人の無罪性
裏切り者のユダの話を書いて、これはコースの推奨している赦しに繋がっていることに気付きました。
コースが言う赦すとは、他人の罪を見過ごす事でも、憐れむ事でもない。
もともと人には罪を犯す根拠がないと言われます。
人からの攻撃や、悪と思われる行為は、自分の中にある罪悪感の投影と言われます。
その罪悪感も罪(神からの分離)を犯したと思っている気持ちなので、それは正確には罪ではありません。
人は、罪を犯すことを、したくても出来ないのです。
神がそのように私たちを創造されたからです。
神の延長により私たちが創造され、延長の元となる神が罪を犯すことが出来ないように、私たちも罪は犯せません。
なので全ての罪は存在しないと見なすことがコースの基本的概念です。
投影と言う現象を理解して、自身の内側に視点を置き、そこに存在する罪悪感を赦す事によって消滅させるのです。
罪は犯せない。出来ないものは出来ない。その事実を理解しないと、コースの赦すと言う教えを、間違った認識で使ってしまうかもしれません。
コースは信仰ではなく、思考体系を変えていく訓練なので、神やイエスがそう言っているからと無条件に行なっていくことは危険な気がします。
だったら赦すと言わず、ただ勘違いを取り消すとか他の言い方にした方が伝わりやすいのではと思うのですが、イエスは聖書とキリスト教の世界を元にこのコースを語っているため、贖罪にしても赦しにしても、その概念が繋がるように展開させているのですね。
ユダは自我の脚本に踊らされ、イエスを売りました。そしてその罪悪感のために自決してしまいました。
人々の罪悪感は、ユダの裏切り行為という幻想に投影されました。
この話のどこにあなたは罪を見ますか?