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「シキの門」弐


瑠璃壺の中の水晶

藤原威子

天眩めく
(あまくるめく)
彩めく
(あやめく)
大海昏めく
(あまくらめく)
弥勒世の
(みろくよの)
白玉は来れへ
(しらたまはこれへ)

帆は穂々原を滑べるように進んでゆく
二ツ峰の(二ツ身の)澄んだ霊(たま)欠けた月夜に探すのに
深いうな底に綿津見神(海の神)は積麻(臍の緒)の先を隠してしまわれた

かつてその穂々原を薙ぐように鎌駆けた白狐(しらきつね)
蒲掛けの柵の中に凪いだ頃
白雉の申し子鹿嶋の地に降ろされる

常陸国風土記編纂に携わったのは
常陸守藤原式家宇合と言われている
遣唐副使の際、馬飼→宇合に変更している
なぜ常陸守になったのか
宇合の祖・藤原鎌足は中臣鎌足だが、もともと鹿嶋神宮の神職を司る家系
卜部氏から成る
皇極天皇の命を辞して神官の道を違える
鎌足は鎌子時代、皇極天皇の同母弟軽皇子(後の孝徳天皇)に近付く
そして中大兄皇子に付き大化の改新(現在は乙巳の変)を成し遂げる
中大兄皇子は周囲の反発を押さえる為すぐに皇位には就かず
叔父軽皇子を孝徳天皇に据える
同母妹間人皇女がその皇后にされ
難波宮で数多の政治改革を行ったとされるが
中大兄皇子の倭宮に返還する意見を蹴ったため
見限られた天皇は皇后を中大兄皇子に連れ去られ
失意のまま亡くなる話は有名である
有馬温泉行楽にちなんだのか唯一の皇子
有馬皇子も中大兄皇子によって闇に葬られている
孝徳天皇亡き後中継ぎの王として
間人皇后が即位した
この間鎌足はずっと内大臣に就いていた
そして中大兄皇子はついに即位し天智天皇となる
鎌足は天智により藤原の姓を賜って間もなくその生を終える
産まれた時ー
鎌を咥えた白狐が現れ
産着の上にその鎌を置いたことから幼名「鎌」となったと言う
父・中臣御食子(みけこ)は鹿嶋神宮の神官だったので
祭神の武甕槌神(たけみかづちのかみ)は武神であり
雷と深い関係がある
狐にしても後年農業神として雷と深く結びつき
豊作豊穣の神として稲荷大明神の眷属白狐の加護を受けた子となる
鎌はやがて軍事としての式術に長けた男となってゆく

時代は越え
鎌足亡き後は不比等の栄える時代となる
藤原道長は北家の流れ
威子は後一条天皇の后となるが男児に恵まれぬまま
天皇と死に別れ三八歳で出家する
男皇子を望む祈願のため、鹿嶋神宮にニ四顆の水晶玉を奉納しているが、その白玉は二粒ほど見当たらない
武甕槌神は国譲りの交渉役として出雲に派遣されているが、その出自は伊邪那岐命(イザナギノミコト)が迦具土神(カグツチノカミ)を斬った天之尾羽張の剣(アメノオハハリノツルギ)から生まれた
武甕槌神は大国主大神とその子建御名方神(タケミナカタノカミ)を討ち、天孫を迎えに猿田彦大神が高千穂峰へと向かう下りになる
そして高千穂の宮で瀕死の神武天皇を救うべく、再度武甕槌神は分身布都御魂剣(フツノミタマノツルギ)を天皇に授ける
神武天皇は熊野の荒ぶる神を言向け柔し(ことむけやわし)つまり服従させ
八咫の烏と共に日の国を興すために進むのである
武甕槌神を祀る鹿嶋神宮には仲哀天皇妃、神功皇后の娘とされる普雷女(あまくるひめ)が、物忌と言われる職業巫女たちが、明治四年六月一八日に二八代目が解任されるまで男子の眼に触れる事なく、一生を終えたとされている
初代普雷女が一人で百七十二年在職しているのはムリがあるので、その数はもっと伸びるであろう
神秘性を強調するためか、当て字この上ない普雷女は神功皇后の子ではなく仮の姿であると思われる
この斎の巫女は神野の南の宮におり、そこは物忌の館と呼ばれていた
十人殿原と呼ばれる神官の家から亀卜で選出される
十人殿原とは「当麻」「行事」「隼人」「主水」「佐京」「家司」「殿母」「内記」「玄蕃」「内匠」の屋号を持つ十軒のことである
二人選ばれ潔斎の末に一人が物忌の巫女になる
神前まで輿で男子から隠して移動し、父母の死にさえも立ち会うことは許されなかった
これは飛鳥・平安・現代の皇室縁の姫御子が斎宮をつとめること
草薙の剣の荒御魂・出雲建雄神(イズモタケオノカミ)を祀る石上神宮の斎宮も幼女から親子の縁を断つことにも通じていよう
この十人殿原の神官たちは農業の傍ら、娘であったりする物忌や禰宜に仕え、神託が降りれば組を編成し、全国へと鹿嶋様の御言葉を踊りながら伝播するのだった
そして全国に鹿嶋信仰・地震除けの鯰絵やら疱瘡除けの赤絵が流行る所以となる

さて語り尽くしたい夜ではあるが
この式ヱ門
丑三つ刻に少々身震いし
月は早
見えぬ曇り空にて御免



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