『ピアノの森』第6話|カイの決意の強さに母親論とかどーでもよくなった!
今期は『ピアノの森』と『キャプテン翼』が毎週楽しみで仕方のないアラフォーです。
『ピアノの森』、原作と比べるとかなり端折っていますが、まったく不自然さがなくて素晴らしいですね! 物語自体のパワーと、声優さんたちの演技の達者さ・細やかさでいつもぐいぐい引っ張られてしまいます。これは面白い!
そして第6話。
怜ちゃんがカイに焼けた森のピアノの側で、ピアノを習って森の端を出ていくように言い聞かせるのも、それに対してカイが「森の端からは出ていかない」「子供だと思ってるなら出て行けなんて言うな!」と真っ向から反論するのも、透明のピアノを弾いてやっぱり自分にはピアノしかないと再確認するところもよかった。
けど一番良かったのは、カイが阿字野にちゃんと自分の想いを語るシーン。
「俺が怜ちゃんを選んで生まれてきたんだ」
「(森の端の)環境は怜ちゃんについてきただけ」
「オレが怜ちゃんの側を離れないのは、いざというときに怜ちゃんを守れないからだ」
という台詞。
「子供はみんな親を選んで生まれてきたんだ」なんていうスピリチュアルなアレは私は大っ嫌いなんですが、なんかもうそんなことどうでもよくなった!
そんなもん、選んで生まれてきたわけがない。偶然、たまたま、確かに親は子供を選べないけど、子供は親を選べないうえに生まれる環境を選べない。それは間違いないことだけど、だから言っても仕方がないないことでもある。
でもそれを、「自分が選んできた」といえる人生を送ってきたことが本当に素敵だと思った。怜ちゃんは自分とカイを戦友だといったけれど、それはきっとカイには言ったことないんだろうけど、でもカイも同じ気持ちだったってことなんでしょうね。
そんなお互いを思いやって、唯一の相手だと思える関係を築いたのが本当に素晴らしい。
ついでに言うと、創作物に氾濫する“いわゆる”な母親キャラが私は嫌いです。いわゆる良妻賢母、いわゆる聖母、いわゆる悪妻、いわゆる毒親等々…。毒親はまだ認識されてから歴史が浅い分、作品に描く価値があるんだろうけど、いまさら“いわゆる”な母親キャラを描いて何の意味があるの?と思ってしまう。物語自体は面白いのに、そういう母親がいると少し残念な気持ちになったりする。
怜ちゃんもおそらく作者的には、“いわゆる”ひとつの聖母として描いているんだろうけど、でもそれ以上に怜ちゃんは、カイの母親であるひとりの魅力的な女性だ。そして主人公たるカイの生い立ちを語るのに決して外すことのできない存在。
第6話はそのこともよくわかるエピソードでした。怜ちゃんだからこそ、カイというあの魅力的な少年は生まれ、育ったのだということを実感させられた。それはもう間違いなく、運命ですよ。あの母と子が出会ったのは。
カイはその運命を、すべてその小さな体で受け止めた。背負って生きていくことを決めた。そしてそのことが、今まで止まったままだった阿字野の時間さえも動かした。
それもふくめて何もかも運命。しかしそれは、1人の少年が、その指先で紡ぎだした奇跡なのだ。
そんなスピリチュアルや聖母なら、とても素敵じゃないですか?