チュロスと挙動不審について思うこと
ある日。
僕はビクビクしながら、しかし平静を装いつつ地下鉄に乗っていた。
ことのきっかけは、それよりさらに55分ほど遡る。
会社帰り、とあるスーパーで冷凍のチュロスを買った。
油で揚げるだけ、というタイプのやつだ。
あとさき考えずに会計を済ませた僕は、ここで気付く。
「こんなもん買ったら、家に帰るまでに解凍されてしまうじゃないか。アホか。」
この日は7月中旬のとある一日。
日本全国、等しく夏であることは疑いようもない事実だ。
ここから家に帰るまでは、どう短く見積っても50分。
夜ではあるが蒸し暑い。
辟易するほど蒸し暑い。
帰宅する頃にはチュロスはグニャグニャになり、再凍結させようにも原型を留めていないかもしれない。
凍結していない生地状態のチュロスなど、首の座らない赤子の危うさに同じ。
そもそも再凍結させることの是非も分からない。
それならば、是が非でも解凍は阻止せねばならない。
何か保冷に役立つ物はないだろうかと店内を見回すと、サッカー台の先にドライアイスマシンがデカデカと鎮座している。
これだ。
10円を入れると気持ちばかりのパウダー状のドライアイスが出て来る。
それを先程買ったチュロスが入ったレジ袋に放出する。
なかなかに気温が高いので念のため50円分のドライアイスを袋に溜め込むと、良い具合に保冷されている雰囲気が出ている。
いいじゃないか。
冷凍チュロスの余命が延びたことを確信した僕は、駅に向かい改札を通り、地下鉄に乗り込むと空いている座席に座る。
冷凍チュロスとドライアイスが入ったレジ袋は、バッグから取り出した紙袋に突っ込んだ。
紙袋を膝付近に保持しつつ、イヤホンから流れる音に耳を傾ける。
【あと6駅】
発車してしばらく経ち、何やら視線を感じる気がする。
なんとなく気になり自分の身なりを確認するが、ファスナーも開いていないし、頭には鳩や鴨も載ってはいない。
ワイヤレスイヤホンが上手くペアリングされておらずスマホから爆音が流れている、というわけでもない。
一体どうしたことだろう。
まぁ気のせいか…と思いつつも手元のやや下に目を遣ったところで、あることに気付く。
【あと5駅】
なんか紙袋から薄っすらとモクモクしたものが出てるー。
地下鉄
×
疲れ切ったオッサン
×
紙袋
×
謎の白いモクモク
そりゃ見るだろう、なんか怖いし。
そんな奴がいたら僕だって遠巻きに見ながら逃げるための心の準備をする。
「このオッサン、なんかモクモクしてる」
「こいつ、ヤバいもの持ってるんじゃないか」
「リストラされた腹いせに地下鉄を…?」
「まさか何かしらのガスを車内に…?」
そんな声が聞こえてくるようだ。
【あと4駅】
ここで僕は考える。
・途中下車したところで結局再度乗らないと帰れないので、この場を立ち去るのは得策ではない。
・モクモクを止める術はない。袋の口を縛ろうもんなら、盛大な破裂音を車内に響かせる可能性はゼロではない。
・かといって「これはドライアイスなんです!」と声高に主張したところで余計に怪しい。
・そもそも不特定多数に向かって唐突に「チュロスが!ドライアイスが!」などと騒ぐ奴は、その存在自体が通報案件である。
そんな考えを巡らせたうえで、出した結論は
寝たフリ。
この世の全てから目を背ける。
疑惑に滲んだ視線も、声にならない声も、全てを黙殺する。
【あと3駅】
ところで、と、寝たフリをかましながら考える。
仮に50円分のドライアイスが全て気化したとて、車内のCO2濃度が人体にとって危険なレベルまで上昇することはない。
少々鼻息の荒いオッサンが一人か二人増えたのと同じレベルだろう。
よって、車内の人々を命の危険にさらすことにはならない。
では、「なんか怪しいオッサンがいる」という理由だけで通報された場合はどうするか。
その場合は駅の事務所でもどこでも素直に連行され、懸案のドライアイスと冷凍チュロスを駅員に見せつけてやればいい。
チュロスの何が悪いという、論点のすり替えをしながら。
【あと2駅】
などとWikipediaで得た怪しい講釈を垂れ流せば、駅員も辟易として僕を解放してくれることだろう。
それでも駄目な場合は、チュロスなのかチューロスなのか、チュロなのかチュリトスなのか、チューロなのかチュロッキーなのか、駅員と激論を交わしたっていい。
激論の末に気心が知れた頃、僕を晴れやかな気分で解放してくれることだろう。
【あと1駅】
では、何故あのスーパーは氷ではなくドライアイスなのか。
まさかドライアイス普及推進協会のような組織があり、各省庁の天下りの温床に…いや、違うな。
導入の経緯など知ったことではない。
しかし、たかだか10円×吐出回数でマシンのリース費用は維持できるのだろうか。
ドライアイスを吐出する際にコンプレッサーが消費するであろう電力も、決して無視は出来ない。
恐らくマシン単体で採算は取れないだろう。
もちろんドライアイスで利益を得ようと考えてはいないだろうが、そもそもドライアイスマシンの稼働率と損益分岐点の関係とは…
…というようなことを考えていたら、特に通報もされず話しかけてくる人も現れず、自宅最寄り駅に到着した。
駅から自宅までは15分。
気化したCO2ガスを存分に大気に混ぜ込みながら、フラフラと歩く。
あ、と思う。
グラニュー糖を切らしていたが買い忘れた。
やはりチュロスには小さな粒々の砂糖をかけたい。
何だか今日は疲れた。
チュロスを揚げるのは次の休日にしよう。
冷凍庫にチュロスを仕舞い、代わりに冷蔵庫から出した缶ビールを開けた。
そんな、とある一日の夜。
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