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私のためのハート型クッキー

寒いと食欲のコントロールが効かなくなる、のだが、どうやら私はその「寒さ」を感じにくい体質のようだ。
冬になると、家族や周囲の人は皆こぞって手をこすり合わせる。カイロを貼ったり、持ったりしながら「さむい、さむい」と言う。私にはその感覚があまりない。小学生の時、真冬にもかかわらず半袖半ズボンで登校していた友達がクラスに1人、2人いませんでした? あれ、私のことです。
皆が冷える手足の先が私はまったく冷えず、それどころかしばらく歩いたり暖房の効いた部屋にいたりすると汗が噴き出す。その代わりおしりや太ももがトイレの便座より冷えているが、手足の先に比べると特に支障がないので対策をするにまで至らない。

そうするとどうなるのか。自分で寒さを感じにくく、感じたとしても全然我慢できてしまい、私の場合は何かと「食欲」に落ち着いてしまう。ここで言う「食欲」は「空腹」ではなく「過食欲」である。寒さもストレスの一種ではあるし、生存本能として過食してしまうのかもしれない。

大学の最初の2年間、ひとり暮らしの部屋にはエアコンがついていたが一度も使わなかった(友人を招いた時は除く)。「自分ひとりのために電気代を使うのがもったいない」という思いもなかったわけではないが、「夏は暑いし冬は寒いが、地元に比べたら全然大したことないし、生活できるしいいや」みたいな感じだった。
結果として、電気代は一年を通して安かったが、過食が留まるところを知らず、食費がべらぼうに高くなった。

普段食べる食品のあらゆるものに過食の経験・思い出がある。
「たまご」=一週間分の買い出しと思って購入した10個入りをその日のうちにゆで卵にして食べたこと、「肉」=作り置きした肉料理5食分を冷蔵庫の前に座って食べたこと、「お酒」=缶チューハイ飲んだら甘いし過食欲落ち着くから毎晩飲酒していたこと、「調味料全般」=食べるものが何もない時にジャム砂糖はちみつ醤油バターあたりをスプーンで食べたこと。
コンビニに行くと、よく過食材として買っていたものがあちこちにあり、スーパーに行けば約800kcal・398円・週5で買っていた惣菜が目に入る。食べることなしに生きることはできないから買い出しには行くが、その度自分の挙動がおかしくなりはしないかと恐くなる。

食べることなしに生きていければ、あるいは食べることが犯罪であれば、どんなに良かったか知れない。「食」はインフラでありサービスであり娯楽であり客寄せだから、あらゆる場所に転がっており逃れることは出来ない。
あのスーパーの店員も、コンビニの店長も、絶対私のことを「いつも菓子と惣菜を爆買いするヤバいやつ」と認識していた。絶対そうだ。もっと知識がある人なら「あの人過食症だ、吐くんだ」と思われていたかもしれない。吐きはしませんが。

そう、吐けないということがコンプレックスだった。異常な量を食べるのに吐けないから太る、吐けないから大したことないと思われる。過食が始まった中2のあの日から、私は「これは簡単に戻れないんじゃないか」と予感したから、なおのこと「中途半端」な気がして自分を許せなかった。

「MSDマニュアル家庭版」という医学事典がネットで公開されている。そこには、私のような代償行為を伴わない過食も「摂食障害」として記載されている。事あるごとに私はそのサイトを開き、目でなぞる。そうだよね、私は「摂食障害」だよね。「食べ過ぎは若い頃はよくあること」「吐かないし極端な痩せ願望がないなら摂食障害じゃないね」と言われたことも、咀嚼した食べ物をビニール袋に吐き出しては虚しくなったことも、スプーンを喉に突っ込んでトイレに覆いかぶさったことも、でも吐けなかったことも、全部肯定してくれる、洗い流してくれる「摂食障害」の四文字。

過食性障害は、非常に大量の食べものを食べる行為(過食)をその最中や事後に自制を失っていると感じながら何度も繰り返すことを特徴とする摂食障害です。過食後には、食べ過ぎの影響を軽減しようとする行動(例えば、摂取した食べものを体から出す行動[排出行動])はみられません。

MSDマニュアル家庭版


いつまでも。いつまでもここから抜け出「せ」ず、抜け出「さ」ない。囚われているのか、縋りついているのか。多分どっちもだ。「嫌だ! もう離して」と叫びながら過食に縋りついている、そんなイメージ。愛着。これなしで生きていく自信のなさ。不安感。自立。自律。

過食がない人生を想像してみる。きっと体型は標準だ、太ってもないし痩せてもない。成績はもっとよかったはずだ、国公立大学にも行けたかもしれない。食費は半分以下に抑えられたし、精神科にも行かなくて済んだのなら合計数百万は浮いただろうか。友人とのお茶代や行きたいイベントにお金を使えただろうか。そもそも過食していた毎日数時間が惜しい。あの時間で本が読めた、勉強できた、音楽が映画が観れた、散歩に行けた、人と出会えた。何より、あの電気もつけない寒い部屋で、ひとり惨めに冷たい食べ物を貪らずに済んだ。


過食する頻度は11年かけて増えたり減ったりしながら、今は右肩下がりになっている。だが、過食頻度が減っただけで、体重が減るわけではないし、現実が明るくなるわけでもないし、奪われた(そう、私は過食に奪われたのだ)時間とお金が戻ってくることもなく、ただただ地続きの生と共に過去の残滓にまみれている。

名前がつかないことが辛くて仕方ない時がある。こんなに苦しかったのに、こんなに奪われたのに、と狂いそうになる。誰にもぶつけられない感情が、時々自分の中で抑えられなくなる。
いま、私がもう一度精神科に掛け合ってみても、「過去のあなたは摂食障害ですが、“今は”違いますね」「気分障害の方の“症状の一つ”として過食が起きますので」と言われるのがオチだ。だって、今の私には、「私のために」ハートの型抜きクッキーを作る余裕ができたから。

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