院試対策向けの哲学史(途中)
はじめまして、めーてーと申します。
哲学に関心があり、今後、ニーチェを専門とすることになる予定です。
この度、大学院進学が決定したのですが、試験対策の際にまとめた哲学史を、本記事では公開しようと思います。どれほど需要があるか不明なので、本記事では、ひとまずソクラテスまでを公開してみます。本記事が(ありがたいことに)好評であれば、プラトンから続けて、アリストテレス、中世、合理論と経験論、カントあたりまでの文章を投稿用に整理し、公開しようと思います。
本記事の特徴として、次のことを挙げることできるかと思います。
・基本的に、各哲学者ごとではなく、各用語ごとにまとめました。というのも、大学院選抜では、(私が調べた限り)ある用語について説明する問題が多いからです。したがって、各用語を暗記すれば、その用語を説明する問題に対応することができます。ただし、用語ごとに区切ることで、前後の文脈が失われてしまうことがあります。
なお、本記事を読むにあたっての注意点は、以下の通りです。
・()内は、捕捉です。
・なるべく一段落一内容になるように気を配りました。したがって、丸暗記しなくても、各段落の要点を理解すれば、ある程度の問題には対応できると思います。
・並列関係などを明確にするために、ナンバリングを施した箇所があります。理解や暗記の助けになるかと思います。
・参考のために、原語を併記した箇所があります。ただし、アクセント記号などが正確に付いていない箇所があります。
・用語ごとに、参考文献と、参考にした箇所のページ数を載せました。参考文献の一覧は、記事の最後にまとめてあります。
・捕捉がなされている用語もあります。理解や暗記の助けになるかと思います。
・本記事を鵜呑みにせず、参考程度にしてください! 本記事は、もともとは私個人の試験対策としてまとめたものです。したがって、志望する受験先によっては、本記事よりもより詳細な説明が求められる場合もあるかと思います(その際は、載せている参考文献が、大きな助けになるかと思います)。また、同じ理由で、そこまで網羅的ではありません。経験論と合理論とカントを中心にまとめたので、それ以前とそれ以後については、断片的な部分も多いです。したがって、「哲学で大学院を目指すなら、これぐらいは書いておきたい」という基準のひとつとして、活用していただけたらと思います。
1.1 古代(ソクラテス以前)
ミレトス学派(イオニア学派)
ミレトス学派とは、これまで神話によって説明されてきた世界のあり方を、それ自体は変化しない根源的な原理ないし元素によって概念的・抽象的に説明しようとした人々の総称である。彼らが探究した、それ自体は変化しない根源的な原理ないし元素は、アルケーと呼ばれる。
この学派には、①タレス、②アナクシマンドロス、③アナクシメネスが属するとされる。①タレスは水を、②アナクシマンドロスは無限定なもの(ト・アペイロン)を、③アナクシメネスは空気を、それぞれアルケーだと考えた。
参考文献
・岩崎武雄『西洋哲学史(再訂版)』有斐閣、1975年、p. 10-11
・クラウス・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社、2000年、pp. 19-20
捕捉
・ミレトス:紀元前6世紀頃、ギリシア植民地イオニアの中心都市。
(岩崎武雄『西洋哲学史(再訂版)』有斐閣、1975年、pp. 10-12)
アルケーἀρχή
アルケーとは、世界の多様な現象の根底にある、それ自体は変化しない根源的な原理ないし元素のことである。アルケーという考え方をミレトス学派が用いる以前は、世界のあり方を神話によって説明しようとしていた。それに対して、アルケーという考え方では、世界のなかにある原理ないし元素から説明しようとしている。
例えばタレスは水を、アナクシマンドロスは無限定なもの(ト・アペイロン)を、アナクシメネスは空気を、それぞれアルケーだと考えた。
参考文献
・岩崎武雄『西洋哲学史(再訂版)』有斐閣、1975年、pp. 10-11、22、44
・クラウス・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社、2000年、p. 20
捕捉
・物活観Hylozoismus:物質自身が生命をもつと考える考え方。
(岩崎武雄『西洋哲学史(再訂版)』有斐閣、1975年、p. 12)
タレスΘαλής
タレスは、ミレトス学派(イオニア学派)の1人である。彼は自然全体の多様性の中に統一性を求め、自然全体を、それ自体は変化しない根源的な原理ないし元素、つまりアルケーから説明しようとした。彼によれば、アルケーは水である。
この水は、単なる物質ではなく、物質でありながら同時に生命でもあるようなもの、変化する力をそれ自身のうちにもつようなものである。
参考文献
・岩崎武雄『西洋哲学史(再訂版)』有斐閣、1975年、pp. 11-12
・クラウス・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社、2000年、pp. 20-22
捕捉
・アリストテレス『デ・アニマ(霊魂論)』によれば、物質が生命に満ちた ものであることを示す例として、タレスは磁石を挙げている。
(クラウス・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社、2000年、p. 21)
アナクシマンドロス Ἀναξίμανδρος
アナクシマンドロスは、自然全体の多様性の中に統一性を求め、自然全体を、それ自体は変化しない根源的な原理ないし元素、つまりアルケーから説明しようとした。彼によれば、アルケーは、「無限定なもの(ト・アペイロンτὸ ἄπειρον)、無規定なもの(ト・アオリストン)」である。
それは、無限定であるから、時間の下にもなく、不滅である。一方で、彼は、自然の中の諸事物は、「無限定なもの(ト・アペイロン)・無規定なもの(ト・アオリストン)」から、「時の定め」にしたがって、生成し消滅するとした。
参考文献
・岩崎武雄『西洋哲学史(再訂版)』有斐閣、1975年、pp. 11-12
・熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』岩波書店、2006年、pp. 10-14
・シュヴェーグラー『西洋哲学史 上巻』岩波書店、第2版、1958年、pp. 37-38
・クラウス・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社、2000年、pp. 22-23
捕捉
・タレスは一つの原理ないし元素を水としたが、水は四元素のうちの一つでしかない。
(シュヴェーグラー『西洋哲学史 上巻』岩波書店、第2版、1958年、p. 37。クラウス・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社、2000年、p. 22)
アナクシメネス Άναξιμένης
アナクシメネスは、自然全体の多様性の中に統一性を求め、自然全体を、それ自体は変化しない根源的な原理ないし元素、つまりアルケーから説明しようとした。彼によれば、アルケーは空気ἀήρである。
また、彼は、空気が自ら濃縮化と希薄化をすることによって、現象の多様性や変化が生じると考えた。
参考文献
・岩崎武雄『西洋哲学史(再訂版)』有斐閣、1975年、pp. 11-12
・シュヴェーグラー『西洋哲学史 上巻』岩波書店、第2版、1958年、pp. 38-39。クラウス・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社、2000年、p. 24)
捕捉
・空気を原理ないし元素と考えたのは、呼吸が生命活動の条件であることから。
(熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』岩波書店、2006年、p. 14。シュヴェーグラー『西洋哲学史 上巻』岩波書店、第2版、1958年、pp. 38-39)
エレア学派
エレア学派は、世界の多様な現象を唯一の原理に還元しようとした。エレア学派には、クセノファネス、パルメニデス、ゼノンなどが属するとされる。
参考文献
・シュヴェーグラー『西洋哲学史 上巻』岩波書店、第2版、1958年、p. 46
クセノファネスΞενοφάνης
クセノファネスは、神は人間を模したものだとする民間の多神教を批判した。彼によれば、神は唯一、不変、永遠であり、自足的で世界に依存せず、道徳的に完全であるとした。
参考文献
・岩崎武雄『西洋哲学史(再訂版)』有斐閣、1975年、p. 15
・シュヴェーグラー『西洋哲学史 上巻』岩波書店、第2版、1958年、pp. 47-48
・クラウス・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社、2000年、pp. 28-30
捕捉
・彼の神観念は、神話的世界観だけでなく、ミレトス学派のような世界のうちにあるアルケーを乗り越え、パルメニデスの存在概念や、プラトン、アリストテレスの神理解を準備した。
(クラウス・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社、2000年、p. 30)
パルメニデスΠαρμενίδης
パルメニデスは、有り、そして、有らぬものは有らぬεστιν τε και ουκ εστι μη ειναιとした。
①有るものは生成も消滅もしない。なぜなら、有るものが生成や消滅をするということは、有らぬものが有るものに、有るものが有らぬものになることであるが、これは不合理だからである。
②また、有るものは不可分である。なぜなら、有るものが可分であるのならば、有るものと有るものとの間に有るものとは別のもの、すなわち有らぬものがある必要があるが、これは不合理だからである。
③さらに、有るものは不変不動である。なぜなら、有るものが動くのならば、それは有らぬもののなかを動くことであるが、これは不合理であるからである。
また、パルメニデスによれば、以上の洞察は、思考によってのみ得られる。こうして彼は、有るものと思考とを結びつけた。他方、彼は、変化や多様を捉える感覚的経験は誤りであるとした。
参考文献
・岩崎武雄『西洋哲学史(再訂版)』有斐閣、1975年、pp. 16-17
・シュヴェーグラー『西洋哲学史 上巻』岩波書店、第2版、1958年、pp. 48-51
・クラウス・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社、2000年、pp. 37-42
ゼノンΖήνων Έλεάτης
ゼノンは、パルメニデスの「有り、そして、有らぬものは有らぬ」という考え方を継承し、空間、多、運動について、それらを認める場合に生じる矛盾を指摘することで、それらを否定した。したがって、アリストテレスはゼノンを、弁証法διαλεκτικήの創始者と呼ぶ。
空間の否定
空間の否定については、以下の通りである。すなわち、存在するものすべてが空間のうちにあり、その空間も存在するもののひとつであるならば、この空間もまた別の空間のうちになければならず、無限後退に陥る。
多の否定
多の否定については、以下の通りである。
①多数のものの総体は、無限小である。なぜなら、多数のものは、大きさを持たない無限小のものに分割されるが、無限小のものの総体も無限小であるからである。一方で、多数のものの総体は、無限大である。なぜなら、多数のものを部分に分けうるならば、その部分は大きさをもつ第三のものによって分けられる。そして、この第三のものは、さらに別の第三のものによって、他のものと相互に分けられる。したがって、多数のものの総体は無限大である。以上のことから、多数のものが存在するとすると、矛盾が生じる。
②多数のものが存在するならば、現にあるだけあるはずであるから、その数は有限である。一方で、多数のものが存在するならば、これらは第三のものが間に存在することで互いに区別される。そして、この第三のものは、さらに別の第三のものによって、他のものと区別される。したがって、無数のものが存在することになる。以上のことから、多数のものを存在するとすると、矛盾が生じる。
運動の否定
運動の否定については、以下の通りである。
①ある物体が一定の距離を通り過ぎることは不可能である。なぜなら、その物体はまずその半分の距離を進まねばならず、それ以前に、その半分の距離の半分の距離を進まねばならない。こうして、有限の時間において、無限の数の区間を通り過ぎることは不可能である。
②アキレウスは亀に追い抜くことができない。なぜなら、亀が最初にいたところにアキレウスが到達する頃には、亀は先行している。亀がいるこの場所にアキレウスが到達する頃には、亀はその地点より先行している。両者の差は無限に縮まるが、この無限の過程を通して、アキレウスが亀を追い抜くことはできない。
③飛ぶ矢は実は静止している。各々の瞬間をとってみれば、飛ぶ矢はそれぞれある一点において静止している。よって、飛ぶ矢はあらゆる瞬間において静止しており、ゆえに、その飛行全時間においても、飛ぶ矢は静止している。
参考文献
・岩崎武雄『西洋哲学史(再訂版)』有斐閣、1975年、pp. 17-19
・シュヴェーグラー『西洋哲学史 上巻』岩波書店、第2版、1958年、pp. 51-54
・クラウス・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社、2000年、pp. 43-45
ヘラクレイトスἩράκλειτος
「万物は流転する」Τα Πάντα ῥεῖ
「万物は流転する」とは、ヘラクレイトスの考えである。(エレア学派が生成を否定したのに反して、)ヘラクレイトスは、世界には不変のものはなく、一切は常に流れて止まるところがないと考えた。つまり、存在するものはなく、生成だけがあると考えた。
(このことは、火πῦρに例えられる。火は消えることで、新たに燃え上がり、一定の形をもつことがない。)
(感覚器官がこうした生成を不変の存在のように見なす一方で、理性λόγοςは、生成としての世界を把握する。(これは、エレア派とちょうど逆である。)
参考文献
・岩崎武雄『西洋哲学史(再訂版)』有斐閣、1975年、pp. 19-20
・熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』岩波書店、2006年、pp. 21-26
・シュヴェーグラー『西洋哲学史 上巻』岩波書店、第2版、1958年、pp. 56-57
・クラウス・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社、2000年、pp. 30-33
捕捉
・ロゴスが生成を把握できるのは、生成の法則もロゴス(普遍的・根源的・不変的ロゴス)であるから。
(クラウス・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社、2000年、pp. 32-33)
・生成変化の法則としてのロゴスとは、火の「下り坂」(火→空気→水→土)と「上り坂」であるとされる。
(岩崎武雄『西洋哲学史(再訂版)』有斐閣、1975年、p. 20。シュヴェーグラー『西洋哲学史 上巻』岩波書店、第2版、1958年、p. 59)
「戦いは万物の父である」
(エレア学派が生成を否定したのに反して、)ヘラクレイトスは、世界には不変のものはなく、一切は常に流れて止まるところがないと考えた。つまり、存在するものはなく、生成だけがあると考えた。
こうした生成は、互いに対立するものが争った結果である。ヘラクレイトスはこれを、「戦いは万物の父である」と表現した。互いに対立するものが、結合され、調和するということが、世界の秩序・統一となる。
参考文献
・岩崎武雄『西洋哲学史(再訂版)』有斐閣、1975年、pp. 20-21
・熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』岩波書店、2006年、pp. 21-27
・シュヴェーグラー『西洋哲学史 上巻』岩波書店、第2版、1958年、pp. 56-57
・クラウス・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社、2000年、pp. 30-33
ピュタゴラス学派
ピュタゴラス学派は、世界全体を成立させている不変のものを、何らかの元素にではなく、世界の形式的構造に求めた。そうして、世界全体を成立させている不変のものを、数的な関係に求めた。この学派にとって、世界とは、ある形と割合とにしたがって調和的に組織された全体である。
ピュタゴラス学派では、こうした数学論は、音楽論や天文学、倫理学にも関係している。
参考文献
・岩崎武雄『西洋哲学史(再訂版)』有斐閣、1975年、p. 22。
・シュヴェーグラー『西洋哲学史 上巻』岩波書店、第2版、1958年、pp. 42-44
・クラウス・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社、2000年、p. 25
捕捉
・しかしピュタゴラス学派であっても、質料的原理と形相的原理をまったく区別しているわけではなかった。例えば、「万物は数である」という命題は、数が質料的原理であることを意味しているとも解釈できる。
(シュヴェーグラー『西洋哲学史 上巻』岩波書店、第2版、1958年、p. 44。熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』岩波書店、2006年、p. 19)
エンペドクレスἘμπεδοκλῆς
エンペドクレスは、事物の生成を、火、空気、水、土という4種の「根ῥιζώματα」の結合・分離から説明した。これらの根は生成も消滅もしない永遠のものであるが、それぞれは性質によって互いに区別される。
事物の生成と消滅は、これらの根がある一定の割合によって結合・分離することであると、説明される。4つの根を結合するのは愛φιλίαと呼ばれ、分離するものは憎νεῖκοςと呼ばれる。
参考文献
・岩崎武雄『西洋哲学史(再訂版)』有斐閣、1975年、pp. 24-25
・シュヴェーグラー『西洋哲学史 上巻』岩波書店、第2版、1958年、pp. 61-63
・クラウス・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社、2000年、pp. 45-47
捕捉
・ここに元素stoicheionという考えが見て取れる。
・世界は、①愛によって1つの完全な球体sphairosであり、②憎が入ることによる、愛憎による結合と分離の時期、③憎による完全な分離の時期、④愛が入ることによる、愛憎による結合と分離の時期をへて、再び①へと戻る。
(岩崎武雄『西洋哲学史(再訂版)』有斐閣、1975年、p. 25。クラウス・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社、2000年、p. 46)
アナクサゴラスΑναξαγορας
アナクサゴラスは、事物の生成・消滅を、種子(スペルマタ)spermataの混合・分離として説明した。
彼は現実の事物の性質の数と同じ種数の種子を考えた。①種子は大きさが無限小で、色・形・味などによってそれぞれが区別される。②ある事物に最も多く含まれる種子の性質が、その事物の性質として現れる。
(例えば、種子には、毛髪の種子や肉の種子などがあり、肉には肉の種子が最も多く含まれているが、毛髪の種子などの他の種子も多少含まれている。肉を食べて毛髪が育つのは、肉に毛髪の種子が含まれており、それを摂取したからである。また、アリストテレスは、この種子を「同質素homoimereiai」と呼んだ。)
彼はこの種子を最初に動かすものをヌースnous(精神)と考えた。ヌースは他のものによって規定されない能動的なものであり、ある目的をもって、種子にはたらきかけ、種子に秩序を与える。種子は、ヌースによってひとたび動かされると、その後は機械的に混合・分離をする。
参考文献
・岩崎武雄『西洋哲学史(再訂版)』有斐閣、1975年、p. 25-27
・熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』岩波書店、2006年、pp. 47-50
・シュヴェーグラー『西洋哲学史 上巻』岩波書店、第2版、1958年、pp. 70-74
・クラウス・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社、2000年、pp. 47-49
デモクリトスΔημόκριτος
デモクリトスは、諸事物はアトムから成ると考えた。アトムとは、それ以上分割できず、変化することもない元素のようなものである。それぞれのアトムは、性質によって区別されず、形態や大きさ、重さといった量的な区別をもつ。事物の生成・消滅や、また、色や味といった事物の性質は、アトムの運動によって説明される。
その際、アトムは、空虚な空間のなかを運動するとされた。(パルメニデスが「有るものは有る、有らぬものは有らぬ」としたのに対し、デモクリトスは、「有らぬものは有るものにおとらず有る」としたといえる。)
また、アトムの運動は、アトム固有の性格であるとされた。したがって、一切は必然的な定めanankeに支配されている。(これは、元素である種子とそれを動かすヌースとを分ける、アナクサゴラスの考え方とは異なっている。)
参考文献
・岩崎武雄『西洋哲学史(再訂版)』有斐閣、1975年、pp. 27-29
・シュヴェーグラー『西洋哲学史 上巻』岩波書店、第2版、1958年、pp. 65-68
・クラウス・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社、2000年、pp. 49-52
捕捉
・アナクサゴラスの目的論のような考え方を、デモクリトスは偶然tycheと呼んだとされる。
(シュヴェーグラー『西洋哲学史 上巻』岩波書店、第2版、1958年、pp. 67-68)
1.2 ソクラテスΣωκράτης
ソフィスト
ソフィストという言葉は元来「賢者」、つまり何らかの知識や技術を身につけた人のことを意味する。よって、芸術家や詩人も「ソフィスト」だといえる。しかし、プロタゴラスが「ソフィスト」を自称してから、この言葉は職業的教育者として弁論術や弁証論を教授する人という意味をもつようになった。とくにアテーナイの民主制においては、裕福で才能のある若者は、自身の政治的成功のために、高額な授業料を払って、職業教育者としてのソフィストたちに討論と演説の技術を教わった。しかし、(プラトンの対話篇にあるように、)ソフィストたちは若者を相対主義・懐疑主義へと導いていると批判されることもあった。彼らによって、哲学の関心は、世界から人間や倫理へと移っていったといえる。
参考文献
・岩崎武雄『西洋哲学史(再訂版)』有斐閣、1975年、pp. 31-32
・熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』岩波書店、2006年、pp.58-59
・クラウス・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社、2000年、pp. 56-58、65
プロタゴラス
人間は万物の尺度である
プロタゴラスは、「人間は万物の尺度である」という言葉で有名である。この言葉によって、プロタゴラスは、真理の尺度は事物にではなく、個々の人間にあるということを指摘し、すべての人間に共通な普遍的真理の存在を否定した。つまり、すべての人間に同様に認識されるはずのものを、個々の人間によって異なる主観的な現象へと解消させた。
プロタゴラスは、こうした相対主義を以下のように基礎づけた。すなわち、感覚は事物が感覚器官に作用することで生じるが、事物も感覚器官も絶えず運動変化する以上、すべての感覚は、ある事物のある瞬間の事実を示しているにすぎない。そして、知識は感覚に基づく以上、ある感覚は、その瞬間その人にとって真理であり、すべての人間に共通な普遍的真理はない。
参考文献
・岩崎武雄『西洋哲学史(再訂版)』有斐閣、1975年、pp. 32-33
・熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』岩波書店、2006年、pp. 59-61。
・クラウス・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社、2000年、pp. 56-58
ゴルギアス
懐疑主義
ゴルギアスは、『非存在、ないし自然について』において、3つの命題から、徹底的な懐疑を表明している。3つの命題とは、「①何ものも存在しない。②たとえ何かが存在するにしても、それは人間には認識されないだろう。③また、たとえ認識されるとしても、いずれにしても、それを伝えることはできないだろう」というものである。
参考文献
・岩崎武雄『西洋哲学史(再訂版)』有斐閣、1975年、p. 33
・シュヴェーグラー『西洋哲学史 上巻』岩波書店、第2版、1958年、pp. 84
・クラウス・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社、2000年、p. 61
不知の自覚、汝自身を知れγνῶθι σεαυτόν
不知の自覚(無知の知)とは、プラトンの対話篇においてソクラテスが知者とされていた人々との対話を通して得た自覚である。「ソクラテスよりも知恵ある者はいない」というデルフォイの神託に疑問を持ったソクラテスは、彼よりも知者であるとされていた政治家や詩人や職人たちを訪ねた。彼らとの対話を経て、ソクラテスは、対話相手たちよりも自身の方が、知恵があると思うに至った。というのも、対話相手たちは、知らないことを知っているかのように思っているのに対し、ソクラテス自身は、知らないことを、その通り知らないと思っているからである。
このことからソクラテスは、この「汝みずからを知れ」という格言を、自身の行動の標語にした。
参考文献
・熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』岩波書店、2006年、pp. 68-71
・クラウス・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社、2000年、p. 65
反駁的対話ἔλεγχος
反駁的対話とは、プラトンの対話篇に登場するソクラテスが用いた対話の方法である。その流れは以下の通りである。①まず、探究する事柄についての相手の主張や一般的な定義をひとまず承認する。②次に、相手との対話を通して、その主張や定義からいくつかの帰結を推論し、それらの帰結どうしや、それらの帰結ともとの主張や定義とが、矛盾することを確認する。③そうすることで、相手は、知っていると思っていたが何も知らなかったのだと自覚する。
参考文献
・岩崎武雄『西洋哲学史(再訂版)』有斐閣、1975年、p. 38
・クラウス・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社、2000年、p. 69)
捕捉
・反駁的対話は消極的側面にすぎず、積極的側面は、産婆術、すなわち個々の事例から帰納的に普遍的な概念・定義を見出すことである。
(シュヴェーグラー『西洋哲学史 上巻』岩波書店、第2版、1958年、pp. 103-104)
・エレンコスは、ソフィストたちが用いた単なる論争術(エリスティケー)とは異なる対話法(ディアクレティケー)である。
(熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』岩波書店、2006年、p. 71)
ソクラテスのイロニーειρωνεια
ソクラテスのイロニーとは、プラトンの対話篇に登場するソクラテスが用いた対話の方法における皮肉である。ソクラテスが用いた対話の方法では、自身が知らないと思っていることについて、ソクラテスが対話相手に教えを乞うところから始まる。対話を続けることで、対話相手が知っていると思っていたことは、実は誤りだということが判明する。そして、知らないと思っているソクラテスの方が、その対話相手よりも知恵ある者であるという結果がもたらされる。
参考文献
・岩崎武雄『西洋哲学史(再訂版)』有斐閣、1975年、p. 38
・シュヴェーグラー『西洋哲学史 上巻』岩波書店、第2版、1958年、p. 103
魂の世話(魂の配慮)、善く生きるευ ζην
魂の世話とは、魂を善くしようと配慮することである。プラトンの対話篇に登場するソクラテスは、魂の善さは、徳によって得られると考えた。
徳とは、多数の事例から抽象された善の本質を表現した概念・定義のことであるといえる。
ところで、彼は、正しい行為は正しい知識から生じると考えた。よって、徳という知は徳をもった行為と不可分である。
したがって、魂の世話とは、魂を善くしようと、徳を認識しようとすることであるといえる。徳という知は徳をもった行為と不可分であるから、魂の世話は、善く生きることにも関わる。善く生きることによって得られる魂の幸福に比べれば、富や権力、名声などといった外的な善は、ないに等しい。
参考文献
・岩崎武雄『西洋哲学史(再訂版)』有斐閣、1975年、p. 35-36
・シュヴェーグラー『西洋哲学史 上巻』岩波書店、第2版、1958年、pp. 106-107
・クラウス・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社、2000年、pp. 66-69
小ソクラテス学派
小ソクラテス学派とは、ソクラテスの弟子たちが、ソクラテスの思想の一側面をそれぞれに発展させた学派である。①キュニコス学派と②キュレネ学派と③メガラ学派とがある。(これらの学派は、ヘレニズム時代の諸学派に影響を与えた。つまり、①キュニコス学派はストア学派に、②キュレネ学派はエピクロス学派に、③メガラ学派は懐疑派に、それぞれ影響を与えた。)
①キュニコス学派κυνισμόςは、ソクラテスの思想の実践的な側面を重視した。アンティステネスἈντισθένηςは、徳は幸福であるとし、徳の自足を強調した。ここでの徳の目的は悪を避けることであり、徳とは無欲にほかならない。したがって、自足と無欲を妨げる快楽は悪であり、自足と無欲を促進する不快は善であり、その他のことはどうでもよいものadiaphoraである。このような徳の理想から、シノペのディオゲネスΔιογένηςは、法律や芸術などの人為的なものを放棄し、自然に従う生活をした。
②キュレネ学派は、ソクラテスの思想の実践的な側面を重視した。アリスティッポスἈρίστιπποςは、徳は幸福であるというソクラテスの命題を継承したが、快楽が最高善だとした。ここでの快楽とは、瞬間的・感覚的な快楽であるが、アリスティッポスは真の快楽を判定するには精神的な教養が必要であるとした。(以後、この学派は、求めるべき快楽が瞬間的か永続的か、感覚的か精神的かという問題をめぐって発展する。)
③メガラ学派は、ソクラテスの思想の知識的な側面を重視した。メガラのエウクレイデスΕυκλείδης ο Μέγαραは、エレア派が説いたような有るもの、不変なもの、自己同一なものだけが善であり、善のみがあるとした。よって、変化するもの、多様なもの、分割されたものは、見かけ上存在するにすぎないとした。したがって、この善は、感覚的なものではなく、概念的なものである。また、この学派は、いわゆる「嘘つきのパラドクス」などの詭弁を説いた。
参考文献
・岩崎武雄『西洋哲学史(再訂版)』有斐閣、1975年、pp. 39-42
・シュヴェーグラー『西洋哲学史 上巻』岩波書店、第2版、1958年、pp. 109-116
さいごに
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。この調子で、プラトン、アリストテレス、エピクロス学派・ストア派・古代懐疑主義、新プラトン学派、アウグスティヌス、トマス・アクィナス、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、ロック、バークリー、ヒューム、カントと続きます。好評であれば、続きを公開しようと思います。
なお、誤字や脱字、致命的な誤り等ありましたら、お手数ですがご指摘いただけると幸いです。
参考文献
用語の説明の際にも随時載せましたが、参考にした文献は以下の通りです。
・岩崎武雄『西洋哲学史(再訂版)』有斐閣、1975年
・熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』岩波書店、2006年
・熊野純彦『西洋哲学史 近代から現代へ』岩波書店、2006年
・シュヴェーグラー(著)、谷川徹三・松村一人(訳)『西洋哲学史 上巻』岩波書店、第2版、1958年
・シュヴェーグラー(著)、谷川徹三・松村一人(訳)『西洋哲学史 下巻』岩波書店、第2版、1958年
・クラウス・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社、2000年