「週末のアリス新聞」
そこはね
ピンク色の壁の縦長のビル
近づいて見てもちょっと恥ずかしくなるピンク色
今は雨で黒いシミを流したような年月の跡
淡々と自分たちを生きて来た風情
そうだね
4、5階はあるだろうね
2つの表札
入り口のドアを開けると
すぐ左手に倉庫のような薄暗い部屋
普段、電気のスゥイッチは入らないような
隠れたスペースに、大型のカンヴァスが何重も立て掛けられている
右手のカウンターには店主が立ち
会計などする場所
天井すれすれの棚に隙間なく置かれている
手のひらサイズのから人の背丈まで
様々なカンヴァス
ところ狭しのそれらのずれも、埃さえも、趣きさえ感じる
薄明かりの差し込む白壁に舞う埃の渦が煌りとしている
似ている…
ああ、スノードームの中のアレに似ているんだ
可愛いと思った絵があった
手のひらサイズのミニカンヴァス
猫の絵が描いてある
こんなに小さなカンヴァスにしっかりと油絵の具で…
店主であろうカウンターに立つ男性、人が入って来たので
まあ、接客でも…と言った顔でそこに立っている
手を下ろして立っているのがひどく似合わない
接客は慣れていないというより、「買い物」に来る人間が不思議なようであった
ここは画材店だと思うのだが…
「この猫の油絵、可愛いですね」
「売り物じゃないんですよ」
一瞬、怪訝な顔をしたのだろう
「絵画教室の卒業生の作品で」
「へぇ、そうなんですね」
向日葵と土の匂いと
煉瓦とマントルピースと珪藻土
古い夏の、重い硝子の向こう側の匂いを嗅いだような気がした
わざとらしく見えただろうか
天井の隅から反対側の隅
狭い店内を行ったり来たり
うなじを攣りながら、時間を置き去りにした棚の絵を見る
しかし必ずと言って、カウンター手前に置かれた猫のカンヴァスを見てしまうのだ
今でも覚えているのはその猫の油絵だけ
「あの…このポストカードサイズのキャンバスが欲しいんですが…」
2枚のカードを恥ずかし気に、差し出す
「このイラスト下絵に…練習で描いて…いつかしっかりとした油絵描きたいんですけど。色がわからなくて。下描きの鉛筆のままで…絵画教室やってるって聞いて、それで…」
店主は黙ってポストカードに描いた絵を見ていた
マントを着た梟のような仮面をつけた骸骨と目の縁にだけ仮面をつけた婦人
内斜視のように見える婦人の視線の先と
死の婚礼を思わせるパーティへ連れ立つ心は読めない
ただ婦人の目の光は意識ある人のものだった
その上を舞う幼いエロスの羽と尻
妖精の少女…
恥ずかしかったが、差し出した手はしっかりとポストカードを握り、緻密な線の重ね方には変に自信を持っていた
油絵をやりたいと口にするわりには、どんなジャンルに分類されるのか思いつかない、少女チックの妄執なイラストだった
「教室の開催は週2で、火曜と金曜。まあ、みんな午後3時くらいには集まってるんだけど…4時から5時で7時から8時くらいまで。週2出ない人もいるから月謝は…このプリントにあらかた書いてますよ」
店主は不思議の国のアリスを思わせる字体で
書かれた、絵画教室のお知らせをくれた
棚の下を今の瞬間、子豚か子兎が走り抜けて行っても驚かない、懐かしさが体を貫いた
絵画教室入門は、たぶんあのイラストで合格した
これは自分の中にある、謙遜しながらも
自分は上手く描けるやつなのだと澄ましているイヤな奴が放つ不愉快なものだ
人は話した瞬間にそれを察知出来る能がある
蛇口のいっぱい並んだ水洗い場で、シャカシャカ数回かき回しただけで、永遠に乾かさないまま夏の終わりに開いて吐きそうになった
黴びた絵の具の臭いだ
人間性が現れる
それからも人は見た瞬間に器の中を見抜く能がある
土曜日の午後の3時を過ぎていた
街まで出て来たが、地元の駅からは徒歩で帰るようだろう
土曜日のダイヤ表はバスの本数が3本
最終はあと10分ほどで出る
2階が絵画教室の部屋
来週の火曜日に教室に来ることを告げた
約束とはいえ、本気で通って来るとは思われていない気がした
イラストは見ていたが、こちらの顔は最後まで目を合わせようとしなかった
冷やかし、気まぐれ…すぐ冷める思いつきかと…
外に出る
ブーツの踵に小さな羽がついたように
飛び出したいのに、帰りたくない気分が募ってくる
水を吸った真綿を噛んでいるような
気持ちの悪さを思い出して、景色が遠のいて行く
聞こえない足音が追いかけて来る
はらりはら
はっとして上を見る
小さな尾のついた雪の玉…
見ていると落ちて来るうちに、スッと消えた
画廊のすぐ前からバスを待ち、シャチの飛んで行くような車の波に紛れればいいのに
鯨のバスの最後尾、ゆらゆら
ぐらぐら胸の中が回るけれど、ビルや建物に見えなくなる空の裾を追いかけながら遠回りをして、龍やムカデの電車の中で洗濯機の中の回らない揉みくちゃなシャツみたいになるよりは、100倍良かったんじゃないか
早くも後悔と期待の針が足先を狂わせている
そもそも軸自体が脆弱な羅針盤だ
火曜日の午後のお茶会はお披露目会
ちょっとコワイなあ…
続く