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Cahier 2020.05.12

夏日のような昨日に比べて幾分か過ごしやすかった今日。

Kings of convenience の「24-25」を聴きながら床に寝そべっていると、窓から風が流れてきて気持ちがいい。ジン・トニックなんか飲んだら最高だ。

チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』を読む。

ネットで色々な人の感想を読みながら想像していたよりアッサリしていた、というのが読後の第一印象だった。そして、このアッサリとした読後感の中に息づく静謐さをじっくり観察して、我が身に記憶させておきたいような気がする。

twitter ではあるフェミニストを名乗るアーティストが次のように感想を述べている。

「82年生まれ、キム・ジヨン」は韓国の女性差別の話は確かに描かれていたが、これがなんでフェミニズムなのかわからない。キムジヨンは強く反論も反抗もしないし、ただ現状を我慢してやり過ごして被害妄想募らせて壊れていった絶望の話だった。嫌ならはっきり嫌だと言わなければ世界は変わらない。
暗ーい気分になったので、わたしがわざわざ持って来たアニータ・アルバラード自伝本読み返してるけど、日本に来た初日にちんこ50本くわえて家族が住むチリにその日の稼ぎを送金してドヤッてるアニータ、やっぱり爽快だわ。これぞフェミニズム。

「生まれてくる子が男の子であってほしい」という家族の願いに始まり、母親が黙って苦労する姿を見て育ち、少しにこやかに接しただけで勘違い男子からセクハラまがいの嫌がらせを受けたり、厚顔無恥でセクハラを働く上司、いちいち庇護するような態度をとる夫……キム・ジヨンの身に降りかかるのは、日本でも日常的に見られる「ごくありふれた不合理」だ。

引用元のアーティストの言うように、キム・ジヨンはそうした不合理な現実に対して「強く反論も反抗もしない」。女性であることを理由に押し付けられる不合理に対して受け身であり続け、受け止められなくなって精神に支障を来たすに至る。しかし、注意して読んでみると、キム・ジヨンは受動的な態度に徹しているわけではない。男だからという理由で弟を厚遇する母親に対して抗議をしたり、夫の”弱い者を庇うような態度”に正面から疑問を投げつけたり、伝えられる相手に対しては自らの意思表示はきちんとしている。たしかに「50本ちんこくわえた」アニータに比べたら大人しいが、何もパワー系のアクションだけがフェミニズムではあるまい。日本や韓国あるいは世界中の女性たちが日常的に接している「女であることの不合理」に対するリアクションとしては、キム・ジヨンの態度は典型的とすら言えるほど自然なもののように思える。そもそも問題はキム・ジヨンの「我慢する態度」にあるのではなく、そのような我慢を否応なしに強いる不合理な状況にあるのに違いない。むしろ、可能な限り怒りや反抗といった感情を通してではなく、日常に息づく静かな忍耐を通じて「女であることの不合理」を描き出す手法は戦略的に選ばれた手段であり、本書の最も特筆的な部分であると思う。

本書は、主治医の語り口によってキム・ジヨンが幼い頃から経験してきた「ごくありふれた不合理」が時系列に沿って展開されていく。興味深いのは、精神科医によるレポーティングという形を取りながらも文中に分析的な解釈が一切差し挿まれていない点だ。なぜキム・ジヨン自らの回想、あるいは夫や母親などの近い親族、はたまた全能の作者による語りではなく、精神科医の口で語られなければならなかったのだろう?しかも、この医者は最終的にキム・ジヨンの病が何であるのか診断することもなく、当然ながら彼女が治癒する可能性についても何ひとつ示されていない。また、医者の語りがどこに由来する話なのかも本書には示されていない。つまり、この話がキム・ジヨン自らが医師に語ったものなのか、それとも夫が話したのか、だれがどのように時系列を整理したのかも分からない。その上、語り手は精神科医としてキム・ジヨンのような患者を持ちながら自分の妻のことすら理解できないヤブ医者の気配すらある、不合理を形成する側の立場の無責任な人間として配置されている。

この点において、わたしは作者のチョ・ナムジュにA・カミュに近いものを感じる。巻末の解説にあるとおり、作者が放送作家のキャリアを持っていることにも関係しているんだろう。語り手(=精神科医)の超越的価値に依存せず、感情を煽ることもなく、客観性と明晰さのみによってキム・ジヨンの人生、ひいては「82年生まれ」の彼女と同時代を生きる人々の生活に潜む「不合理」を描き出している。その結果としてミリオンセラーという快挙を成し遂げ、多くの読者の心の内に”連帯”の可能性を開いた。

わたしは本書を男性にも女性にも読むことを薦めたい。

キム・ジヨンと似たような経験をした人は特別な感情を揺さぶられるかもしれない。加害者意識を抱いて落ち着かなくなる人もいるかもしれない。涙が流れたり怒りが噴き出したり、すぐには理解できないことに疚しさを感じることもありうることだ。とにかく、そこで起こった感情の一つひとつを忘れずに生活していこう。何せ130万部以上の大ベストセラーだ。読者とは限らなくとも、わたしたちは思いがけないところでキム・ジヨンと再会するかもしれない。そのとき新たな一歩を踏み出せればいいと思う。






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