を辿ってみる。
浮かんでくるのは
9/1の「まあなんとかなるか」感だったり…
誰かのプリントを必死に写していたり…
教室の後ろに立たされていたり…
常に心臓?胃あたりがギュッとなっていたり…
しょうもない記憶ばかりである。
「青春」(令和ではアオハル、と読む)という
思い出美化装置で事なきを得ているが、
実は美化を美化でさらに塗り固めている。
そして、そのことに自覚がある。
真の夏休み宿題やらない勢であれば共感していただけるはずなのだが、
「夏休みの宿題ね!オレァ、8/31にまとめてやってたタイプだワ笑」
というのは嘘で、この美化を剥がすと
「夏休みの宿題ね!オレァ、
8/1に1日分やる
→夏休み中にもうはやらない
→提出日には普通に間に合わない
→先生ごめんなさい
してたワ()」
となる。
よくよく考えれば青春でもなんでもない。
ただの怠惰であるし、非常にみっともない。
そして、このスタイルで夏休みの宿題をこなしていた(こなしていない)ことから自由研究の経験がほぼない。
提出日に先生に泣きつく際
「もう自由研究はいいから、代わりにこれと、この問題集と、反省文と…」
のように、
「もういいから」対象になることがほとんどだった。
たしか中学3年の時、
何故か自由研究を真面目にやった。
缶や固形燃料で原始的なエンジンを作る、といったやつだ。
ひたすらデータを集めたり、設計したり、組み立てたり…
試行錯誤の末、エンジンが駆動した時には感動し、
とても楽しかったのを記憶している。
自由研究は高校にはなかった気がする。
それでも、少なくとも9回は
「自由な研究の悦び」を経験できたはずなのだ。
大人よりも基礎経験値の少ない子どもは、
結論に辿り着くまでに何ステップも思考し試行する必要がある。
それ故に、子どもの1回1回の「経験」の重みは、
大人のそれとは比べ物にならないほど重い。
子どもが自由研究を達成した時に感じられる悦びと同等のそれは、
もう、感じる事はできないだろう。
僕に欠けている何かは、きっとそこにあったんじゃないか?
その経験があったら僕はどうなっていた?
唯一の後悔である。
タイムマシンがあれば
もう一度夏休みだけやり直したい。
今度は毎日宿題をやるのだ。
8/1に立てた計画の通り…
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…ということで僕は今回
タイムマシンについて調べてみます!
そして最後に実際に作ってみようと思います!
1.タイムマシンの歴史
1895年。H・G・ウェルズの…………
……………
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