相手の自我を指摘したい
相手の自我を指摘したいという衝動がある。
相手の中に優越感だったり
傲慢な思い込みだったり、
ある種の獰猛さだったり、
卑しいように感じる心を知覚した時、
その相手の自我の思考や状態を
相手にわからせたい、
という衝動。
なんでだろう?何でわからせたいんだろう?
と見ると、
「自己嫌悪や恥、
罪悪感の痛みを感じで欲しい、
痛い思いをして、反省してほしい」
だった。
自分が相手の自我(と知覚されたイメージ)
に対して強い憎悪や嫌悪を感じて、
その感覚自体が苦痛だから、
その苦痛を相手にも感じさせたい、
与え返したい、みたいな。
復讐心に近い。
とにかく、相手に惨めに苦しんで欲しいと
欲している。
この力動が、ただ感じられた。
信念を入れ替えると、
「わたしはあの人に、
自己嫌悪とか恥の痛みを感じて欲しい」は、
「わたしはわたしに、
自己嫌悪とか恥の痛みを感じて欲しい」
なる。
自分を自分の中で、
卑しい醜い心、傲慢で獰猛な心だとみなして
同一化しているから、
相手にも同じように、
「あなたはこの醜い卑しい自我ですよ、
だから自己嫌悪と罪悪感、恥に苦しむべきだよ」
とやるのか。
こういう感じなのかな。
そして、相手の自我が、
解決しなくてはいけないリアルな問題になって、
「どうやって言おう?傷つけないように伝えるには?」と考えだす。
実際に話して伝えたくなるけど、
これは愛とか、またはガイダンスというよりは、
やはり、相手に痛い思いをさせたい、
負かしたいみたいな動機なのは感じる。
相手に獰猛な攻撃を加えたいという
強烈な憎悪と攻撃衝動がある。
世界で暴力事件が絶えないわけだ。
で、これはあくまで2020年くらいの、
勉強会に入る直前の
自分の体験なんだけど、
自分で自分を攻撃したいという
獰猛な攻撃衝動が強く出てくる時は、
自殺衝動、自傷衝動になる。
自分は傷つけられることができる肉体だ、
という信念もあるか。
人生で一番経験した中で、
圧倒的に一番怖かったのが、
この瞬間だった。
気を許したら、
獰猛な攻撃衝動に駆られて、
手が動いて何をするかわからない。
まるで、自分で自分を傷つけられるのが嬉しくて仕方がない、みたいな。
必死に祈るしかなかった。
自分に最も近い存在は自分だから、
自分が自分を攻撃しようとしている状況は
最も恐ろしい。
他人からは逃げられるし、
距離を置くこともできるけど、
自分は自分から逃げられないから。
だから、
「自分の外側に誰かがいて、
その誰かが醜い卑しい自我の心で、
そこに強烈な憎悪と獰猛な攻撃衝動を感じる」
という知覚を投影すれば、
強烈な自己憎悪・攻撃衝動を
外側に向けて、攻撃目標との距離を
あけて、
ひとまずマシな状態に、安心できるのか。
なるほど。
テキストに、デイヴィッドがよく言ってた
「この世界は憎しみから作られた」
ってあった。
「あなたは自己憎悪の全容を見ない限り、
それを手放そうとは思わないだろう」
ともあった。
神の子や純粋無垢なキリストを見せてくださいと祈ったら、
出てくるのがコレって、
頭ではわかってても何の詐欺だよって思うけど、
これでいいのか。