メメント・モリと「存在と時間」
体調が悪い。そんな時に思うことは、明日死んでも後悔がないか。
メメントモリという言葉がある。 「メメント・モリ」(Memento Mori)は、ラテン語で、「自分がいつか死ぬことを忘れるな」という意味。この概念は古代ローマ時代から存在し、死を忘れずに生きることの重要性を伝えるために使われていた。
ハイデガーの「存在と時間」は、人の可能性を追求していった可能性の鬼なのではないか。 人間のことを現存在と言っていたが、果たして自分を人間として理解している存在者は令和の現代でどのくらいいるのだろうか。
「存在と時間」まとめと所感↓
① 時間は有限だと理解しなければいけない。
わかってるつもりでも本当には理解してない。だって明日死ぬなんて微塵も思ってないだろう。でも明日で終わりと本気で思ってみる。(ジョブズも同じこと言ってた気がする)
② 自分の無力さ(負目)に気づく。時間は有限。その中で選択できるもの、やれることが限られている。私の場合、まだ自分は人生に何も成してない。残せてない。その無力さを痛感する
③ でもその無力さ、負い目に、人は目を逸らす。そして大事でもない消費的なコンテンツで時間を潰す。これは人間本来の生き方ではない
④ 過去(バックボーン)は人それぞれ違う。過去から導き出された「固有の可能性」を探し、選び、実践することで使命が見つかるらしい
⑤ ただ、人間は死ぬまで可能性を探し続ける存在なので、「自分の人生はこうである」という結論は出ない。出るはずがない。あくまでも可能性を探し続ける動物なのだろう
⑥結局死ぬまで「人生はこうだ」なんて言えない。自分の可能性を探し続け、死んだ時に「そこそこやることやったな」と思れば結論が最後に出るかもしれないが、死んでるのでもう発信はできない。
■ ハイデガーの人間の定義
人間とは、自己の固有の「存在可能性」を問題とする存在である
私は「遊び」に関する商品を販売する会社を経営しているが、商品だけでなく可能性という希望を売っていくことが本当の狙いであったりもする。
そんな価値観を商品を通して伝われば幸いだ。