「ただしさに殺されないために」Amazonレビュー書いた
現代のトマス・ペイン、御田寺圭
開高健は、その早すぎた晩年のあるエッセイで、予言者トマス・ペインに触れてこう書いている。
御田寺圭氏の新著「ただしさに殺されないために」に触れて評者がただちに想起したのは、このトマス・ペインであった。「白饅頭」名義で毎日(ほんとうに毎日、1,000日以上連続で)大量のテクストをnoteに綴り、加えて「御田寺圭」名義で「現代ビジネス」「ダイヤモンド・オンライン」でも旺盛な執筆活動を続けている氏だが、一部の「界隈」からは蛇蝎のように嫌われており、氏が自嘲めかしてTwitterに書くように「何故執筆の場を与えているのか」との声が、残念なことにうっすらと社会的実効性を持ちつつあるように見える。
日々のnoteでは、ともするとコール&レスポンス、やや語調が強くなっている部分があるように感じるが、本書は静謐な文体で書かれ、それだけに深刻な事態を扱っていることが言外で読者に伝わってくる。言葉の粒子が細かい分、深い闇のなかに染み込んでいくような感を受けた。強い感情を惹起する言葉は注意深く避けられているが、そのぶん個々の言葉の放つ光の半減期は長い。
評者は前作「矛盾社会序説」の「序文」を偏愛しており、時々読み返しては勇気づけられることがあったが、本書の序文 ― 28歳の「ごく普通の男性」の手紙に引用されたディラン・トマスの詩から始まる ― は、凄惨すぎて、「勇気のあるときにしか読み返せない」ように思う。
前著から3年半、世界はすっかり変わってしまったのだろう。
コンセプトとしては「光の物語で不可視化された存在に目を凝らす」文章集であり、そこでは「わたしたちの社会から『迷惑で不快』とレッテルを貼られた人々」、即ち路上生活者、子供部屋おじさん、ヤクザなどが扱われている。大きく5章に分けられているが、どこから摘読しても構わない、緩やかに関連性をもった30篇の文章が収められている。ただ、前半に収められた文章の方がどちらかというと総論的な内容になっている。
本書の読者の多くが「白饅頭note」の購読者でもあるのではないかと推測するが、「白饅頭note」による予見・先入観なしにこの本を購読した新規読者がどのような感想を抱くのかについて好奇心を禁じ得ないところだ。
ひとりの継続的読者として、もしリクエストしたい部分があるとすれば、前作・本作を超えた「では、どのような思想が待たれるのか」についての次回作を読みたいと思う。既に「白饅頭note」に関連したTweetで言及されているように、著者は親鸞思想について、私見では既存と異なる方向性の「現代に生きる読みかた」を紹介しているように思う。その他、「ツイッタラーとしてのG・K・チェスタトン」など、個々の思想家を独自のやりかたでreviveさせるような次回作はどうだろうか。フォークリフトで走り去る40歳になる前に書くべきことは残っているように思うのだが……
終章で著者はこう書く。
そして、冒頭の開高健のエッセイは「予言者トマス・ペイン」の生涯の痛ましさ・晩年の不遇・無縁墓地にすら葬られなかったその最期を描き、以下のように閉じられる。
稀代の文筆家である叙情の白饅頭=御田寺氏の今後の無事と健筆を祈りたい。