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大空に羽ばたくもの

※[囀る鳥は羽ばたかない 二次創作]
百目鬼と葵の過去〜本編終了 数ヶ月後

惨劇とは多くの場合、ある時突然起こるものではない。
長い時間をかけてひとつひとつ積み上げた積み木が崩れるように、少しずつ溜まっていく水がついに溢れるように、それは起こる。

百目鬼家で惨劇が起こり、警察官になって間もない彼は父親への暴行容疑の被疑者になった。
自分が逮捕する側から逮捕される側になり、連行する側からされる側に、留置所に入れる側から入れられる側に。
警察官として日々行なって来た業務を被疑者の側から追体験している事がどこか不思議だった。刑務所に服役するまでの流れは頭の中でシミュレートできる。ただ、知っているのと実際に体験するのとでは、あらゆる点で天と地ほどの差があった。
確実に分かっているのは、思い描いた警察官としての人生は既に終了し、この先の時間がどうなっていくのか、全く予想できなくなったという事と、自分の家族は永久に失われた、という事だった。

長い留置所での夜。何もない狭い部屋で横になっていると、取り留め無い記憶が次から次へと現れては消えていく…。

新聞記者であり、取材で各地を飛び回っていた百目鬼の父親は、取材先の施設で出会った葵を養女として迎え入れた。妹ができる事を彼は純粋に喜んだ。幼く小さい妹は「守るべき者」だった。彼は心に決める。妹を絶対に守ること。傷つける人間が居たら戦うこと。その為に強くなる。警察署の剣道教室に通い始めたのも、その頃だった。

母親は介護施設で仕事をしていたが、葵がまだ小さく、力が小学生だった頃には、週の半分は自宅に居た。
「力が赤ちゃんだった頃の10倍は大変」
母はよく言った。葵は癇の強い子で、一度泣き出すと中々泣き止まなかった。父親曰く、葵は生まれた時から親の手を離れ、施設で育てられた為、普通の子供より「情緒に問題があるかもしれない」らしい。問題、と言われても、彼にはサッパリ分からなかった。
「赤ちゃんが泣くのは当たり前じゃないの?…よく分かんないけど、葵が困ってたら、僕が助けてあげれば良いよね?」
それを聞いて母親は笑い、力の頭に手を置いて言った。
「そうだねぇ。葵は大人になるまでに乗り越えなきゃならないハードルが普通より多いかもしれないけど、力が助けてあげてね」
もちろん彼はそのつもりだった。

強くなりたいから、と始めた剣道だったが、通い出して一年経った頃には、彼は剣道の魅力に取り憑かれていた。
板張りの床に正座して、防具越しに風景を見ていると、世界がシンプルになり、心が静かになっていくような気がした。日常の些末な思いや悩み、雑念がゆっくりと心の底に沈み、上澄みの部分がどんどん澄んでいく感覚。気合と共に床を蹴って相手と竹刀で撃ち合う時、自分が強く大きな鳥になってどこまでも飛んで行けるような気がする。

「お兄ちゃん!」
高校生になった力に、葵が駆け寄る。葵から水筒を受け取って喉を潤す。葵は小学5年生になっている。
「お母さん、今日、早く帰ってるよ。ご飯作っとくって」
「へえ。母さんが晩飯作るの久々だな」
道場から出る時、葵にクラスメイトの女の子が声をかけた。葵はヒソヒソと何事か囁き交わして笑い、彼女と離れて手を振る。
「…一緒に帰らなくて良いのか?」
「水曜日はお兄ちゃんと帰る日って決めてるもん。…モモコが、あ、今の子がね、お兄ちゃんの事、カッコいいねって。ふふ、家ではそうでもないよ、靴下ちゃんと洗濯カゴに入れないしって言っといた」
「プライベートをあちこちでバラすな」
葵は可笑しそうに笑った。いつの間にか並んで歩く時、手を繋がなくなったが、自分と妹は他と比べても仲が良い兄妹だと思う。

この数年の間に、百目鬼家ではある変化が起こっていた。
父親の雇用形態が変わり、以前ほど家を空けなくなった。勤め先の新聞社で正社員から契約社員になったらしい。…と、言われても正直よく分からないのだが、要は仕事の量が減り、収入も減った様子だった。
それと入れ替わるように、母親の仕事時間が増え、不在がちになった。そこで、彼と葵、父親は家事を分担するようになった。
現在では朝食は力が準備し、夕食は主に父親が作り、葵が洗濯や掃除を手伝っている。

その日は久しぶりに家族が揃って和やかな夕食になった。
彼にとって何の憂いも迷いもなく、家族みんなが笑っていた夕餉の風景はあれが最後だった気がする。

珍しく父親が仕事で不在だったある日。テスト期間で部活が休みになり、自宅勉強の後、居間のソファで休憩しているうちに、いつの間にか居眠りしてしまったらしい。
半覚醒状態で横になっていると、側でひそやかな衣擦れの音がした。
「…お兄ちゃん…     …起きてる?」
小さな葵の声。彼は眠すぎて返事をする事が出来ない。
そのまま寝ていると…顔に吐息がかかった。
一瞬、唇にそっと、暖かくて柔らかいモノが触れた。…数秒、顔を見ている気配があったが、静かに衣擦れの音が遠ざかっていった。

そのまま60秒まで心の中で数えてから、彼は目を開けた。
起き上がって周りに葵の姿が無い事を確かめる。
『…これは…マズいことになった』
彼にとって完全に葵は妹だった。血の繋がりが無い事実も関係なく。
…困惑し混乱した。
逃げる事しか思いつかなかった。

一度掛け違えたボタンは、そのズレを大きくするばかりだった。
力は勉強と部活に打ち込んだ。進路を警察学校と決め、受験の準備を進めた。何かと口実を作り、自宅には深夜になるまで帰らず、朝は1番に家を出た。風呂に入り寝る為に帰っているような状態になった。
…こうして、百目鬼の家には、父親と娘だけが残され、昏く長い時間を2人で過ごすようになっていった。

そして今、彼は長い夜の中でその報いを受けている。

……葵……バラバラになっていく家族をなす術なく見ているしかないお前は、どんなに悲しかっただろう…
狂っていく父親と家に閉じ込められ逃げ出す事もできないお前は、どんなに怖かっただろう……

俺はもっと早く助ける事ができた筈だった、なのに見て見ぬ振りをし、お前と向き合おうとせず、自分だけ逃げ出して取り返しがつかなくなるまで放っておいた。
制度をもって多くの人を救う事が警察の仕事と嘯きながら、1番身近に居る大事な家族さえ、救う事ができなかった。

もう分からない。
分からなくなった。

何のために生きているのか。

…そして月日が流れた。

葵を含む芸大生の有志で開催したグループ展は、客の半分は身内と冷やかしだったが、なかなか盛況だった。勿論、目玉は葵の受賞作品だ。
ファンです、握手して下さい、と初めて会った人達から言われる嬉しさと不思議さを葵は噛み締める。なんだか有名人にでもなった気分、と言うと、桃子は
「いや有名だから。ウチらのギョーカイでは。あんた、もーちょっと自覚した方が良いわ!あと有名になるとヘンなのも寄って来るからそれも気を付けた方がいーわ」
と言った。
明日は最終日。撤収作業の後、打ち上げ飲み会がある。しかし葵はその前に、どうしても観て貰いたい人がいた。
葵は桃子と仲間に頼んで、今日、その人を招待する為だけに、一度クローズしてから、招待客と自分だけにして貰う予定になっていた。

ギャラリーの入り口に「closed」の札を掛けてから、桃子は心配そうに葵を振り返った。
「じゃあ、最後の施錠お願い。…ねえ葵、ほんとに大丈夫?私、居た方がよくね?」
「いや、大丈夫なんだけど…お兄ちゃん、凄く気にしてるんだよね。私に良くない評判が立つといけない。なるべく関わらない方が良いって」
「まさか力さんがヤクザになるとはねぇー…未だに信じられないわぁ」
「…そうだよね…私も。でも」
「うん?」
「多分お兄ちゃん、中身はあんまり変わって無いと思う。見た目はちょっと…変わったけど」
葵は桃子に微笑んだ。

1時間後、夕闇に紛れて男が現れた。
キャップにパーカー、頬には大きな傷当てテープを貼り、左手はパーカーのポケットに隠している。
「お兄ちゃん、こっち!」
ギャラリーの通用口から葵が声をかける。
通用口を通って室内に入った男はキャップを脱いだ。左手はまだポケットに入れたままだ。
「……退院以来だね」
「そうだな」
百目鬼は珍しそうに周囲を見廻した。普段、絵画を鑑賞する趣味は彼には無かった。
「来てくれてありがとう。…一度で良いからお兄ちゃんに見て貰いたくて」
「…そういえば、お前の絵を最後に見たのは、もう随分前だ。…昔から絵が上手かった」
「もしかして小学校の頃の話してる?…じゃあ、今日はビックリして貰えるかなぁ」
葵は兄にそれぞれの作品を紹介していった。作者の人となりや拘りと共に作品を鑑賞すると、絵が、にわかに熱い情熱と主張を持って観る者に迫ってくる気がした。
芸大の学生の作品らしく、達者な部分と若者らしい勢いが混在する、拙さや良い意味でのアンバランスさは、百目鬼が初めて触れるものだった。

描きたい、という情熱。
伝えたい、という想い。
私はここに居る、と全ての絵が叫んでいる。

「すごいな…」
思わず、声が漏れる。
ゆっくりと作品を観ながら歩いてゆくと、少し広い場所に出た。
そこにある絵は今までにない輝きを放っていた。一瞬で百目鬼は釘付けになった。

大きな油彩画。 
色が勢いよく流れ、躍動し、うねり、幾つもの輝く渦を作っている。
近くで見るとひとつひとつの色は、ペイントナイフで絵具をカンバスに乗せて描かれている。
巧みに織り込まれた色の渦はあるものを形作っていることが次第に見えてくる。
眩しく輝く空に今にも飛び立とうとしている巨大な鳥…または、鳥になろうとしている男のようにも見える。

『日本芸術新人賞受賞作品
大空に羽ばたくもの
百目鬼 葵』

絵の下には葵の名前があった。

「実をいうと、この絵のモデルはお兄ちゃんです」
思わず兄は妹を観た。
誇らしげな妹の顔が兄を見つめている。
「お兄ちゃんが剣道道場に通ってた時、竹刀を構えて打ち合う瞬間、いつも…大きくて強い鳥みたいだなって、試合を観ながら思ってて。
私から見るとお兄ちゃんは、高い所を飛んでいる何か…手が届かない存在。そんな感じなの」

百目鬼は絵に視線を戻す。
……これが俺?
「違う、と思う。俺は、とても、こんなでは……こんなに綺麗じゃない…」
「私に言わせると…お兄ちゃん、本当はもっとずっと強い人だと思う…
やりたい事を見つけたら、今度こそ戻って来ない程遠くに行っちゃうんじゃないのかな…」

…葵の、表現者の目から観ると。
オレはこう見えるのか。

「…助けてくれてありがとう、あの時」
ふいに葵が言った。百目鬼は一瞬、何を言われているのか分からなかった。
「直接、伝えた事、そういえば無かったよね」

あの時。

『…見ないで…』
暗闇の中、涙を流していた少女。

百目鬼は目を見開いて葵の顔を凝視した。

『…妹は、よかったな、お前がいて』
矢代の優しい声が聴こえたような気がした。

気がつくと百目鬼は涙を流していた。
「……すまない…葵…俺は…」
妹は歩み寄り、兄の、指の欠けた左手を握る。
「もう一生分くらい何度も謝って貰ったから。だからもう謝らないで。私はもう大丈夫だから。…今日、本当に伝えたかったのはこのこと。お兄ちゃんは、病院で、やり残した事があるって言ってたよね。それなら、想いを残す事がないように、進んでください」

涙がこれまで心に溜まった澱を洗い流してゆく…

赦された
そう感じた

ギャラリーの出口の近くに、小さなミュージアムショップがあった。
作品を発表したアーティスト達が作った小物や雑貨が販売されている。中に葵の名前もあった。ストラップだった。カラフルなそれは、よく見ると小さな鳥の形をしている。
百目鬼はいくつかある中から群青色の物を手に取った。
「これを買いたい」
「じゃあこれは私からのプレゼント」
「いい、払う」
「作者が良いって言ってるんだからいーのっ」
葵はストラップを小さな袋に入れて、百目鬼に渡した。
「…ありがとう」
「どういたしまして!」
兄弟は微笑みあった。こんな風に話すのはいったい、いつぶりだろう。

通用口を出た所で百目鬼の携帯が鳴った。
携帯の表示は『天羽』
「…はい、百目鬼です。……すみません、出先です。5分後にかけ直します」
一旦通話を切る。
「行くの、お兄ちゃん」
「ああ、そろそろ、次に進む頃合いだ。今日は、本当にありがとう、葵。
…俺は、お前を誇りに思う」
「ありがとう…身体に気をつけて、頑張ってね」
百目鬼は葵と別れ、夜の街へと歩き出す。
遠ざかる背中を見送る葵の目に涙が浮かんだ。

どうか…
どうか兄が、無事でありますように。
どうか、望む場所に辿り着けますように。

「あっ…」
思わず神谷が声をあげる。
百目鬼が上着を着た時にポケットからカードケースが落ちたのだった。
拾い上げて相手に渡す。
「ありがとうございます」
百目鬼は受け取ると、一瞬ストラップに目を止める。汚れや傷が無いかを確かめるように。
午後の路地裏で、殴られてうずくまった男が座り込み、顔から血を流している。神谷が男を拘束している間に、百目鬼は綱川に連絡を入れ、この後の指示を仰いだ。

男を後部座席に乗せ、百目鬼は自分も後部座席に乗り込んだ。
神谷は運転席に乗り、ハンドルを握る。
運転しながら、何気無い風に神谷が聞く。
「ストラップとか珍しいっすね」
「…これは、妹から貰ったものなので」
「へえ〜妹さん。居るんですね」
「はい」
少し間を置いて続ける。
「…自慢の妹です」
神谷はルームミラーで百目鬼の表情を素早く伺った。
聞かれてもいない事を百目鬼が答えるのは珍しい。彼の表情は、どこかいつもより、柔らかいような気がした。
『この様子だと、随分と大事にしてる感じだな』
神谷は心のメモに書き込む。
『百目鬼の妹=弱点のひとつ』

車が走り去った後、路地裏から出てすぐの道路を歩く2人の男があった。
1人はいかにもその筋、といった精悍な風貌の男。もう1人は隙のないスーツ姿で目を惹く顔立ち。
七原と矢代。彼らは次の闇カジノの移転先候補の場所を下見して廻っていた。七原はスマホと地図、不動産屋からのメモを見ながら言った。
「もうワンブロック先っすね」
「この辺りは…機材を積んだ車が近くまで行けそうな道があるかどうか、だが」
周囲を見廻す矢代の目が止まった。
視線の先には女性が10人程並んだ店があった。
最近メディアで取り上げられたクレープの店だ。
七原は嫌な予感がした。
「…ちょっと、頭…」
「そういや歩き廻ったしコバラが減ったなぁ。お前アレ買ってこいよ」
「このナリで?あそこに並ぶんすか、俺が?勘弁して下さいよ」
「ほら、お前の分も奢ってやっから」
七原のポケットに千円札を押し込む。
「いやオレは要りません、やめときましょう頭、事務所の冷蔵庫にまだ…」
「社長と呼べ。早く行け」
矢代は懐からタバコを取り出して火をつけ、ガードレールにもたれる。すっかり待つ体制だ。
七原は渋々列に並んだ。周りの女性達の視線が痛い。
矢代はタバコの煙を空に向かって吹き上げた。
紫煙の先に鳥が見えた。ビルの谷間を縫うように、大きな鳥が滑空している。

…この空の下のどこかに、アイツも
何やってんのかねえ…今頃

鳥はやがて、ビルの影に姿を消した。

<fin>

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