見出し画像

noteについて思うこと

僕が2021年に始めたことの1つとして、このnoteがある。

コロナ禍が長引いたことで、やはり例年に比べプライベートでの「人付き合い」が少なかった。
人と会う時間や酒席が減ることで、自分の考えをアウトプットする場もそれに比例していたように思う。
また、趣味の1つである音楽についても、この2年というものステージに立つ機会自体がなくなってしまった。

大きく括れば「表現する」ことが少なくなり、気付けば鬱屈した状態になっていたのだ。
仕事を含め肉体的にはそこそこ忙しいのに、思考や脳が暇を持て余した状態、という感覚。


そんな中、僕が毎週聴いている愛知県のCBCラジオで放送中の番組「#むかいの喋り方」の中で、パーソナリティのパンサー 向井慧氏が「noteというアプリで文章を書いている」というような事を言っていた(気がする)。
その当時は「そんなアプリあるんだー」程度だったが、10月になった頃、その放送から時間は随分と経っていたが、何となくという気持ちでアプリをインストールしアカウントを作成した。

特に何を書こうという気持ちもなく始めたため、最初の投稿は「作ったお茶漬けが美味かった」という内容の、何の役にも立たない駄文であった。
ただのテスト投稿である。
が、テストにしても中身が無さすぎる。
間違って読んでしまった方には申し訳ない。

そこからクリエイター名を決め、何かについて思うことを書く、という一応の統一テーマを作り、今に至る、というところだ。

正直この「である調」の文体についても今だに迷いがある。
どこか偉そうな印象を与えてはいないか、という気がしてならないのだ。
とはいえ、最初に設定してしまったので今更急に「ですます調」には変えづらい。
というか、迷いつつも慣れてきてしまった。


子どもの頃を除き、元々文章を書くのが嫌いではないが、ここまで長文を書くタイプの人間だとは自分でも思っていなかった。
少なくとも2,000字、長いと4~5,000字になることもある。
小学生の頃、どうやってマス目を埋めるか、姑息な手を多用しながら苦悩していた自分に知らせてやりたい。

ただ、長い文を書きつつも、目を通して頂いている方に申し訳ない気持ちも出てくる。
当初は、誰にも読まれないだろうという気持ちで書き始めたが、読んで頂いた形跡をコメント等で実感してしまうと罪悪感を多少なりとも感じてしまうのだ。
長い文は読んでいて疲れることが多い。


僕は文筆家でもなければ評論家でも何でもない。
これらの文章はただのサラリーマンの個人的な
、物事を回りくどく書き綴った感想文集である。

それでも、と少し考える。


この投稿を書いている傍ら、1人の若い女が僕の横で寝息を立てている。
彼女に腕枕をしているせいか、僕の片腕は少々痺れてきている。
寝つきが悪かったのか、少し不機嫌そうな顔をしたままスヤスヤと寝息を立てる彼女は、今この瞬間に限らず日常的にわがままな性格である。
まるで世界が自分の為にあるとでも言わんばかりに。

ショッピングに出掛ければ、自分の好みの商品が陳列されている棚の前から動かなくなる、空腹になったとしても目の前に料理の乗った皿が運ばれてくるまで手伝いすらせずテレビを観続ける、寝たい時に寝る。

とにかくマイペースな女なのだ。
僕の予定などには全く感知しない。
少しは大人になって欲しい、と日々思っているのだ。


というような書き方をすると、何か艶かしい雰囲気を感じられるかもしれないが、1歳半の娘の話である。
娘の寝かし付け中に書いている、というだけの、無意味な文章だ。
変な言い回しで書いていて、自分自身気持ち悪いことこの上ない。

文章の主体をぼかしたり、表現をあえて回りくどくすることで、途端に様相は変わってしまう。
ネットニュースの信ぴょう性が何とも言えない所以は、この辺りに共通する点もあるのかもしれない。
内容が虚構だったとしても、居もしない人間をでっち上げて、「業界関係者」「事情通」「テレビ局関係者」などという肩書きさえ書いてしまえば、一気にその文章はリアルさを増す。

事実をねじ曲げたニュースなどはこの世から滅び去れば良いと思っているが、創作的、エッセイ的な読み物としては読者がミスリードされるような表現は好きだ。

上の文章でそれが出来ているかは分からないが、何か面白い書き方が出来るようになれば、と思っている。
文字数をもう少し抑える努力もしたい。


2022年は、どなたかの暇潰しに数秒だけでも貢献出来る書き手になるべく、地道に細々と書いていければいいと思っている。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集