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短歌ってなに?

時々ふと言葉が降りてきて、詩のようなものになったり、短歌のようなものになったり、稀にだけれど俳句や川柳のようになったりするので、それを書き留めておく。

そんなことをしているだけで、「詩を書こう」とか「短歌を作ろう」とか、あらかじめ"入り口"を決めて創作することはない。なんとなく五七五七七になったから、じゃあこれは短歌かな、というくらいのテキトーさで書いている(と言えるほど、実はたくさん作っていない。言葉が降りてくる待ち時間が長いので💦)。

でも、一口に五七五七七、三十一文字の詩といっても、短歌と和歌は違う。ネットで調べたところ、原則として漢語や外来語を除いた大和言葉を用いる、伝統的な“型”を持つものを和歌、明治以降、個人の自由な表現として詠まれるようになったものを短歌と呼び分ける傾向があるとのこと。だいたいそんなところだろうと思ってはいたが。

私は和歌が好きだし、石川啄木や寺山修司の短歌も大好きだ。作風は好きではないけれど、俵万智さんあたりまではなんとなく馴染みがある。だが、21世紀になってから短歌はどうやらかなり様変わりしているらしい。最近の短歌ってどんなんなんだろうと気になった。

そこで、紀伊國屋に行って短歌コーナーに行ってみてびっくり。短歌ってかくも人気が高い文学ジャンルだったっけ?たくさんの新刊本が平積みで並んでいるのだ。ほとんどが現代短歌で、歌人たちは1990年代以降生まれの人たちがほとんど。装丁も今風で、アニメ風のイラストが使われているものも。

現代短歌ではカタカナはもちろん、記号やマークなども使っていいそうで、パラパラページをめくってみると「!」や「❤️」がたくさん並んでいたりして、まるで若者のブログやラインのやり取りを見ているようだ。歌の歌詞になりそうなかっこいい表現もたくさんある。

だが、ざっと十数冊を手に取ってページをめくってみた私の結論。いわゆる現代短歌は、私は好きになれそうもない。和歌や石川啄木、寺山修司などの短歌は耳に心地よく、言葉に広がりがあって、私なりにその情景が目に浮かび、その世界に入っていける。まるでその短歌は自分が作ったかのように、自分のものにすることができる。

でも、現代短歌はパーソナルで、都会の1LDKのマンションのような狭い世界を感じる。その歌人の仲間でない私はそこへは入って行ってはいけない感覚があった。つまり、作品に普遍性が感じられない。また、ナルシズムが見え隠れするのも私の好みには合わなかった。「こんな表現ってよくない?」、「この言葉をこういうふうに使うのって、ちょっとすごいっしょ?」みたいな。気を衒ったような言葉遣いや表現が多いように感じてしまう。私の頭にふと、”キラキラ短歌”という言葉が浮かんだ。

私が若者だった時代と今の若者が生きている時代、昔の若者と今の若者の感覚の違いということになるのだろうか。80年代に寺山修司の短歌を読んだ当時の若者は寺山の世界に夢中になったけれど、上の世代の人たちには寺山はピンと来なかったかもしれない。私は文学作品や芸術作品には普遍性があるものだ、と思っていたが、それは頑固な思い込みなのかもしれない。普遍性を持たない、一部の人たちの中でのみ成立する文学というのもあってもいいのかもしれない。そういうことなのだろう、と思うことにする。

最近の短歌集で面白いものがあればぜひ買い求めたいと思って紀伊國屋に行ったのだったが、結局レジに持って行ったのは寺山修司と西行の二冊だった。




らうす・こんぶ/仕事は日本語を教えたり、日本語で書いたりすること。21年間のニューヨーク生活に終止符を打ち、東京在住。やっぱり日本語で話したり、書いたり、読んだり、考えたりするのがいちばん気持ちいいので、これからはもっと日本語と深く関わっていきたい。

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