『中動態の世界』
昨年末、義兄義姉夫妻にクリスマスプレゼントとして頂いた國分功一郎著『中動態の世界』。先月読了。ちと、語りきれないが、備忘として、、、
「中動態」という存在を依り代として
日本語にも英語にも、「能動態」と「受動態」という文法上の対象性がある。あまり、意識せずに生きてきたけれど、「能動態」には、自分の「自由な意志」に基づいてそのように「行動した」という考え方が付随する。つまり、一般的には、その「行動」の「責任」の所在は、動詞の行為者に帰属すると考えられる。
更に言えば、「責任を帰すべき状況だと」社会的に判断された時に、「そこには自発的な意志があった」と判断される、という言い換えた方が正しいと國分氏は指摘している。
國分氏は、この一般的な考え方に対して、丹念に切れ込みを入れて行く。
古代ギリシャ時代以前に存在したという、「中動態」という動詞の形態を拠り代に、様々な哲学者の思考を引用しつつ。
遙か昔、インド=ヨーロッパ語には、言語学上、「能動態」と「受動態」という関係性ではなく、「能動態」と「中動態」という関係性が存在したという。
「能動態」と「受動態」
「能動態」と「受動態」は「する」(自発)か「される」(受け身)かーという関係性と捉えられる。この関係において、「能動態」は「自発性」という性質の元、自身の「意志」に基づいて、行為を行っており、その行為の責任は、行為者自身に帰すると考えられる。
「能動態」と「中動態」
一方、「能動態」と「中動態」において、その関係性はどうだったのだろうか。「能動態」は「主語から出発して、主語の外で完遂する過程」として捉えられる。対して「中動態」は「主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある」と捉えられる。主語が、過程の外にあるのか、内にあるのか、という捉え方だと。
「私は扉をノックする」という事象では、ノックするという行為が私の「外」の存在である、扉にて作用するため、「能動体」であると判断できる。
一方、「私は文学を愛する」という事象では、愛するという行為が私の「内」で作用しているという点で、「中動態」であると判断できる。
これらの対峙においては、主語、つまり行為者自身の「意志」というものの存在はクローズアップされない。
「能動態」の変遷とその経緯
中動態が受動態にその座を受け渡す過程で、本質的な変化を遂げたのは「能動態」の意味合いである。
対峙する「態」が「中動態」から「受動態」へと変遷したことに伴い、「能動態」は「行為の責任」を伴うものへと変性を遂げたと考えられる。ーというよりも、「行為の責任」を行為者に帰属させる必要性から、対峙する「態」が「中動態」から「受動態」へと変遷した、という解釈が正しいのかも知れない。
人間が社会的な行為を営むにあたり、「統制」が必要となり、「法律」というものの存在が要請され、そのために、行為者に対する「責任の所在」を明らかにしておく必要性が強くなっていった、ということだろう。自分の「意志」で行ったことが能動的な行為であり、その責任主体は主語に帰するのだ、と。
そしてスピノザ
國分氏はスピノザを引用しつつ、その「意志」の自由性を批判的に捉えている。
人間は、一見、明確な自由意志を持って何かを能動的に行っている様に見えるが、その背景には、そこに至る複雑な「背景」(主体を取り巻く環境とか歴史とか)があり、それらがすべて作用した帰結として、その行為につながっているはずである。
つまり、本来は「意志」は「背景」と密接に繋がって居る。
にも関わらず、責任の所在を問われると言う段になると、「背景」から切断されるという矛盾が生じる、と。
従い、行為の責任すべてを、その行為者に帰するという考え方は、果たして正しいのか、という問題提起が為され得る。
来るべき今後に備え
これは、ゼロイチで、語れないと思うが、「能動ー受動」の世界観と、「能動ー中動」の世界観、両面での考え方を、我々自身の中にしつらえて行く必要があると思う。
國分氏は、スピノザを論じた別書にて、スピノザのような思考をすることは、別のOSを思考としてインストールするようなものかも知れない、と例えていた。中動態的な考え方を行うにも、似た様なことが求められると思われる。
複数のOSを同時にアクティブな状態にしておくこと。それが、柔軟なモノの考え方として、混迷を深める今後の世界を生きるためには、必要になって来るのかも知れないと思った。
取り止めないが、今回は一旦ここまで。
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