「自分が自分のまま生きてていい世界」に行きたい

楽になりたい。苦痛から解放されたい。
全ての生き方に失敗や間違いなどがなく、皆が心のまま、ありのままに生きていい世界があるのなら、わたしはそこに行きたい。しかし、そんな都合のいい世界は存在しない。あるとしたら命の全てを終わらせる他ないのだろうと思う。とても苦しい。

前職を辞めて一年近く無職をやっていたが、心機一転(アルバイトだが)働き始めた。
これは当たり前だが、働いているとミスが出る。自分のやり方が上司の期待していたものと違った、わたしがやっているのは接客業なので、客の要望にそぐわないものやサービスを提供してしまった、など。
ミスをすると決まって死にたくなる。わたしの頭の中のわたしは、絶対にミスなどしない。全てを平穏に、かつ高水準で的確にこなし、他者からの信頼も厚く、波風を立てずにありふれた日々を過ごすことが当たり前で、仮にミスなどしようものなら世界が終わる。

無職の時には全てが停滞していた。金も稼げない、社会的信用も培えない。その代わり、精神的な安寧があった。終わりも始まりも無い世界で、一時的な平和に安堵していた。精神的な安寧とは、「他者から試練を与えられない」「一定の規格に沿うようなことをしなければならない」という要求からの解放であり、世間的にはそれが逃げでもあるのかもしれないが、わたしにとってはある種の避難地帯としての機能を成していたように思う。わたしの行き過ぎた完璧主義は、新卒で大手企業に就職してから始まった。そこで叩き込まれたのは「金銭を貰っているんだから一切の気を抜かず真面目に働き、全力で社会貢献をしなければならない」という強い圧力である。アルバイトの経験がなかった当時のわたしにとって、その言葉は脳に鮮烈に焼き付いた。そこからわたしの生活に安息の文字はなくなり、日々の仕事を過度な緊張状態でこなし、少しでも弛んでいれば「仕事なめてる?」と恫喝され、ミスをしては上司や顧客にどやされ、時にはお局からいじめに遭い、そんな生活を続けて気付けば鬱病になっていた。そしてわたしは仕事を辞めた。

人間は働かなければならない。働いて金銭を得なければ生活していけない。金銭を得る以上は真面目に仕事をしなければならない。決して失敗など許されない。失敗するということは、精神が弛んでいるということだから。このような考え方は、当たり前だが非常に苦しい。わたしが親になった時、子供に「どれだけ努力したところで、失敗したら全て意味がない」と教えるだろう。幼少期から、家庭や学校で結果至上主義の風潮があったからだ。それゆえわたしは子供を持たない。完璧主義の生きづらさを幼い子供に伝えるべきではない。頭では分かっていても、わたしは完璧主義をやめられないのだろう。自分に優しくすることと、自分に甘いことの違いすら分かっていないのだから。

いつか、近いうちにこの命を終わらせようと思う。ミスばかりの人生でした。




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