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月を愛して灯を撤す
[※オリジナルBL小説]
昨年亡くなった爺ちゃんの家に、初めて一人で泊まった夜。
……気がつくと、闇の中で俺は綺麗な青年と向かいあって座っていた。
青年は青藤色の着物を着て、長い髪は銀色だ。年齢は俺と同じくらいか。冷たく整った顔の中で黒く光る眼が、こちらの心を全て見通すように鋭い。
「お前は浅葱(あさぎ)の孫の、涼(りょう)……そうだな」
「そうだけど。あんたは?」
「私は蛟(みずち)。水蛇の精だ」
「みずへび……?」
「お前に頼みがある。だからこうして夢の中で呼びかけているのだ」
「夢の中?俺の?」
青年は頷き、言葉を続けた。
「私をここから出して欲しい」
……蛟の話をざっと纏めるとこうだ。
爺ちゃんが若かった頃、この蛟と交流があったらしい。2人は人間と物の怪の垣根を越えて、親しく何年も過ごした。
でも、爺ちゃんはどういう心境の変化か、ある時、蛟を騙して箱に閉じ込めた。
爺ちゃんは、何十年も蛟を箱に封じたままここで過ごして、昨年、亡くなった。
爺ちゃんが死んだ事で封印は半分解けた。後の半分は、血筋の者に箱を開けて貰えれば完全に消えて、蛟は自由になる。だから、俺に箱を探して開けてもらいたい。……らしい。
青年は見た目通りの年齢ではなさそうだ。俺は少し口調を改めた。
「えー、と、幾つか聞きたいんですけど。爺ちゃんはどうして、あなたを閉じ込めたのか分かります?」
蛟は幾らか顔を暗くして、目を伏せた。
「……浅葱は、富が欲しかったのかもしれない。私は豊穣の神と縁が深い。家に封じれば富を生むと考えたのかも」
「うーん……そうなんですか?」
「この家に、私は何もしていない。浅葱とお前の父親の成功は独力で成し遂げたものだ」
「そうか。……もう一つ、あなたを逃しちゃって大丈夫?って事なんですが。外に出ても悪さしない?」
蛟は真っ直ぐに俺の目を見た。
「己の意思でヒトに仇なすことはしない。した事もない……引き受けてくれるか?」
俺は頷いた。
……そこで目が覚めて、俺は布団から上体を起こした。今のは夢じゃない。不思議と確信があった。
外はまだ暗い。爺ちゃんの部屋に行き、灯りをつけると押入れを探し始める。
どんな箱かは知らないけど、多分、厳重に封をされてるんだよな?
押入れを一通り探し終え、次に納戸の物を取り出して廊下に置いてゆく。
俺は汗と埃に塗れて一息ついた。荷物に隠れていた部分の天井を見上げると、壁と天井の境目に、ごく僅かに細い隙間があるのを見つけた。
心臓がどきんと鳴る。
脚立を持ってきて、その辺りを探ってみる。天井の板が一枚外れる。そろそろとずらして、俺は懐中電灯で天井裏を照らしてみる。
闇の中、40cm程の黒い箱がそこにあった。赤い紐で厳重に封をされている。多分、これだ。俺は箱を天井から下ろし、居間のテーブルに置いた。
歳月を感じさせない黒い艶やかな箱の紐に触れると、急に目眩に襲われた。
なんだ?ヤバイ気持ち悪い、吐きそう……床にしゃがんで手をついた。
目眩はますます酷くなる。……息ができない……苦しい……。
……そのまま倒れ込み、意識を失った。
暗い部屋の中、障子から差込む薄明かりの中に沈む一塊の姿。それは2人の男だ。
黒い着物を着た男が、畳に座る銀の髪の青年を後ろから抱き竦めている。
青年は口を開いた。
「我らは見た目は似ていても全く違うもの。…永く共に居ることは出来ない」
男は呻くように言葉を絞り出した。
「……俺はお前と一緒に居たい。失いたくない」
青年の顔が悲しげに歪み、男の腕に自分の手を添えると首を巡らして背後を振り返る。
二人は熱い口づけを交わした。
情景が闇に包まれる。
再び明るくなると、先程よりも老けた様子の男が後ろ手に納戸の戸を閉めた。
俯き小声で独りごちる。
「すまない、蛟。……どうしてもお前を手放せない俺を恨め。……触れる事ができなくてもいい…」
男は昏い顔のまま背中を丸めて歩き、その場を離れた。家の奥から男の妻の声がする。
……そうか……
俺は思い出す。爺ちゃんの通夜で婆ちゃんが言ってた。爺ちゃんはいつも、心ここにあらずな感じで、自分は随分寂しい思いをしたと。
父さんと爺ちゃんは長い間ギクシャクしていた。通夜の時も、父さんは特に悲しむ様子は無かった。いつか父さんは言っていた。
「父は冷たい人だ。母と自分の事を、いつも他人を見るような目で見ていた」と。
爺ちゃんは。……爺ちゃんの本当の心は。
俺は床に寝転がった状態で我に帰った。
ゆっくりと起き上がると、ハサミを手に持ち、何度か深呼吸する。
テーブルの上の箱に手を伸ばすと、また目眩と息苦しさに襲われる。俺はテーブルに肘をついて体を支え、必死に声を絞り出した。
「……駄目だ……爺ちゃん!……もう解放してやれよ。……アンタは皆んなを不幸にした。けど、アンタが居なけりゃ俺もここに居ない。……蛟を自由にするのは、俺の役目だ……」
箱の周囲に黒いもやが見える。その中に一瞬、爺ちゃんの悲しみに歪んだ顔が見えた気がした。俺はもやを振り払い、気分の悪さに歯を食いしばりながら、ハサミを箱と紐の間にねじ込み、紐をどうにか断ち切った。
夜明けの風がごおっと音を立てて吹き上がると、箱を勢いよく巻き上げ、窓ごと庭に吹き飛ばした。強い光が炸裂し、箱は粉々に砕けた。
光は巨大な蛇の形になって、勢い良く上空に伸びてゆく。
風はますます強くなり、竜巻のように渦を巻きながら上へと吹き上げる。ざあっと雨が吹き寄せ、俺は縁側であっという間にぐしょ濡れになりながら、光の蛇が空に登ってゆくのを見つめる。
雨風が荒れ狂い吹き荒ぶ空を登ってゆく光。
ごうごうという音の隙間から不思議な声が響いた。
「……あさぎ……浅葱……!……共に行こう……」
地面に落ちている粉々になった箱のかけらから、黒いもやが染み出してきた。
黒い煙のようなもやは光に包まれてうっすらと人の形になった。
人影は笑って手を上に伸ばすと、光に溶け込むように姿が消えた。雷雲に包まれた光の蛇は輝く竜の姿になって、遠雷を響かせながら上空を遠ざかってゆく。
日の出と共に眩しい日の光がみるみるうちに雲を吹き払い、朝焼けの空はぐんぐん透き通って、さっきまでの雨風が嘘のように晴れ渡った。
朝日が、濡れた木々や家々を煌めかせる。
蛟は爺ちゃんを呼んでいた。
長い年月、閉じ込めた者と、閉じ込められた者との間にあったものは恨みじゃなかった。
届かぬ月を愛するあまりに地上の灯を全て消し去った昔話の男のように。
ずっと前から二人は、今に至るまで、お互いだけを愛して。
……正直、あまりに途方もなさ過ぎて俺には理解不能だな。
出し抜けにくしゃみを連発して、自分が濡れ鼠になっていた事を思い出す。いやあ、我ながらめちゃくちゃ頑張った。
とりあえず朝風呂に入って、朝からビールでも飲むか。
俺は、吹き飛んだ窓と、廊下に積まれた納戸の荷物の事を頭の隅に押しやった。