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Weekly R-style Magazine 「読む・書く・考えるの探求」 2018/12/10 第426号

はじめに

はじめましての方、はじめまして。毎度おなじみの方、ありがとうございます。

来年の1月になりますが、名古屋でセミナーを行います。

◇Scrapbox情報整理術 活用セミナー 2019年1月12日(愛知県) - こくちーずプロ(告知'sプロ)
https://www.kokuchpro.com/event/fc278bc728489973e2921f06364dc475/

ごりゅご.com( http://goryugo.com/ )の@goryugoさんに、「名古屋でScrapboxについて話していただけませんか?」とお誘いいただけたので、がっつりScrapboxについて講演します。

全部で40分×2回くらいの講演時間がありますが、そのすべてを私が担当する予定なので、盛り込めるだけ盛り込めます。

以前の東京イベントで話した「Scrapbox知的生産術」を含めて、さらに情報整理やカスタマイズについてもお話する予定です。

もし名古屋付近にお住まいなら、ぜひチェックしてみてください。

〜〜〜新しい引き出し〜〜〜

いま新しい本を書いていて、その執筆が佳境に入っているのですが、右往左往しています。

当初は全五章の章立てだったのですが、それが全九章に変身しました。もちろん、ボリュームが倍になったわけではなく、一つひとつの章が細かくなっただけです。

たったそれだけのことですが、文章の書き方は大きく変わります。端的にまとめて、話を流していくために、いつもの文体は使えません。新しい文章の書き方が必要です。

その模索というか、試行錯誤に時間がかかっているところです。

しかし、その試行錯誤こそが、自分の引き出しを増やすのだとも感じます。

とりあえず、あともう少しです。

〜〜〜何らかの差〜〜〜

私は結構Youtubeのゲーム実況動画を見ています。たいていはパズドラかシャドウバースの動画です。

で、それらは人気のゲームなので、実況動画を上げている人もかなりいます。いちいち検索したりはしませんが、YouTubeのトップ画面には、いつでも見知らぬ人の動画が上がっています。

普段はそうした動画には見向きもせず、馴染みの人ばかりを見ているのですが、あるとき、目についたものを一通りチェックしてみる実験を行いました。

実況者の中には、平均で数万ビューを超える閲覧数を獲得する人もいれば、数百や数千以上はあまり伸びていない人もいます。はたして、そこに明瞭な差はあるのだろうか、ということが気になったのです。

で、なんとも言い難いのですが、その差は確かにありました。感覚で言えば、「この人の動画をまた見たい」と思えるかどうかについての差があったのです。

その差が何によって醸し出されているのかは言語化できません。きっと、いろいろな要員で形成されているのでしょう。で、その要員は間違いなく、投稿者の動画の作り方によって生じているはずです。

おそらくですが、あまり伸びない人の実況動画は、「自分だけが楽しんでいる」感じで、もう一度見たい人の動画は、「一緒に楽しんでいる」感じがするのです。もちろん、声の高低や脚本、話し方の速度なども関係はしているのでしょう。でも、根底にあるのは「楽しさの発表」と「楽しさの共有」の差だと感じました。

ちなみに、実況動画に関しては誰のものを見ていてもそれなりに面白いのですが、解説動画に関しては、途中で切りたくなるものが結構あります。何かを面白く説明するのは、やはり難しいのだなと実感しました。

〜〜〜紙の本と電子書籍〜〜〜

仮に、あくまで仮にですが、「紙の本を読む」という体験を10とするなら、電子書籍のそれは8くらいな気がします。

別段その2はあってもなくても、情報の摂取に支障はありません。意味は汲みとれ、物語には入り込めます。でも、どこかしら物足りなさが出てくる、という意味の2です。

人によってはこの割合が大きい人もいるでしょうし、小さい人もいるでしょう。でも、完全にイコールにはならないと思います。

紙の本の場合は、「一冊一冊を読んでいる」という感覚になるのですが(それぞれの本がアイデンティティーを持っているように感じられる、という言い方もできます)、電子書籍、特にKindleやBookWalkerで読んでいると、その感じが極めて薄れてきます。「一個一個を読んでいる」という感覚はあっても、「一冊一冊」という感じがなくなるのです。で、その感覚のロストは、先ほどの2の欠損と関わっていると感じます。

さらに言えば、電子書籍読み放題サービスで読むと、「一個一個」という感覚すらも薄れていくかもしれません(あまり使っていないので推測にすぎませんが)。

その感覚のロストが、感傷以上のものでないならば、別にそれはそれで良いと言えそうですが、個人的にはそうではない予感があります。

しかし、そうはいっても物理的に本棚に置ける本の数には上限があり、経済的な投資をしないと、その上限はなかなか拡大できない、という問題はいつでも付きまとうので、結局はどこかのタイミングで電子書籍とうまく付き合っていく必要があるのでしょう。

〜〜〜穴にはまらずに〜〜〜

一応、自分のことはリベラル寄り(もっと言えばリバタリアン寄り)な思想を持つ人間だと思っていますが、インテリにはなりたくない、という思いもあります。

そこで私が嫌悪しているインテリというのは、知識と権威を剣と盾にして他人に殴りかかってくる人なのですが、当の本人はむしろ善行を為していると感じている人でもあります。

そういう人、やっかいですよね。

でも、そこに至る落とし穴はそこら中に空いていると思うので、注意して進みたいとは思います。もう落ちていないことを願いながら。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のウォーミングアップ代わりにでも考えてみてください。

Q. 普段音楽はどの媒体で購入され、どの端末で視聴されていますか。

では、メルマガ本編をスタートしましょう。

今週は『知的生活の設計』発売記念ということで、「知的生活」特集号をお送りしたいと思います。

目次は以下の通り。

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2018/12/10 第426号の目次
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○「知的生活という言葉」
 知的生活という言葉について考えます。前半。

○「知的生活に必要なもの」
 知的生活を送る上で欠かせない書斎について。

○「知的で生活でないもの」
 引き続き知的生活という言葉について考えます。後半。

○「発見と研究の日々」
 現代における知的生活の意義を考えます。

※質問、ツッコミ、要望、etc.お待ちしております。

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○「知的生活という言葉」

知的生活とは何でしょうか。まずは、言葉からアプローチしてみましょう。

ヒントにするのは、梅棹忠夫さんの「知的生産」です。彼は、この言葉を二つの意味が重なる地点に設定しました。

・物的ではない生産
・消費ではない知的作用

知的生産は、「物的生産」と対置され、また「知的消費」とも対置されます。マトリックスを描けば以下のようになるでしょう。

知的生産 物的生産
知的消費 物的消費

これと同じアプローチで、「知的生活」について考えればどうなるでしょうか。

最初の一歩として、「知的」と「生活」と対になる言葉をそれぞれ見つける必要があります。つまり目標地点は、

「知的〜〜」
「○○生活」

という言葉を設え、それによって「知的生活」の意味がくっきり浮かび上がるようにすることです。

手始めとして、知的生産と同じ手つきからスタートしてみましょう。

「知的生活」「物的生活」

さて、物的生活ってなんでしょうか。物に固執した生活? 

そもそも物なしで生活することは不可能なので、この言葉についてはもう少し考える必要がありそうです。

知的生産における「知的」とは、情報を扱うこと・頭を働かせることの二つの意味が込められています。なので、多少の差異を飲み込むなら、知的生産は情報生産に置き換えられます。

では、知的生活は情報生活に置き換えられるでしょうか。

情報にただ触れているだけの生活は、高い確率で知的消費であり、それを知的生活に含めてよいかどうかが、分かれ道になりそうです。

『知的生活の方法』では、能動的知的生活と受動的知的生活の二種類を分け、後者を積極的な発信はせず、ただ本を読むだけの生活だとしているので、知的消費だけの生活であっても、それを知的生活に含める想定はありそうです。

『知的生活の設計』では、消費で終わらないような生活がイメージされている印象を受けますが、「知的消費だけをしている生活は、知的生活ではない」のような文言は見受けられませんので、これもまた知的生活に織り込まれていると考えられそうです。

むしろ、『知的生活の設計』では、消費(摂取)→生産(発信)→消費→生産→…というサイクルの想定がうかがえるので、その意味で知的消費は、生産のための準備段階として捉えられるのかもしれません。

であるならば、知的生活は、──これまた多少の差異を飲み込むなら──情報生活に置き換えられそうです。

となれば、知的生活は物的生活と対置できるのでしょうか。

しかし、物がない生活が考えられないのと同じように、情報がない生活というのも考えられません。生活の中には、「精神と物質」は共に浸透しています。

たとえば、すごく車が好きな人がいたとします。車というのは「物作り」の最高傑作の一つのようなもので、実にさまざまな技術が詰め込まれています。非常に「物的」です。しかし、その人が車の蘊蓄について語り出したら、それはもう「知的」になるでしょう。

これでは「物的生活」は明らかにならず、同時に「知的生活」の姿も浮かび上がってきません。

少なくとも、物の在不在で線引きすれば済む話ではなさそうです。

別の視点から考えます。

本を読む生活は、知的生活と言って良いでしょう。

では、燃えるゴミを出す生活は、どうでしょうか。会社で書類にハンコを押しまくる生活は、どうでしょう。あまり知的生活という感触はありません。

では、深夜アニメを楽しむ生活は、どうでしょうか。

『知的生活の設計』では、そうした生活もまた、知的生活に含まれるのだ(あるいはその萌芽を持つのだ)という点で位置づけたのが白眉でした。いわば、学術的・教養的なものに触れる生活だけが知的生活ではないと、高らかに宣言したわけです(これはレジスタンスですらあるでしょう)。

しかし、ゴミを出すためにはカレンダーという情報と接するわけですし、書類にハンコを押す前にもその書類に書かれている情報と触れるわけです(そうであることを願うばかりです)。

情報と触れないような生活は、かなり想像しにくいものです。だとすれば、知的生活/物的生活という切り口では、その姿は明らかになりません。情報が深く関わっていることは間違いありませんが、それだけでは十分ではなさそうです。

もう一度考えてみましょう。

A 本を読む生活・アニメを観る生活
B ゴミを出す生活・ハンコを押す生活

この違いはなんでしょうか。三つ、考点を立ち上げてみます。

1. 「頭を働かせて」の在不在
2. 情報そのものの目的性
3. 生活性の有無

知的生産の定義には、「頭を働かせて」というフレーズが出てきます。Aの生活には「頭を働かせて」の要素が多分にありそうですが、Bの生活にはそれは少なそうです。

また、Aの生活は情報そのものを目的とした摂取が行われていますが、Bの生活は情報を利用するものの、それは別の目的を達成するための補助的な手段でしかありません。

さらに、Bの生活は、生活を維持するために必要な活動ですが(≒生活性がありますが)、Aの生活は、ぶっちゃけていえばそれがなくても生活は成立します。

もちろん、活字中毒の人は、本が読めなくなると死んでしまうような気がするものですが、実際本を読まなくても生命活動が停止することはありません。「日常」というサイクルが止まることすらないでしょう。

あえて強調して言えば、ゴミを出したり仕事をこなしたりすることは、「実生活」となり、本を読んだりアニメを観たりする生活は「虚生活」と言えます。

もちろんこの「虚」に否定的な意味はありません。単に、実際的な効用が即座に引き出せるのかそうでないのかの違いに注目しているだけです。

その視点で言えば、「実生活」と「虚生活」は、「機械的技術」と「自由の諸技術」(いわゆるリベラル・アーツ)に対応するのかもしれません。生活の糧をえるために必要な技術(artes mechanicae)と、自由市民としての活動を担保する技術(artes liberales)の違いです。

そして、そう考えれば、「知的生活」に対置されるのは、実は「日常的生活」だということに気がつきます。

生命活動に必要な糧を生みだし、生活そのものを維持するための活動。それが日常的生活を構成します。そして、その活動は、必然的にリピート性を帯び、結果「頭を働かせる」ことは少なくなります。

ゴミ出しを一ヶ月も続ければ、難しいことを考える必要はなくなるでしょう。「習慣的」にそれが行えるようになるはずですし、それができなければそもそも日常は成立しません(一歩歩くたびに指差し確認しなければ歩けない状況を想像してみてください)。

「知的生活」とは、そのような実生活的、日常的でない生活です。「習慣的」でなく、「頭を働かせる」生活です。さらに言えば、そのようなものを貪欲に求める生活です。

この話がややこしくなるのは、知的生活に入れ込むと、比重が逆転してそれが「日常的」になってしまうことです。言い換えれば、それが「日常」に浸食してしまうことです。

文章執筆に夢中になりすぎてご飯を食べるのを忘れたりだとか、本を買うためにお昼ご飯を抜いたりするだとか、そういった話はあちらこちらで耳にします。たいへん共感できる話ではありますが、生物的に見ればかなり異常な行動でしょう。

また、知的生活に入れ込むあまり、それが職業になってしまうという現象もあります。これは、もともと虚生活であったものが、実生活に変化したということで、ある種の相転移が生じていると見てよいでしょう。全体から見れば、特殊な一例の話に過ぎません。

しかし、一般的に話題に上がるのは、この相転移を済ませた人たちです。だから、知的生活の非日常性はあまり伝わらないかもしれません。

とは言え、それはやはり「虚」なのです。基本は「虚」。「日常」とは切り離された領域へのアクセス。そういうものなのだと思います。

だから、「本をたくさん読んでいます」というのは、あまり胸を張って誇れるようなものではないのかもしれません。少なくとも虚実のバランスが崩れていることは間違いないでしょう。むしろ、「毎日家族のご飯を作っています」という方がはるかに胸を張れる気がします。

その辺を考えると、少し後ろめたい感じで、「実は本をたくさん読んでしまっているんです……」くらいの控えめ感がちょうどよいでしょう。偉そうに威張ったり、冊数を競ったりするのは、本当にちょっとどうかと思います。

知識人が読書の大切さを説くのも、実はその後ろめたさを払拭したいからなのかもしれません。

というわけで、まず「知的生活」と「日常的生活」を対峙させることで、知的生活を軽くあぶり出してみました。

基本的には情報を求め、頭を働かせる生活ではありますが、それ自身に生活性がないというのも特徴だと思います。

そして、『知的生活の設計』は、いかに知的生活の積み重ねで、日常的生活への相転移を発生させるのか、ということを説いた本でもあります。これは大切な視点でしょう。

これで「○○生活」の方は片付いたのですが、問題は「知的〜〜」の方です。これについては、後の回で改めて考えてみます。

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