橋が架かる、彼岸の祖父母へ
2019年4月7日(日)、つまり明日、宮城県気仙沼市と離島である大島との間に、50年地域の人々に望まれ続けて来た橋がかかるという。
地元は歓声に湧いているであろうその報道に触れて、ただ私は、流された祖父母の家のことをぼんやりと考えていた。
母方の祖父母の家は、JR気仙沼線の陸前小泉駅からほど近いところにあり、私が子供の頃はまだ気仙沼市の一部ではなく、「宮城県宮城郡本吉町小泉」という小さな集落だった。だから私は祖父母の家を「小泉のおばあちゃんち」と呼んでいたし、家から歩いてすぐの「小泉海岸」は、私にとっての海水浴のイメージそのものだ。
夏になると父の車で祖父母の家に行き、挨拶もそこそこに砂浜へ行くと、父がビーチパラソルを張り、母と祖母がその陰にビニールシートを敷いて座り、孫である私と兄と姉は浮き輪に空気を入れた。乾いた海藻交じりの砂浜は素足で歩くには足裏が痛くて、少し車で走ればもっと大きな海水浴場があったにも関わらず、我が家のビーチパラソルを探すのに不安になるくらいにはにぎわっていた海水浴場だった。あまりキレイとは思えない緑色の海で、それでも海の塩辛さを味わったり、潮が満ちれば崩れてしまう砂の城やトンネルを兄弟でつくったり、海という自然との付き合い方を身体で覚えた大切な場所だった。
遊び疲れてパラソルに戻ると、昼食は決まって売店で買った焼きそばとフランクフルト。それと時々アイス、祖母が家から持って来た茹でトウモロコシやスイカなんかを食べた。
祖父母の家で最高級のお菓子は、「いさみや」の「大島まんじゅう」だった。薄皮だけを先にむいて食べて、中のこしあんを日本茶と一緒に食べるのが、子どもの頃の私の楽しみ方だった。食べるのがもったいなくて、箱でもらったのを少しずつ食べていたら、カビが生えてダメにしてしまったことがあった。あれはショックだった。
祖母はとても優しい人だった。あまり外には出たがらない方で、いつも居間のテーブルの角に座るか、台所に立っていた。会えばいつも、エプロンのポケットから小さくたたんだ千円札を出して、ニコニコと小遣いをくれた。海の町だから言葉遣いの荒い人たちが多い中で、祖母は際立って穏やかな話し方をする人だった。時々、近所のお茶のみ友達のおばちゃんがやってきては、縁側でお喋りをしていたようだった。ふくよかな体格は、細身の祖父と対照的だった。祖母の素朴で底知れない優しさを、うまく言い表すことは難しい。
祖父は、周りからは気難しい人だと思われていた。トラック運転手だったというが、引退後の姿しか見たことがないから本当の所は分からない。居間の真ん中の座椅子に小柄な身体を沈め、夏場は鎖骨の浮き出るランニングシャツに作業ズボンという格好で、湯呑に入ったお茶をうちわであおぎながら、見るともなくテレビを見ている口数の少ない人だった。お茶を飲むときは、ブクブクと口の中をすすいでから飲み込むのが常だった。あるときそれを見ていた私の方を見て、「こうすれば歯ぁ磨かんでいいべぇ」と言ってニマっと笑った。祖父は朝食に、その日のメニューが何であろうと必ず祖母がつくった卵焼きを食べることにしていたようで、それに大量の醤油をかけては美味しいのか美味しくないのか分からない顔で食べていた。
その家には雑種の犬が2匹居た。多い時には3匹。夕方になると祖父が散歩に連れて行くので、よく付いて行った。犬たちは祖父の言うことしか聞かなかった。田舎の田んぼ道、夕方5時の夕日と、町内放送特有のリフレインを繰り返す「遠き山に日は落ちて」が聞える散歩道は、妙に心安らぐ時間だった。
私が大学生のとき、祖母が大腸がんで他界した。祖父もその半年ほど後に、同じように大腸がんを患って他界した。犬は親戚が引き取っていった。そして、誰も住まなくなった海辺の家は、2011年3月11日の津波によって跡形もなく流された。
5年後、仙台市内の海辺に住む私もやっと身の周りが落ち着いたのと、小泉を見ておこうという気持ちになれたことで、車を走らせた。
そこは、当然ながら祖父母の家ではなかった。真新しいアスファルトが舗装された道は、記憶の中の祖父母の家の境界をあいまいにした。背景の小高い丘の形から辛うじて家の跡を特定し、いつも祖父が座っていたはずの場所に立ってみた。私の背丈ほどもあるセイタカアワダチソウに囲まれた、ただの空き地を見渡して、私は呆然として悲しくなることすらできなかった。
もう行くことはないかもしれないと思ったその日から3年が経ち、明日、半世紀待望された橋が渡る。
4月7日は、東日本大震災の最大余震があった日だ。気仙沼には、見事に再興して世界にまで名を広めている地元企業があることを聞いている。つい最近には、高速道路も開通して仙台からのアクセスも急激に改善した。今まで3時間かかっていた道のりが、1時間半で行けるのは隔世の感がある。「気仙沼は宮手県」などと、その僻地ぶりを揶揄されていたのも、やがて過去の事になるだろう。
私が知っている気仙沼はもうない。けれど、理由はまだはっきりとはわからないけれど、私は自分の子供を連れて、今の気仙沼に行ってみたい。
いつか、子どもたちが昔の事を聞きたがった時には、話せるようにしておいたらいい。