「戦争は女の顔をしていない」
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ 著 三浦みどり 訳 群像社 2008年7月
いまや説明不要かと思いますが、本書は著者のスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチが第二次大戦の独ソ戦に従軍した女性500人にインタビューした証言をまとめたもの。
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチは1948年にウクライナ人の母とベラルーシ人の父との間に生まれ、ベラルーシに長く居住したのち、2000-2011年に一時出国。2015年にノーベル文学賞受賞。ルカシェンコ政権に批判的な立場をとり、2020年8月にルカシェンコが再選を果たすと9月に病気療養のためドイツに出国し、そのまま留まっている、とのこと。
『戦争は女の顔をしていない』は著者の第1作で、1978年から女性に聞き取りを始め、完成後2年間は出版が許可されず、初版はペレストロイカ後の1985年になって出版。
日本語版は2004年の最終稿を元に翻訳され、巻頭のメモの部分には初版では検閲で削除された部分、著者が自らの判断で削除した部分についての記述があります。
検閲官との対話のなかで、「英雄的な手本を探すべきだ」「あなたは戦争の汚さばかり見せようとしている」「真実というものは我々が憧れているものだ。こうでありたいと願うものなのだ。」と言われたという。
削除された部分は最終稿ではほぼ本文中に再録されているとのこと。
メモの部分の冒頭にはこの本を出版する動機について書かれていますが、戦争の歴史はこれまで常に「男の言葉」で語られてきた、「「女たちの」戦争にはそれなりの色、臭いがあり、光があり、気持ちが入っていた。そこには英雄もなく、信じがたいような手柄もない、人間を超えてしまうようなスケールの事に関わっている人々がいるだけ」だという。
これまでそうした体験を女たちは語ろうとしてこなかった。
本文の体験談を読むと分かりますが、こうした物語は戦後、夫や家族から人に語らないように抑制されてきたことが窺われます。
それほどまでに過酷で、非常時には平時での価値観では推し量れない、そのときにせざるを得なかったぎりぎりの選択や行いがあったということだと思います。
これを語ることは先に引用した検閲官の言葉のように、封印してしまいたい過去であり、平時であれば非難されかねない負の物語でもある。
収録された体験談はほんの数行から数ページのごく短いものですが、その内容はあまりに衝撃が大きく、ひとつひとつ読む度にそれを受け止めるための時間が必要になる。
全体で400ページに満たないボリュームですが、読み終わるのに相当な期間を要しました。
体験談を読んでいて、まず驚くのは戦争に参加することへの積極性です。
語り手の多くが自ら志願し、年齢を詐称したり、上官のところに直訴したり、また資格がないのにも関わらず強引に従軍してしまう事例の数々。
これには全体に対する個の犠牲や奉仕を旨とする、ソ連という共産主義体制という時代の空気が大いにあるものと思われますが、スラブ系の女性のもつ気質といったものも作用しているのかもしれません。
独ソ戦ではソ連がジュネーブ条約に参加していなかったこと、スラブ民族対“アーリア人”という異民族同士の対立、更に“ファシスト”対“ボルシェヴィキ”という究極の政治的対立が混ぜ合わさった結果、敵に対する残虐行為が殊更に増大し、不必要なまでの犠牲者を出しているわけですが、ここで語られる戦場の様相はやはり想像の遙か斜め上を行く悲惨さです。
これは前線で火器を用いて戦った兵士との違いといった点を相殺するに充分な、悲惨極まりなく、また忍耐の限度を超えた体験というほかない。
戦争の体験談はどの戦場、その時代でも例外なく悲惨なものですが、やはり独ソ戦という特異な状況下で起きた物語という要素抜きでは理解することは難しいと思います。
更に時代的な特異性を際立たせるものとしてのソ連という国家の枠組みの存在。
当然ではありますが、当時はロシアもウクライナもベラルーシも同じく「ソ連軍」としてナチスドイツに対峙していた。
革命後20数年という期間にソ連という枠組みでのナショナリズム、愛国的犠牲の対象としての国家への帰属意識がかくも強固になりうるものなのか、という驚きがあるのですが、そこはスターリン体制下、戦前の苛烈な独裁体制による稀に見る弾圧と、その結果としてのある種の“純化”によるものということだと思われます。
スターリンの粛清の結果としての初戦の劣勢やウクライナのホロドモールについての恨み節が滲み出る体験談が散見されるのも、ソ連的愛国心の歪な面が窺われて興味深いのです。
やはり、それだけ“ファシスト”に対する敵対心は恐るべき反動エネルギーを喚起したのだろうと思います。
また更に恐るべきは、敵に対してではなく、味方の密告や“裏切り者”というレッテル貼りに対する恐怖。
捕虜になることで本人だけでなく家族までもが強制労働送りになったり、社会的に抑圧を受ける体制の歪さ。
これは共産主義体制の負の面の典型的事例というべきものですが、スターリンの抑圧が戦時において更に具体的な形で先鋭化したものでもあるかと思います。
その一方で、フルシチョフ以降のスターリン批判を受けてスターリンそのものへの批判が語ることができるようになって以降も、「共産党員として信じていたもの」に対して強い思い入れを語る人がいるのも興味深いところ。
共産主義の評価そのものに繋がる部分ですが、ソ連が解体し、共産主義から資本主義に体制が変化しても、世代的に共産主義への一種の憧れ、その思想を信奉する人がいることは、西欧で資本主義が自由主義とほぼ同義で語られる事とは違う思想的な背景があることを実感するのです。
過酷な体験を経て戦後に帰国を果たしても、その後遺症は長く尾を引き、軍服から平服に着替えても女性らしい服装や化粧の仕方を忘れた、とか、女性らしい振る舞いや恋愛ができなくなった、といった問題や、戦場で“戦地妻”となっていたのではないか、などといった謂れのない中傷を受けるなど、想像以上に辛い体験が長引いていたことに衝撃を受けます。
戦功で得た勲章を隠したり、あるいは戦傷の証明書を破り捨てたりといったことが行われ、こうしたことからも彼女たちが口を噤んでいた実態が明らかにされるのでした。
戦争体験のない世代やまた銃後での体験しか知らない人々にとって、ここで語られる体験談の数々は、とても想像できるような内容ではなく、あまりに悲惨で人の道から外れる非道の数々に打ちのめされてしまうのでした。
かつてないほどに戦争の時代が再び訪れる危機に瀕している今の時代にあって、ひとたび戦争が起きればどのような事態に遭遇するのか、改めてここに書かれていることに目を向け、戦争回避の道がどれほど重要なことなのか、認識を新たにしなければならないのだと思います。
以下、ちょっと余談ですが
日本語版の初版は2008年に出版され、2015年のアレクシエーヴィチのノーベル賞受賞を機に再版の予定があったものが、版権が消失し、群像社での再版は不可能となったとのこと。
2016年に岩波書店が版権を取得し、岩波現代文庫として出版。
2020年には2019年から配信で発表されていた漫画版がコミックスの第1巻が発売。
今のところ第3巻まで発売。
コミックスの第1巻の帯には富野由悠季が推薦文を寄せており
「この原作をマンガ化しようと考えた作家がいるとは想像しなかった。瞠目する。原作者の慧眼をもって、酷寒のロシア戦線での女性の洗濯兵と狙撃兵の異形をあぶり出した辣腕には敬意を表したい。それをマンガ化した作者の蛮勇にも脱帽する。男性の政治家と経済人たちの必読の書である。女たちは美しくも切なく強靭であったのは事実なのだ。」
とのこと。
戦場での“強い女性”に特別のこだわりを見せる富野由悠季らしいとしか言いようのない、熱い想いの込められた推薦文だと思います。