天国の存在
目の前で起こっている現象は、すべての心の投影である。
存在すると思っている人物も実はそこには存在しない。
わたしたちの記憶にある情報から、それらは精密に映像化されている。
肉体を含め自分の外側は何もない。
本当は誰もいない。
見ている私しかいない。
真理は対象は存在しない。
ここでは主にコースの世界観である一元性(真理)の世界を書いて行きたいと思っているのだけど、真理を二元性の文字や言葉で表すことには限界があり、もともと脳は一元性を理解することは無いと言うので色々と矛盾も生じてくると思う。
ただコースのイエスの言葉に寄せて、全て心の世界に留まった内容であり続けたいと思う。
スピリチュアルの範疇と見られている(あるいは関連性とみる)自己啓発とか願望実現とか、引き寄せだなんだと小手先の技法の習得にはまったく関与しない。
この世界の生きづらさの克服に着目するつもりもない。
それは真実を知れば後からやってくるもの、気づいたらそうなっていたようなものだからだと思っている。
だから、きっとこの世界で必死に生きている人にとってはつまらない文章だと思う。
しかし、この世界で生きることに疲れ切り、いろんな矛盾に気づきながらも、それでも価値のある人生を生きることが正しいという世の中の声に争う事が出来ずにいる人の、ほんの少しの灯火になれば良いと思う。
これは単にこの世界を拒否し逃避するものではない。
どちらかと言うと、ひとつひとつ丁寧に検証しながら自分の責任で取り消していくものであると考える。
実際は自分(自我)の思考では無理なので、聖霊という正しい思考システムで取り消していく。
そして、イエスの示す天国の存在を信頼し、その場に戻る努力を続ける。
それは場所ではなく精神性であり、かつ精神状態なのだろうけど。
その道はとても辛く、忍耐が必要だと分かっていても、諦めるという選択は無いことに気づかされている。
世間の荒波に戻され、そこにうずくまり、そこに価値を見つける事も既に不可能だと気づいている。
一度踏み込んだら片道切符を持たされていた事に後々気づく。
まるで神様と約束をしたようだ。
幻想だなんだとそんな分析はどうでも良い。
幻想は文字通り無意味で想いを巡らせる価値もない。
天国の存在を語るたった一人の人物である(とわたしは思っている)イエスの言葉がわたしにとっての契約である。