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この世界には自分しかいない


最近また一つ生きやすくなったんだ〜って話をする。
生きやすさがさらに増えた理由、それは、「この世界には自分しかいない」「あなたはわたし、わたしはあなた」といった考え方を取り入れるようになったからだ。

あたおかだなーと言われようがどうでもいいと思えるのは、間違いなく、その考え方によって窮屈だった世界の感覚がもっと穏やかで広大なものであると理解したからだ。

昔から確信しているのは、わたしの人生は大器晩成だということ。

だから、どんどん良くなるんだという根拠のない自信みたいなものが心のどこかにありはしたものの、
生きてきたこれまでは目の前の現実に一喜一憂したり、自己卑下をしたり、自分の境遇や見てくれに不満を持ったり、他人や自分自身と向き合うことを恐れたりしたし、
抑うつ状態に苛まれて思うように思考したり行動したりすることもできない時間が長かったり、人生なかなかうまくいかないなあという事が多かった。

それが、わたしの確信してきた「わたしが誰か」というセルフイメージであり、わたしそのものであった。

自分はどこまでも社会不適合者で、ダメな奴で、自信など持てず、誰かを愛することも無理だと思ってきた。
長い間とても孤独で、生きづらかった。人と同じであることを嫌がる反面、誰かと同じでない自分の中の場所を愛せなかった。

しかし生きづらさや苦しみからなんとか脱却しようと本を読んだり、動画を観たりして様々な知識を取り入れていく中で、
心理学、脳科学、量子力学、など学問として多くの研究や実験、検証が行われて理屈としてわかりやすく証明されている人間や世界の仕組みみたいなものを知っていったことでわたしはどんどんと苦しさを手放すことができた。
いわゆるスピリチュアルとよばれる、引き寄せの法則や潜在意識などというもののほとんどが、実は科学的解釈で説明のつく物であると分かった。

※しかし、世界は目に見える、あるいは認識できる領域というのは数パーセントに過ぎず、残りの90%以上の領域は認識すらできず解明されていないということも言われるので、ほとんどって、なんぼのもんじゃい。という話ではある。

世界は自分が存在しなければ存在しない。
それは、自分がこれが世界だ、と思っている世界そのものが、自分という意識や存在が今ここにある上で認識し、解釈や思考によって定義づけられなければ無いものと同じであると言えるからだ。

自分が存在した上で、どう意図し、どう意識し捉えて、解釈をしたか?でしか、人も物事も状況もあらゆる全てはそのように存在することはない。
つまるところ、すべてのことは自らで作り出した幻想に過ぎず、いかようにも形や在り方を変えてゆくことが可能なものだということ。

今見ていないものや意識にないものは今ここで存在していないと同義なのだ。

これまではずっと当たり前に、人や物や状況というのはそれぞれ独立して存在していて、すべてが影響し合うものだと考えていたが、

まず、自分が観測しなければあらゆるすべてのものは存在せず、そこにどんな解釈を持ち意味を与えるかによって何通りもの現実が存在し得てしまうのだと理解してからは、世界は格段に生きやすく面白いものとなった。

別個で存在するものがそこにあって
決まりきった解釈や意味が個々に存在しているのではなく、すべて自分の中で作り出した幻想にも似たものである。

現実が仮想現実だ、というように言われることがあるのは、自分の中で生み作り出した幻想が、つまり自分自身が、そのまま投影されたにすぎない世界、良し悪しは問わず設定した通りに顕現している世界だと言えるからだ。

幸せも不幸せも、いい人も悪い人も自分で見て決めて信じているに過ぎず、すべて自分が発端であると理解したとき、
不平不満や誰かへの愚痴などとてもではないけれど言えっこないと分かる。いや、実際は言いたくて言ってしまっても構わないしわたしも思ったり言ったりはすることもある。

しかし、その本質はすべて自分の中身が投影されたものであり、嫌だと思うできごとも、嫌だと思う誰かも、自分自身を見ていると言えてしまう。

そうならば、なぜその人やできごとを憎むことがあろう。自分を憎み嫌いたい人などいないはずだ。愛され認められ抱きしめられて安心したいはず。痛めつけられて、恐怖に顔を歪めて、誰かを呪って生きたくなどないはず。

好きも嫌いも、自らを投影したに過ぎないのなら、選べるはずだ。

今日はどんなコーディネートにしようか。どこへ出かけようか。なにを食べようか。誰と過ごそうか。

そんな日常の選択をするのと同じように、世界のあらゆるすべてに対する認識も解釈もしっかりと意図して選択していくべきだ。

量子力学の二重スリット実験でも、意図した場合、その意図した方向に電子が現れることがわかっており、意図しないままの電子はいろんな場所に現れる不確実性を見せた。

この世界の物理法則、りんごが木から落ちるとか、冷やしたら凍るとか、水を沸かしたら気体になるとか、当たり前に認識されてる既存の物理学と肩を並べるような物理学の世界で、エネルギーの性質として証明がされていること。

願えば叶う、思考は現実化する、引き寄せの法則、というスピリチュアルっぽい眉唾みたいな話も辻褄が合う。


物理法則として、観測し、意図し、認識した通りに目に見える形で現実化する世界なのであれば、
なぜ望みもしない嫌なことを考えることがあろうか。今すぐに思考の悪癖を断たなければ、不幸なままだと気づくはずだ。

そう。わたしはそれを知ったから、自分の腑に落ちるまで理解したいと思った。
だってわたしはずっと、自分は人に恵まれはしても、決して自分自身やその人生はいいものとは言えない、幸せになりたい、と思ってきたからだ。

こんな解釈をするから、その通りの現実が顕現され続ける。当たり前だ。意図したものが現れる、という物理法則に即して言えば、
不足や不幸を見れば見るほど、それらが強化されるということである。

そんなこと知ったこっちゃなかったわたしは、ずーーっと悲劇のヒロインが如し、苦しい、しんどい、悲しい、辛い、ばかりをリアルに意識して感じてき続けてしまった。
いやもちろん、家族や仕事の人たちには恵まれたし、五体満足に生んでもらった、お金だってなんとかなってきた、幸せな記憶だってたくさんあったけれど。

まあ人間ってね、危機回避の本能があるから、ネガティブや痛みに対して過剰反応して身を守ろうとするような反射的なものが出るようになってるようだから、これもわたしだけ特別ではなく誰しもにある話で、当然といえば当然なのだけれども。。


そんなでまあ長いこと30年近くやってきたもんだから、その悲劇のヒロインもそろそろもういいわとなって、父は自死するし、、もうダメだこのままじゃとなって、
それで、
絶対にあんな悲しい死に方はしない、せっかく生まれたのだから、人生を、わたしを、楽しみ尽くして死ぬ!!!と決めていた。自分の中にも父のように自死をする未来の可能性の種がある自覚があったから、それはもう強烈にそう思った。それが約二年前。

けれど思考の癖は強く、これまで生きてきた習慣というのはあまりに頑固で、、理屈はわかっても自分自身の考え方に応用するところまで落とし込めない、というのが続いていた。

だし、父の自死が、そしてそれに付随する家族や自身のあれこれがあまりに衝撃すぎて、大きなできごとすぎて、一旦引き寄せとか世の理とかそんなところからは距離を置いていたのもあった。


父が自死してからしばらくは、遊んだ。いろんな意味で遊ぶことにしたのだ。正直ヤケクソもあった。悲しみから目を逸らしたいようなところもあったのかも。
痛い思いもしたと思うが、結果的にすべてが癒しにつながったと思っている。だから、わたしの遊びに付き合ってくれた人たちよありがとう。である。これからも遊びは続ける。色々な遊びだ。

距離を置いたと書いたが、忘れた、に等しかったと思う。だからまた元の木阿弥で、同じような思考パターンの中で同じような苦しみを繰り返しはじめていた。

それがまあ、何かしらのできごとや誰かの言葉、また、自分の体調を発端にして起きたのだと定義した、抑鬱状態や酷いネガティヴ思考を選び自ら苦しみに入り込むことであった。
つい最近までそれをやってしまってたのだ。おかしいことだね。俯瞰はできていて、苦しみに飲まれることは無くなってはいたが、それでもやはりしんどかった。

理屈を知ってもなお、望ましくないしんどい方を選んでしまうのは慣れたことを選ぶ方が楽だからだ。それは、本能的にも。

慣れないことをやるのも、新しくそれに慣れていくのも、多くのエネルギーが要る。
脳みそはエネルギーをなるべく使わないように常にセーブをかけるようにできているから、至極当然の反応ではある。

ではあるが、それすらも自分で選んでいるということを意識的に理解しておかなければならない。

決して、生理痛が重いから、でもなければ、向いてない仕事をやってるから、でもなければ、あの人がわたしを蔑ろにしてくるから、でもない。
そうやって、それらを見て、現実のものとして意味づけをして、解釈するからそうなる。順番が逆なのだ。

なにを見る?どう意味付けする?
すべて決められる。
いや、すべてを決めている。今までも今もこれからも、常に決めてきたし決めているし決めていくのだ。だから現実は存在し続けることができる。

そしてそのすべてが、自分とは隔たりのある別物ではなく、自分自身が投影されたものであり、だからつまりは、人もモノもできごともすべてが自分であり、あなたはわたしわたしはあなたであり、ワンネスだという話に繋がる。

で、各々がその自分しか存在しない自分だけの世界を持って生きている。干渉しているようでいて、決して干渉し得ない。
あるのは、干渉しているように見ている観測方法と、解釈の仕方だけだ。


今まで別物だと見てきたあらゆる物が自分自身だと考えたとき、嫌だと思うことも自分の中にしか在り得ないことを知る。目の前にいる嫌な誰かが存在するのではなく、目の前にいると見えている誰かは自分にとってどんなふうに嫌な奴だと言う解釈を自分を通して現実に顕現させているにすぎない。

なにが言いたいのかといえばつまり、いくらでも現実の解釈は自分ででっち上げて変えることができる、ということ。

嫌な奴だと思うことが悪いとも言わない。
嫌な奴を嫌な奴だと思う他に選択肢があるはずもない、と思っていた自分はこうだと決めてきた価値観や思考から解放されて、いかように思おうが一向に構わないと言いたいのだ。

それでも、嫌な奴像というのは、(嫌な奴、は例えなのでそれに限らず、良い奴も同じこと、他にこうあるべきといった在り方や現象に対しても全く同じことが言えるが)、確かにこれまでの人生経験の中であったり、受けてきたあるいは自分で自分にした洗脳の数々によって確立したものがあると思う、

だから反射的に苛立ったり、責めたくなったり、同じ轍を踏みそうにはなると思う。でもそれだっていい、単にそう見て、理解したにすぎない。

俯瞰して、「あぁ、今、そうやって観測したなあ、そうやって考えて理解したなあ、体は、感情はこんな風に反応したなぁなんでだろ、自分の中のなにが現れたんだろ、、
でも別にいいも悪いもないなあ、目の前のアレもコレも全部自分だし、本質はどちらにも寄らないニュートラルであって、どちらかに寄ってしまうものでもあるなあ、どう捉えたっていいなら面白がってやるかぁ」

こんな風にいつも考えられるようになると、現実をもっと引いた時点で面白がって楽しむことができると思う。

こんな風な視点をより身近に持てるようになった、採用しようと決めたのはごく最近の話で、まだまだ適用したとは言い難い境地にはあるが、、

しかし決めた通りにしかならないのならやはり、望ましいことを見ると決め、望ましい解釈をし、そう捉えることだ。

で、この視点を手に入れたわたしがやるべきことは、自分自身を明らかにし、望ましさとは何か、そうでないものは何かを理解することだ。

望みを具体的にして考えたり書いたり言ったりすると叶う、と言われるのは、それを考えれば考えるほど、強化されていくすべてがそのまま現実に反映されやすくなるからだろう。

宇宙のエネルギーがうんたらではなく、いや、なんでもいいか。
だって全部が自分だもん。自分自身で自分を創造する。いやいや常にしている。してきた。それを思い出す。忘れても何度でも認識し直す。

ぜーーんぶ自分で作ってるんだ。
すべてはそこに存在していて、存在する可能性を孕んでいて、その中からなにをどんなふうに創造するのかを、選び取るのかしかないんだよな。

もっともっと、この視点への解釈を、理解を、深めていきたいなと思ってる。うむ。






藤井風が本質を歌っていると思うのは、ここまで書いたようなことを如実に歌詞にしているからだ。

かわいい、かっこいい、少年のようだ、セクシーだ、と、それでいて語学堪能、音楽堪能、、なんだかあらゆる素質を持つ類稀な姿を持ちながら、本質を歌う。
だから好きだ。あまりにも広い視点で世界を見て、歌ってくれる。


以下は、風ちゃんがインドでMV撮影をおこなった、graceの2番の歌詞。
彼はいつも、スピリチュアル界隈で言われる、いわゆる「ワンネス」というものを歌ってる気がする。


「あなたはわたし わたしはあなた
 みんな同じと気づいたときから
 僕らは みな等しく光ってる

 何ができるかな 愛に従うのならば
 できないことなど 何もないさ

 外の世界にずっと探してた
 真実はいつもこの胸の中

 待たせてごめん いつもありがとう
 会いに行くよ ひとつになろう」

「わたしに会えてよかった
 やっと自由になった
 涙も輝きはじめた

 明日になればさよなら
 ああ 儚い世界だ

 なにがあろうとも
 すべてあなたのgrace
 なにがあろうとも 
 すべてわたしのgrace」


風ちゃんのみている世界についての表現を、わたしの視点と解釈を持ってみた"本質"。でしかないけどね。ぜんぶ同じことだ。



まあこんなところで、わたしの書きたい欲は尽きた。というか、今デニーズにいるんだけど仕事終わり22時半。もう眠いのだよな。おしまいにしようと思う。画像はデニーズにて食した、キャラメルミルクプリンミニパルフェみたいな名前の甘いの。甘すぎずよかった。ご馳走様でした。


わたしは、こんなことを書くことであたおかと言われてもいい。
あたおかと言ってくる誰かも、そんなことを実は気にしているから書いちゃうって事実も、ぜんぶ自分自身の投影。

愛してあげる。その存在を認めてあげる。
わたしが扱って欲しいようにすべてを扱う。
潔く。素直に。愛嬌に溢れた笑顔で。
虎視眈々、威風堂々(?)、凛々しくいこう。
んーまあそう、なんでもありですけどね。結局。

ざっくりでもとりあえず決めているのは、お金も、愛も、遊びも、たっぷり豊かに自分に集まる世界を創造すること。

楽しめ。とことんだぞ!!!


おやすみなさいませ。

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