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差異のない物語と虚構の力
毎日少しずつ『すべて名もなき未来』(樋口恭介)を読み進めている。
今日はA2「ディストピア/ポストアポカリプスの想像力」を読んだ。普段はTwitterに感想を放流していのだが、少し堅い語りになりそうなので、読んだ感想(と呼べるのかはわからないが)をnoteにしたためておく。
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「ディストピア/ポストアポカリプスの想像力」で著者は、二つの作品の差異と共通点を確認し、社会(に生きる人々)がそういった作品を求める背景と重ねる。面白い提案は、SFのSをScienceとSpeculativeだけでなく、Socialも加えてみてはどうか、という点だ。
たしかにSF小説は、単に技術的な特異性を示すだけでなく、そこから生じる社会の変質にもまなざしを向ける。アニメ作品で言えば『PSYCHO-PASS』シリーズなどは、まさに技術と社会(とそこに生きる人々)の有り様に鋭いトゲを刺す。
*ちなみに、『PSYCHO-PASS』シリーズはディストピア作品(裏返ったユートピア)である。
私たちはSF作品を読むとき、技術に触れ、人(あるいは人とは何かという問い)に触れ、そして社会に触れる。人の集団が社会を形成し、社会は技術を育みそれを伝承する(あるいは抹消する)。むろん、技術は人を助ける、あるいは導く役割を持つ。
著者が指摘するように、この三つは絡まり合っている。だからこそ、SF作品がこのどれか、つまり技術・思弁・社会にまなざしを向けるとき、必然的に他の要素も巻き込まれることになる。
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一方で、技術でも思弁でも社会でもないものがある。物語だ。それは人が生きる基礎を支えるものであり、脳の記憶保存(あるいは想起)フォーマットの一形態でもある。私の人生は、「私の人生」という物語で認識される。そして、言うまでもなくSF作品もまた(よほど前衛的なものでない限りは)物語である。物語と物語の呼応。
著者は以下のように述べる。
歴史が反復するのと同様に、想像力もまた反復する。
たしかにその通りだ。歴史が反復するのと同様に、想像力もまた反復する。だとしたら、私たちはその反復に潜む差異に耳を傾ける必要があるだろう。繰り返されるものは、寸分の狂いもなく繰り返されるわけではない。DNAのコピーのようにそこには失敗の(あるいは誤配の)可能性が常に入り込む。想像力が、つまりは物語が反復されるとき、そこにある差異こそが決定的なものになるかもしれない。
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最後に著者はディストピア/ポストアポカリプス化された社会における物語の無効化を説く。
人類文明が続く限り、物語は続いてゆく。物語が終わるとき、それは人類文明が終わるときだろう。
はたしてそうだろうか。人類文明の終わりと物語の終わりは同調しているのだろうか。
たしかにビッグブラザーは、人々に物語を提供していない。きっとさまざまな紙の本は燃やされたことだろう。「マッドマックス」の世界でも、娯楽としての物語に資源を投じる人はいないように思う。
しかし、社会の中で人々はビッグブラザーを、あるいはカルトな宗教を支持している。言うまでもなく、それは一つの大きな物語である。むしろそれは、人々をその状態にとどめておくために効率的に使われている。物語はそこにあるのだ。ビッグブラザーは間違いなく、人々の想像力によって支えられている。祭られる神も同様だ。
だとしたら何が起きているのだろうか。
そこではまったく同じ物語が、寸分の狂いもなく反復している。差異は生まれず、永遠に同じコピーが量産され続ける。複製技術による完璧な物語。
物語がなくなったわけではない。むしろ物語はそこら中に充満している。ただ一つの物語が。
私たちが警戒すべきはそのような状況だろう。差異を認めず、多様な物語を駆逐していく価値観。社会がディストピア/ポストアポカリプス化されなくても、そのような価値観が台頭するならば、状況は相似的なものになる。
今ここにある現実とは異なる物語を求める力。そして、それを語る力。現実からのズレによって、現実に新しい光を与えるもの。すなわち、それこそが虚構である。