相対性幸福論
引っ越す度に本を処分するので、手元には手放せなかった本だけが残る。いつも、手元に残すものと処分するものを分ける明確な基準もないまま本を選別していたが、面白いことに気づいた。
私が好きな作家の本や、また読むだろうと思う本は意識的に手元に残してきたが、どうやら私の潜在意識が選別したらしい(だから、自分の意思で手元に残したという自覚が全くない)本がけっこうあるのだ。
去年の春に21年間過ごしたニューヨークから日本へ戻ってきた。そのときもだいぶ本を処分したが、最近、日本に持ち帰った本を見て、「ヘ〜、私はこんな本を大切にしていたんだ」と意外に思った。買ったことさえ覚えていないものもあった。
どんな本があったかというと、ひとつは幸福論。ショーペン・ハウアー、ヒルティ、そして寺山修司が書いた「幸福論」が出てきた。それと自殺に関する本。ショーペン・ハウアーの「自殺について」、寺山修司の「青少年のための自殺学入門」。最後まで読んだものもあるが、途中で読むのをやめてしまったものもある。それでも、何となく手元においておいた。
私はずっと幸福って何だろうと思ってきた。今も何だかよくわからない。私にとってはとても不思議な概念なので、いつかちゃんと考えてみたいという気持ちがある。それで「幸福論」というタイトルを見ると、つい手にとってしまう。自分は多分しあわせだろうと思っているが、何をもってそう思っているのか、実はよくわからない。また、しあわせだと思ってはいるが、それは幻想かもしれないという疑いも常にある。だから、自分はしあわせなのかどうか、先人の知恵を借りて確認したいのだ。しあわせかどうかなんて、そもそも確認できるものなのかどうかさえ怪しいが。
それで、今まで時折心に浮かんできた「しあわせって何だろう」という問いが再び頭をもたげてきたときに、何らかの回答が得られるのではないかという期待があって、こういう本を見かけるとつい買ってしまっていた。自殺論に関心があるのも、自殺する人としない人とを分けるものは何なのだろうという疑問があるからだ。自殺する人としない人の間には、実は私たちが思っているほど大きな差はないような気がする。
深く考えたわけではないが、感覚的に私の中にある、人の一生のイメージは綱渡りのようなもので、多くの人は綱の上をおぼつかない足取りで、それでも少しでもしあわせになろうとして一歩ずつ歩んでいる。でも、運悪く突風が吹いてきて、足を踏み外して転落してしまうこともある。私にとって自殺とはそういうイメージだ。足を踏み外すか踏み外さないかなんて、人の意思よりも偶然とか運とかいうものに左右されるところが大きい。計画的に準備をして実行する自殺もあると思うけれど、多くの自殺は、あるとき突発事故のように実行されるのではないかと思う。
幸福の反対の概念が不幸なのかどうかもよくわからないがーー何しろ幸福の概念がよくわからないのでーーただ、しあわせな人は自殺しないだろうと考えるのは自然だろう。そう考えると、しあわせの対極にあるのは自殺かもしれない。それとも、しあわせだからこそ自殺するということもあるのだろうか。私にはイメージできないが。しあわせの絶頂で自殺する、ということならあるかもしれないと思う。
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つい最近、「しあわせだ〜」と思うことがあった。実は、私は「しあわせだ〜」と独言ていることがよくある。先日、近くのリサイクルショップで花瓶を置くような、木製の台を買ってきた。ベッドにもなる小さなカウチの横に置くコーヒーテーブルが欲しいと前から思っていたのだが、それにちょうどよさそうな花瓶置きが店先に置いてあったのだ。
私はYouTubeを見ながら食事をするのが好きだ(テレビはないので)が、ダイニングテーブルで食事をすると、仕事部屋の机の上のデスクトップパソコンが遠くて見にくいので、いつも机の上にお皿を並べてパソコン画面を見ながら食事をしていた。もちろん、この情けない状態を何とかしたいとずっと思っていた。
小さいコーヒーテーブルがあれば、カウチの横においてゆったり食事をしながら、またはコーヒーやワインを飲みながらパソコンで映画を見ることができる。そうなったら、グッとQOLが上がるだろうと思っていたら、手頃な道具を見つけたというわけ。ありがたいことに、私のQOLはその程度のことでググッと上がる。
そして、晴れて、その”コーヒーテーブル”にコーヒーやワインやビールなんかを置いて、カウチにゆったり腰を沈めて、パソコンモニターで映画を見た。外は秋晴れで、ベランダからは気持ちのいい風が入ってくる。思わず、「しあわせだ〜」と呟いた。
しあわせって絶対的なものじゃない。ということは相対的なものだ。昨日までなかったものがひとつ自分の生活にささやかに加わるだけで、私は昨日より相対的にしあわせになれる。そして、しあわせのもうひとつの側面は、幸福感は長続きせず、必ずフェードアウトするということだ。と、私は思っているが、長続きする幸福感ってあるのだろうか。
私の経験則では、このささやかなしあわせもそのうち日常に埋没してフェードアウトしていくので、幸福感を持続的に味わいたければ、また私を昨日より相対的にしあわせにしてくれるささやかな”何か”を見つけなければない。その繰り返し。しあわせとか幸福感って、喩えていうなら蜃気楼か真夏の逃げ水のようなものじゃないかな。
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夏だったらこんな文章は書かなかっただろう。たまたまちょうどいいコーヒーテーブルを手に入れたというささやかな幸福感と秋風が、私にこんな文章を書かせた。
らうす・こんぶ/仕事は日本語を教えたり、日本語で書いたりすること。21年間のニューヨーク生活に終止符を打ち、東京在住。やっぱり日本語で話したり、書いたり、読んだり、考えたりするのがいちばん気持ちいいので、これからはもっと日本語と深く関わっていきたい。
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