見出し画像

[生汁日乗]哲学対話「哲話(てつばな)」、そして「文化的な生活」について想う:2024年10月26日(土)


曇り空。今日もそんなに涼しくないけど。


ゴミだしをして、朝飯をサーブ。


夢野久作『ドグラ・マグラ』文庫上巻を読了。少しだけ状況の見通しが良くなってきた気がしないでもないが、全貌はまだまだ謎のまま。


午前中、何ヶ月ぶりかの散髪へ。帰りがけ、図書館にて柿内正午『プルーストを読む生活』借りる。700ページ超えの怪作。読み切るつもりは当然なくて、まずは、その雰囲気を味わいたく。


帰宅後、あわただしく昼食。カツオ丼を掻き込む。


午後、「ごとうにんシアター」オンライン対話イベント、「哲話(てつばな)」開催。1時間、あっという間だった。うまく行くか、ドキドキだったけれど、初回としては良かったのではないか、と。とても奥行きと広がりのある、豊かな話の時間だったと思う。個人的には結構緊張していて、もっと肩の力を抜いて話せる様になれたら良いな。


夕刻にかけ読書。三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』読了。「哲椀」で触れたので、何となく気になり、(更に、カミさんも「それ、少し気になっている」と言うので)手に取った一冊。想定を超えて興味深く読んだ。「読書」というテーマを依り代として紐解かれる、近・現代日本の労働史。著者は(仕事などの)ひとつのことに、人生の大半(週5日、毎日8時間とか)をフルコミットする「全身全霊」のあり方に警鐘を鳴らし、「半身」のあり方を推奨する。「生き甲斐」「自分らしさ」は(仕事などの)特定の何かに求める必要は、本来、全くない。家事でも、ボランティアでも、育児でも、介護でも、娯楽でも良いのだ。なのだが、社会が、そして自分たち自身が、何か一つへの強いコミットを「自明のもの」として課している。さらに自分たちの価値観が社会に反映され続ける。ループ。この「くびき」を如何に解いて行くか。一人一人が、まずは、そういう状況であることに気づくことから、なのだろう。

たまたま併読中の柿内正午『会社員の哲学』の内容ともリンクする気がする。

少し長いが、最終章より引用。

働きながら本を読める社会。
それは、半身社会を生きることに、ほかならない。

といっても、具体的な「半身社会」の実現のためのステップは本書で書けるところではない。

これはあくまで、あなたへの提言だ。具体的にどうすれば「半身社会」というビジョンが可能なのか、私にもわからない。

だからこそ、あなたの協力が必要だ。まずはあなたが全身で働かないことが、他人に全身 働くことを望む生き方を防ぐ。あなたが全身の姿勢を称賛しないことが、社会の風潮を変える。 本書が提言する社会のあり方は、まだ絵空事だ。しかし少しずつ、あなたが半身で働こうとすれば、現代に半身社会は広がっていく。 半身社会は、旧来の全身社会よりも、複雑で面倒だろう。

半身社会は他人との協力が不可欠だし、自分の調整も常に必要だ。どうしてもさまざまな文脈を許容する面倒さが存在してしまう。誰かと関わるのは大変だし、いろんなトピックに頭を使うのは苦労するかもしれない。なにより仕事をしながら本を読むなんて、面倒臭いかもしれない。いろんな文脈を知ることは、複雑で耐えられないことかもしれない。 でも、それでも私はあなたと半身社会を生きたい。それは自分や他人を忘れずに生きる社会 だからだ。仕事とケア、あるいは仕事と休息、あるいは仕事と余暇が、そして仕事と文化が両立する社会だからだ。

半身社会とは、複雑で、面倒で、しかし誰もバーンアウトせずに、誰もドロップアウトせずに済む社会のことである。まだ絵空事だが、私はあなたと、そういう社会を一歩ずつ、つくっていきたい。

三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』

読み終えて、憲法25条で言及されている、生存権「健康で文化的な最低限度の生活」について想う。「健康」、「文化的」、「最低限度」はOR条件ではなく、AND条件なのだと思うのだが、果たして「文化的な生活」ってなんだろうかと考える。


夕刻、期日前投票へ。どうなるか。


息子氏は朝から出かけており、夕食も3人で。併せて、ブラタモリの録画鑑賞。「輪島塗」について。とても興味深かったのだが、地震、大雨で本当にひどいことになっている能登に胸が痛む。夏の旅行は金沢に行きつつ、残念ながら能登には行けなかった。被災地を蔑ろにしない政治を望みたい。


柿内正午『会社員の哲学』、プルースト『失われた時を求めて』などを眺めつつ就寝。

いいなと思ったら応援しよう!