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8月9日(火)被曝三世として考える日#180
みなさん、おはようございます。(こんにちは。)(こんばんは。)
今日は、8月9日。
長崎市出身の自分としては、あることについて考えるとても大切な日です。
みなさんもご存知の通り、今日8月9日は長崎に原子爆弾が投下された日になります。
普段は日々の生活に追われてしまって、戦争のことや原爆のことについて考える時間も中々持てていないのですが、8月6日なども含めて、このような日については可能な限りで戦争や平和について考えるようにしています。
(長崎では、8月9日は毎年登校日になっていて平和学習をします。最近は語り部さんたちも高齢になり少なくなっているそうです)
そして、拙い言葉になるかもしれませんが、考えた証として、今日の記事のテーマに選びました。
さて、自分は被曝三世になります。
というのも、母方の祖父が実際に被曝をしているからです。
なので、母は被曝二世になります。
その祖父は数年前に亡くなってしまったのですが、あの放射線に塗れた焼け野原を自分の兄弟を探すために歩いていて、そこで被曝をしています。
幸いなことに、それによる大きな病気などは起きずに長生きはしました。(99歳まで)
被曝した祖父が大きな後遺症もなく長生きしてくれたおかげで、自分は、その原爆投下後の地獄絵図のような悲惨な状況を目にしたことや、祖父が太平洋戦争の前の日中戦争に実際に徴兵されて出兵した時のことなどを、幼い頃に何度か聞くことができました。
実際に、祖父からそれを聞いていた小学生くらいの頃は、あまり感じてなかったのですが、大人になってから、その経験がかけがえのないとても貴重な経験であったと考えるようになっています。
数年前に広島、そして地元長崎の原爆資料館に行ったときに長いこと滞在してしまう自分の姿にも、おそらくその時の経験が関係していることは間違いないと思います。
さて、1945年の8月9日に祖父が見た長崎がどんな様子だったのか、自分が聞いたことを思い出しながら書いていこうと思います。
記憶を頼りに書くので、曖昧な部分があることはご了承ください。
原爆投下の日は、いつも通りのなんてことのない夏の日の朝だったそうです。
数日前、広島に新型の爆弾が落ちた情報はあったそうですが、まだ2、3日しか経っていないので詳しいことは分からず。
まさかその新型爆弾がこの長崎に投下されるなんて思ってもみなかったそうです。
そして、11時2分。
祖父の家は、同じ長崎市でも爆心地からかなり離れた場所にあります。(10km以上離れている)
爆発の直接的な影響はなかったそうですが、それでも家のガラスがかなり割れてしまうほどの揺れ?衝撃?だったようです。
(長崎に落とされた原子爆弾のファットマンは、広島に落とされたリトルボーイよりも性能的には優れていたそうですが、山が多くある地形のおかげで、広島よりは被害は大きくならなかったと言われています。)
初め何が起こったかは、よく分からなかったそうですが、そこで広島に落とされたという新型爆弾が頭をよぎったみたいです。
その日は、家の片付けに追われつつ、情報集めをして、翌日、祖父は祖母とともに爆心地近く(浦上)に住んでいた兄弟を探すために、まだ生まれたばかりの叔父を背負って爆心地方面へと歩いて向かいます。
(おそらく2〜3時間くらいかかったのかな?)
爆心地である浦上のあたりに近づくに連れて見えてきたのは、瓦礫の山と生き絶えた人々の群れ、また路肩に横たわっている決して助からないであろう人々から聞こえるうめき声。
本当に地獄と見間違えるほどの惨状だったそうです。
(冒頭にも書いたように、そこで放射能が残った焼け野原を歩く事で祖父たちは被曝しています。)
結局、地獄のような道を歩き続けて、兄弟の家の付近まで行ったものの、瓦礫の山で何が何だかわからずにその日に兄弟は見つからずじまい。
ただ、爆心地数百メートルの範囲に住んでいた祖父の兄弟家族はみんな即死だったそうです。
この時の光景、そして兄妹が見つからずにまた自宅に歩いて帰っていく時の祖父の気持ちはどんなものだったのでしょうか。
怒りだったのか?悲しみだったのか?それとも絶望だったのか?
また同じような爆弾が落とされるかもしれないという恐怖すらあったんじゃないかと想像しています。
(その時点では、太平洋戦争は終わっていなかったので)
今、祖父が生きていたら聞いてみたいし、あまり考えずに話を聞いていた小学生の頃の自分を少し後悔したりもします。
その後、終戦となり、終戦後に必死で祖父が生き抜いてくれたおかげで、母が産まれて、そして今自分がここにいます。
その時に原子爆弾を落とされた場所が少しでも違っていたら、その被曝によって祖父が大きな病気や後遺症が残っていたら、今の自分はいなかったかもしれません。
今ある当たり前に感謝しなくてはならないという気持ちさえ芽生えてきます。
こうやって、8月9日を毎年振り返っていると、常套句のように聞こえると思いますが、戦争や核兵器が完全に無くなるような世界になってほしいことや、今ある普段の生活に改めて感謝することに行き着きます。
戦争が起こること、核兵器が使われることを望んでいる人はいないと思います。
しかし、依然として世界では紛争は起きてますし、ロシアとウクライナの戦争も続いています。
「日本は安全である」という表面的なことに甘えて、全く何も考えないでいいわけではないと思います。
ここまで考えることは、一年に数回しかなくともこの先も続けていくこと、そして祖父から聞いた話を娘にも少しずつでも伝えていきたいです。
それが祖父から何度も話を聞かせてもらった被曝三世としての役目かなと。
最後になりますが、この記事を読んでくださったみなさん、11時2分に一緒に黙祷していただければと思います。
というわけで、今日の記事はここまで!
お読みいただき、ありがとうございます💪
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