大学院入試のための西洋哲学史<列伝>
はじめに
みなさんこんにちは、らりるれろです。
お待たせしました。以前公開した「大学院入試のための西洋哲学史の記録(メモ2024年1月)」の正式な版を、ようやくお届けできる状態になりました(希望的観測かもしれませんが)。
このnoteは、西洋哲学・思想を先行する大学学部生・大学院生向けに、定期試験や大学院受験のために必要な西洋哲学史の知識の概略を提供するものです。「列伝」のタイトルの通り、2500年の西洋哲学史の中で絶対に外して語れない哲学者を取り上げ、その思想のキーワードごとに内容を整理しています。
試験前には、その哲学者の思想のキーワードを十全に列挙できるか、そして説明できるかを確かめていただければ良いかと思います。何かのお役に立てば幸いです。
なお、この「西洋哲学史<列伝>」以外に、以下を続編として執筆する予定です。お楽しみに!
西洋哲学史<テーマ別概論>
現代の諸問題に関する哲学概論(応用哲学・倫理学・美学その他)
ソクラテス
無知の知
ソクラテスの思想は、しばしば同時代のソフィスト(プロタゴラスやゴルギアスなど)と対置される。「人間は万物の尺度である」、あるいは「何も語ることはできない」と主張した彼らは、間違いなく「知者」であった。しかし彼らの知は、時代の中で力と結びつき、彼らの言論における卓越が、権力を産み、民主政は内部から腐食されていった。
そんな落日を予感させる時代のアテナイにおいて、ソクラテスは申し分ないほどの異邦人だった。余所者であり、現実には邪魔者であって、ソフィスト的な有能さと対極にある人間だったとも思われる。
だが「無能な」ソクラテスに対して、デルフォイのアポロン神殿に座す神は「ソクラテスほど知恵のある者はいない」と告げる。自他ともに無能とされてきたソクラテスはこれを不思議に思い、街の人々と対話を重ねた。
その結果、一般的には「優れて立派な人」と言われている政治家や詩人・職人たちも、大事なこと、それが善く美しいとされることについては何も知らないということが分かった。
「私の方が、この男よりは知恵がある(ソフォーテロス)。この男も私も、おそらく善美の事柄は何も知らないらしいけれど、この男は知らないのに何か知っているように思っている思っている。私は知らないので、その通り知らないと思っている」(『弁明』21b)。
これは、伝統的には「無知の知」と呼ばれてきた事柄である。しかし注意しなければならないのは、ここで言われていることは「知らないことを『知っている』」ということではなく、「知らないので、その通り知らないと『思っている』」ということである。
→『ソクラテスの弁明』の終盤で、彼は法廷にてこの<無知の知>を「人間の知恵」とする逆説を提示する。
ソクラテスは『カルミデス』において、「知らない事柄については、知らないと知ることが可能であるか」という問いを立て、否定的に答えている。例えば、視覚が色彩を感覚するものであるなら、視覚についての視覚はありうるだろうか。否、そのような視覚はあり得ない。知への知、そして無知への知も同様である(そのような知はあり得ない)。
したがってソクラテスは「知者」=ソフォスではない(「知っている」わけではない)。あくまで「知を愛し、求める者」=フィロソフォスなのである。
対話法
自らは知者でないソクラテスが、知者を自認する人々と対話を重ね、それを論駁していく。その対話法(ディアレクティケー)は、単なる論争術(エリスティケー)から区別されて、相手の言論の吟味と論駁を含んだ対話、「エレンコス」と呼ばれる。
エレンコスは一般に、次のような構造を持つ。
①相手の主張Aを認める。
②主張Aから、帰結B、C、Dなどを導く。
③B、C、DなどからAの否定を導出して、その元で、相手の元々の主張Aが矛盾していることを示す。
ソクラテスは相手との対話を進めながら、自分は答えを与えない。解答をソクラテス自身も知らないからである(「アイロニー」)。対話を通じて相手は、それとは知らずに新たな真理に逢着する(「助産術」)。否、知らないという状態に突き落とされる。知は宙吊りにされ、否定だけが残る。
こうした論駁は「ダイモン的」であり、弁証法という言葉を使うなら、否定的弁証法と呼ばれるだろう。
文献情報
熊野純彦(2006)『西洋哲学史—古代から中世へ』、岩波書店、66-74頁。
プラトン
線分の比(可視界と可知界)
線分の比とは、可視界と可知界(イデア界)との区別、およびそれぞれの中での現物と似像との関係との関係を表したものである。
可視界をA、その中の現物をa1(影)、似像をa2(事物)、
可知界をB、その中の現物をb1(法則)、似像をb2(イデア)とすると、以下の比例関係が成り立つ。
A:B = a1: a2 = b1:b2
可視的なものは知覚(影は感覚、事物は信念)、可知的なものは思考(法則は悟性、イデアは理性)によってそれぞれ認識される。
私たちが感覚可能な世界の中に、現物とその似像があるのと同じように、この現象界そのものの「オリジナル」であるイデア界が存在する。その世界を感覚的に知ることはできないが、この線分的比を元にその存在を推測することはできる。
<参照>
今道(1987)、70頁。
洞窟の比喩
私たちはイデアを直接認知することができない。私たちは、イデアの影しか見えないように、洞窟の中に囚われた囚人なのである。
囚人たちが蒙っているのは、彼らに知が欠けているという意味での欠如なのではない。そうではなく、彼らが蒙っているのは、直接的な見かけ(現れ)の過剰なのである。囚人たちはその様々な見かけに、狂信的なまでに執着してしまっているのだ。
囚人たちは、哲学者を仲介人として、見かけへの執着から自己を解き放つ。ただし、急に実在の方に向けられてしまうと、眩しさで目が眩んでしまい、新たな夜に侵されて盲目になってしまうのである。
それゆえ、段階を追って真なるものに進んでいく必要がある。具体的には、準備教育的学問(算術、幾何学、音階学)をまず経由することが必要である。
全ての真なる認識は、実は再認識である。見えている(はずの)ことを再び見出す。魂が知っていることを想起する。真理とは無時間的なものであり、いつもそこにある。無知とは、それゆえ忘却なのだ。
<参照>
フォルシェー(2011)、15-17頁。
イデアとエロスの関係
イデアは神々によって見られたものであるが、そういったイデアを人間はいかにして見ることができるのか。
魂がイデアに触れるためには、ある飛躍ないし狂気が必要になる。その飛躍・狂気はエロスの力によって導かれる。
実在全ての中で、《美》のみが、見かけのもののうちでも自らを顕現させうるのであり、自らを感性化する。《美》を求めての探究は《エロス》という神によって生気づけられる。
エロスこそが、地上的存在としての人間と天界的存在の神との間の媒介であり、《愛》こそが、我々を絶対的なものへと憧れさせ、段階を踏みながら、アレコレの個々の美しい肉体から引き離して全ての美しい肉体を愛することに向かわせ、次に美しい魂、美しい行為を愛するよう向かわせ、ついには《美しさ》そのものへと飛翔させるのである。
<参照>
フォルシェー(2011)、23頁。
善のイデア
このような諸々のイデアは事物の輝く本質ではあるが、諸々のイデアそのものはイデアを照らしイデアを智解可能にしている光なのではない。
実在と実在の条件は実在と智解可能性の彼方になる。この条件こそが、《善》である。それは《存在》ではなく、あらゆる智解可能な本質を超出しており、それゆえ決して言説の対象とはなり得ないものである。言い換えれば、哲学は厳密な意味で絶対的なものへの絶対的な知にはなり得ない。
哲学は、哲学の智解では決して届き得ない絶対的知への愛にとどまる。
理性的言語は、言説の彼方へ向かうものへと場を譲らなければならない。これが観照(テオーリア)である。
<参照>
フォルシェー(2011)、21頁。
想起説
不死なる魂は、既に遍歴を重ねて、ありとあらゆる物事を見知っている。魂は、顕在的な形では、なお何も知っていない。けれども魂は、潜在的には全てを知っているはずである。
この不知と知のはざまで、すなわち「想起する」という形で、初めて探究が可能になる。完全な不知の状態にある時、人は探究を開始できない。何を探究すべきかすら分からないからである。他方、完全なる知の状態にある時も、人は探究を開始できない。全ての探究を終えてしまっているからである。それゆえ、探究は想起という形を取ることになる。
<参照>
熊野(2005)、83-85頁。
イデア論のアポリア
プラトンのイデア論については、同時代のパルメニデスから以下のような反論が寄せられている。
個物はイデアを分有している。個々の美しい事物は、松明の火を皆で分け合うような仕方で、「美」のイデアを分有している。
しかしそうであるなら、諸事物と「美」のイデアを共に「美しい」とする、第三のイデアが必要になる。以下同様であり、また全てのイデアについて同じことが言えるので、「一なるもの」であるイデアは同時に限りなく「多なるもの」でもあることになる。
また「同」と「異」について考えるとき、「一なるもの」は自分自身に対しても、異なる他のものに対しても、異でも同でもあり得ない。
一は、自らと異なることができない。一が純粋に一である限り、異を絶対に含まないからである。他方、一は自らと同じであることもできない。何かと同じであるという時、一は既に多になってしまうからである。
したがってイデアは純粋な「一」ではなく、「多」を含みうる。そして「一」と「多」は相互に異なる。感覚的世界を超えて真なる存在を考えるとき、このアポリアを避けて通ることはできない。
<参照>
熊野(2005)、90-94頁。
国家の正義
中期プラトンの代表作『国家』では、国家と個人の正義の問題が類比的に語られている。
プラトン曰く、国家は「守護者」(支配者)、「防衛者」(支配者の保護)、「職人」(必要な物資の生産者)によって形成される。各人の個性や特性に応じて、これら3つの仕事は専業で行うべきである。この国家観において、正義は「それぞれが自分の行うべき仕事をしっかりとなすこと」となる。
もし国家に「正義」があるならば、「知恵」「勇気」「節制」が国家に備わっていることになる、とプラトンは指摘する。
まず、守護者には「知恵」が必要である。国内の泰平、そして良い外交を行うために、守護者は良い知恵を有していなければならない。同様に、防衛者には「勇気」が必要である。そして支配者と被支配者との間で最適な調和を生むために、国家全体として「節制」が必要になる。
国家の成員がなすべきことをして、全体が調和した状態となる時、国家は全体として「正義」を持つに至る。
<参照>
柘植(2016)、7-8頁。
個人の魂の調和
国家と同様、個人の魂にも3つの部分が存在する。それぞれ、「理知」「気概」「欲望」と呼ばれる。
理知的部分は、知恵によって魂全体のために配慮し、支配する。気概的部分はその支配を補助し、魂全体のために勇気を振るう。
魂全体の中で最も多数を占めるのが欲望的部分である。この欲望と気概が理知に従う時、節制が生まれ、全体として調和が取れた「正義」の状態になる。
『国家』において魂による理知的支配の重要性を説いたプラトンは、ピュシス(自然)とノモス(法律)との関係について、初期とは異なる考え方を示すに至る。
当初プラトンは、人間は自然的本性=ピュシスは横暴で自分勝手なので、弱い人間は自らを守るために法律=ノモスを制定した、と考えていた。
しかし『国家』以後のプラトンは、物体は魂によって動くので、魂こそが自然=ピュシスとして理解されるべきであると考えるようになった。自然としての魂に従って、法律=ノモスが制定される。
魂の理知的部分—より本質的には善のイデア—を根源として、そこから世界の全てを組み立てるプラトンの思想は、西洋哲学史の原点にして、まさに範型=イデアとなった。
<参照>
柘植(2016)、9頁。
芸術批判/詩人追放論
プラトンは『国家』の第10巻において、理想の国家建設のためには芸術家を追放しなければならないと主張した。
その主張の根拠は、芸術制作の観点とその鑑賞の観点から与えられる。
まず、芸術制作の観点からの批判を見ていこう。
プラトンは、家具職人の技術(ars)は存在論的に画家の芸術(ars)よりも優れていると指摘する。というのも、家具職人は寝台を作るにあたって寝台のイデアを模倣しているのだが、画家の方は寝台を描くことで、イデアの模倣たる寝台の模倣を行っている。
したがって、芸術家の制作したものは、家具職人が作ったものよりもイデアから遠ざかってしまう。
また、芸術家たちは、物事の類似物を作るだけであり、自分達が描くところのものを知ることはない。イデアから最も遠く離れ、それについての知からも離れる芸術家をプラトンは痛烈に批判している。
他方で、芸術の鑑賞についてもプラトンは批判的見解を提示する。というのも、芸術はその観客を外的な見かけだけで満足させ、真実から遠ざけるからである。
模倣描写=イデアの模倣の模倣としての芸術は魂の最も非合理的な部分を刺激し、本来ならそれを干からびさせるべきであるのに、そこに養分や水を与えてしまう。
以上の理由から、プラトンは理想の国家建設における芸術家追放を訴えている。
<参照>
ユゴン(2015)、31-32頁。
文献情報
今道友信(1987)『西洋哲学史』、講談社、57-82頁。
熊野純彦(2006)『西洋哲学史—古代から中世へ』、岩波書店、77-96頁。
柘植尚則(2016)『入門・倫理学の歴史—24人の思想家—』、梓出版社、3-12頁。
フォルシェー、ドミニク(2011)『西洋哲学史—パルメニデスからレヴィナスまで』、川口茂雄・長谷川琢哉訳、白水社、13-24頁。
ユゴン、カロル・タロン(2015)『美学への手引き』、白水社、16-33頁。
アリストテレス
実体
アリストテレスは、実体(存在するもの)という言葉を3つに分類している。
1つ目は、真なる実体としての個物である。個物は質料と形相の合成物であり、命題としては主語となって述語とならないものである(例:任意のある馬)。
2つ目は、その個物の中にある類である(例:「馬」)。
3つ目は、命題の述語—主語である個物の普遍的本質——となる10のカテゴリである(実体
質・量・能動・受動・場所・時間・関係・位置・状態)。
<参照>
今道(1987)、85-86頁。
四原因説
生成変化する自然的な実在は、形相と質料の複合体であるとアリストテレスは言う。
この性質は、芸術制作において如実に現れる。
芸術制作は事実と原理を前提にして、それゆえ自然を模倣するものでなければならない。
一つのヘルメス像は、質料(大理石)、形相(ヘルメス神の形相)、目的因(ヘルメス神の表現)、動力員(彫刻家)という4つの原因によって作られている。芸術作品と自然的実在の違いは、後者は運動の原理を内在させている点にある。
(アリストテレスの存在論は、運動論であり、力学的である)。
<参照>
フォルシェー(2011)、26頁。
不動の動者としての神
アリストテレスは、『形而上学』において第一実体(=個物としての実体)はそれを第一実体たらしめる<本質>、<形相>であると論じた。
さらに、本書で展開された<第一哲学>(「存在としての存在」の学)は、自然界の実体と天界の実体とが共に依存する究極的な原理・原因である<第一実体>=不動の動者を定立する。これが<純粋永遠のエネルゲイア>としての神であり、この神が<いま・ここ>の現実を根拠づける。
それぞれが実体と呼ばれるが、最高の存在は純粋形相としての神である。
<参照>
今井知正(1998)、670頁。
可能態/現実態/完全現実態
アリストテレスは、事物は可能的なものから現実的なものに進んでいくと指摘する。
種子という可能的なもの(可能態)が芽に進展する。このとき、種子から見れば芽は現実態になっている。
さらに進んでいって、木に実が実っているときに、本当に、完全な現実態になる(完全現実態)。
<参照>
熊野(2005)、106頁。
究極の目的としての幸福
完全に分離された、到達不可能な《善》それ自体を打ち立てたプラトンとは違い、アリストテレスはあらゆる善を何らかの目的として定義する。どんな行為にせよ、目的に適うことが善になる。
善は、それ自体目的でありつつ別の目的にとっての手段となるような相対的目的もあれば、決して手段になりえない絶対的目的もある。人間にとっての絶対的目的とは《幸福》である。
《幸福》という絶対的善の状態は、習慣によって獲得される。理性によって自らを導き、徳ある人間となることによって。
<参照>
フォルシェー(2011)、29-30頁。
徳
人間にとっての幸福とは、人間に特有な性質を十全に発揮することであり、すなわち知性の完全なる発揮である。
別な言い方をすれば、エートス(何かに優れていること、卓越している点)に基づいた魂の活動が善である。
徳は思考に関する徳と性格に関する徳があり、徳に基づく行為はこの両者を必要とする。すなわち、正しい理法を知っており、それに従う性質・性向があって初めて幸福となれる。
<参照>
柘植(2016)、16頁。
中庸
アリストテレスは、どんな行為を取るにせよ、超過や不足をさけた「中庸」を目指すべきであると主張した。
例えば、性格に関わる徳の一つに「温厚」がある。温厚とは、理に従って、然るべき対象に然るべき仕方で怒る性格である。何が「然るべき」であるかはケースバイケースだが、このような仕方で然るべき「中庸」=中間を見定めて行為することが重要である。
<参照>
柘植(2016)、17-18頁。
正義
アリストテレスにおける「正義」は、広義の正義と固有な意味における正義に分けられる。
広義の正義とは、法に従うことである。
固有な意味での正義とは、個人の性格に関わる徳の一つである。個人の正義とは、他者との相互関係において、等しいものを自分と他者に配分する状態であり、自分には多く、あるいは少なくといった超過と不足を避けた適切な状態である。
ここでは2種類の配分が想定されている。1つは富や名誉など望ましいものの平等な配分(配分的正義)であり、もう1つは損害など望まれざるものの適切な配分(裁判を行うことで、加害者と被害者の利益配分を均等にすること=是正的正義)である。
ちなみに、誰に対しても同じものを平等に配分することが正義であるわけではない。これは物の交換において顕著である。例えば、家職人と靴職人との間の家と靴の公平な取引は、家職人が必要なものとして受け取るものと同じ価値のものを、靴職人が受け取った時に成立する。重要なのは物質ではなく価値の交換の公平性なのである。
<参照>
柘植(2016)、19-20頁。
詩学/ミーメーシス
アリストテレスは『詩学』の中で、プラトンが「模倣芸術」と断じた描写芸術(ミーメーシス)について論じているが、この「ミーメーシス」という言葉は、プラトンと違って否定的な意味を持たない。
そこには2つの理由がある。1つには、アリストテレスの形而上学がプラトンと違って感覚への敵意を含んでおらず、それゆえに感覚の世界の模倣が否定的な意味を持たないということがある。
そしてもう1つには、ミーメーシスという行為が現実に対して隷属的な意味を持たないということがある。模倣は確かに現実的なものに依拠しはするが、それは新しいものを生み出すためである。新しいものとは、架空の存在である。ミーメーシスは「可能なもの」を扱うのであって、「存在しているもの」を扱うのではない。ミーメーシスが模倣するのは、自然における事物の制作過程(※四原因説を参照)であり、自然の事物それ自体ではないのである。
自然において事物が制作されるのと同じように創作するにあたって、アリストテレスは悲劇を題材にして、創作者が意識すべき点をいくつか挙げている。まず、安易に驚かせることや、あり得ないような飛躍を用いないこと。筋を統一すること。比喩などの表現を使って力強い言葉遣いをすること。こうした点への配慮によって、悲劇の登場人物たちは生き生きとした自然なる雰囲気を醸し出すようになる。
またアリストテレスの分析は、鑑賞者の快の感情をも射程に含んでいる。
まず、模倣描写そのものによって得られる快がある。しかしそれだけでなく、演じられているさまざまな感情を自ら感じ、そのこと自体を通じてそれらの感情から自分を浄化するという複雑な快もある。
悲劇は観客と悲痛な出来事との間に虚構という距離を設ける。この虚構性が感情の浄化の源になるとアリストテレスは指摘している。悲痛な感情を、それを生み出すものに対して虚構としての距離を置きながら経験すること、それは激情を通常の仕方で経験するのではなく、純化された仕方で経験することである。そしてこの通常の感情を転化すること自体によって、悲劇の快(浄化作用、カタルシス)が生まれるのである。
<参照>
ユゴン(2015)、34-37頁。
文献情報
今井知正(1998)「実体」『岩波哲学・思想事典』、廣松渉ほか編、岩波書店、670頁。
今道友信(1987)『西洋哲学史』、講談社、83-92頁。
熊野純彦(2006)『西洋哲学史—古代から中世へ』、岩波書店、98-116頁。
柘植尚則(2016)『入門・倫理学の歴史—24人の思想家—』、梓出版社、13-22頁。
フォルシェー、ドミニク(2011)『西洋哲学史—パルメニデスからレヴィナスまで』、川口茂雄・長谷川琢哉訳、白水社、24-31頁。
ユゴン、カロル・タロン(2015)『美学への手引き』、白水社、33-38頁。
アウグスティヌス
「君自身のうちに帰れ。真理は人間の内部に宿っている」
人は真理を求め、真理を愛する。この人間の内面性のうちに、確実なもの、真なるもの、そして神への通路が開かれている。
内面性と言っても、それは身体的感覚のことではない。身体的感覚は確かに外部に存在するものについて何事かを伝達するが、それが真なる内容を伝えるとは限らない。
真の正しさを知っているのは人間理性である。人間の理性が、身体的な感覚に頼らず、自ら「永遠で不変なもの」を発見するとき、理性は自分よりはるかに優れたもの、「神」を見出すのである。
もちろん、人間の理性、精神それ自体は完全なものではあり得ない。だが私がもし、自らのうちに「より完全なものの観念 idea entis perfectioris」を有していなければ、私はどうして自分が不完全なものであることを知り得ただろうか。
有限で不完全な理性の内部で完全なものが、相対的なものの只中で絶対的なものが、内在のうちで超越的なものが、内面において神という絶対的な外部性が出逢われる。だから、「外に出てゆかず、君自身のうちに帰れ。真理は人間の内部に宿っている」とアウグスティヌスは語っている。
<参照>
熊野(2005)、172-181頁。
内的な時間
アウグスティヌスは、時間は外的に存在するものではなく、私の意識に対して現れてくるものであると論じた。すなわち、過去は記憶の中で、現在は直観の中で、そして未来は期待として、それぞれ示される。
とはいえ彼は、時間の客観性を否定してしまったわけではない。そうではなく、意識という主観性の中に現れる時間の客観性を示している。
記憶として現れる過去は、「〜〜であった」という命題形式で表現される。同じように、現在は「〜〜である」、未来は「〜〜だろう」として表される。だとすれば、過去は必然性/偶然性を、現在は存在/非存在を、未来は可能性/不可能性を表す命題として、つまり様相を示す命題として記述できることになる。こう考えると、時間を単なる意識の内容としてだけでなく、命題の様相の範疇として捉えることができる。
また、こうした過去・現在・未来と流れていく時間は人間に特有のものである。私の生は、秩序を知らない時間のうちに分散しているが、分散し、過ぎ去り、現在において散り散りだるような存在が、自分自身によって支えられているはずがない。私の存在はむしろ、神によって支えられている。神の永遠のうちでは、限りある生も過ぎ去らない。「神は全体として遍在する」。全体が現在である神の永遠のうちで、私の生も過ぎ去ることがない。私の生の全体は、神に対してのみ現前する。
<参照>
今道(1987)、143-144頁。
特に時間の客観性についての部分で参照した。
熊野(2005)、181-184頁。
神の国
人間を含め全ての被造物は、自らの存在の根拠を神に負う。神の意志の結果として無から存在の次元へと至らしめられたがゆえに、善きものとして存在する。
存在するものは、存在する限りにおいて全て善である。それゆえ、悪は固有な実体・原理として存在するのではなく、善が欠如した状態として存在する。
では、悪はなぜ存在するのか。アウグスティヌスは悪の根源を、人間の内面=自由意志の中に見ている。
私たちは神の被造物であるという性質上、自然に善を求める。しかしこの自由意志は時に傲慢になる—つまり創造主たる神の意志に叛く—ので、本来望むべきでないはずの悪を欲求してしまう。意志が「欲望」に仕える転倒が発生し、善を欲しているのに悪行をなすという矛盾を成してしまう。
人間は自由な存在であるが故に、欲すべきでない悪を為してしまうという悪への可能性にも常にさらされている。だからこそアウグスティヌスは、「自己以外のものからの照明なくしては自己は救われ得ない」という確信を心に刻み込んでいく。
人間は神からの恩寵を受け、キリストを信仰し、神を「享受」(=あるものにひたすらそれ自身のためによりすがること)することを通して、初めて悪のない境地へと至る。
アウグスティヌスは、神への信仰と人間の傲慢な自由意志との対立を人類史全体に拡張させている。曰く、人類史は信仰者たちの「神の国」と、人間を至上目的とする「地の国」との対立の歴史である。
アウグスティヌスは、神により善く応答していった者たちの集まりである教会こそが「神の国」の担い手であると主張し、国家に対する教会の優位性を説いた。
<参照>
柘植(2016)、29-36頁。
文献情報
今道友信(1987)『西洋哲学史』、講談社、138-148頁。
熊野純彦(2006)『西洋哲学史—古代から中世へ』、岩波書店、166-184頁。
柘植尚則(2016)『入門・倫理学の歴史—24人の思想家—』、梓出版社、27-36頁。
トマス=アクィナス
神の存在証明の5つの道
「神が存在する」という命題は、それ自体としては自明である。しかし私たちの認識にとってはそうではない。人間は、可感的なものを通じて可知的なものに至る。従って神の存在についても、経験的諸事実から出発して論証される必要がある。
神の存在は、以下の5つの道によって証明される。
1.「運動の道」
世界には運動するものが存在する。運動するものは全て他のものによって運動する。その秩序を無限に辿っていくことはできない。他の何物によっても動かされない「第一の動者」が存在する。人々はこれを神と呼ぶ。
2.「始動因の道」
世界には始動因の秩序がある。この秩序を無限に遡行することはできない。それゆえ、第一の始動因としての神が存在する。
3.「必然性の道」
諸事物の中には、存在することもしないことも可能なものが存在する。このようなものは、「存在していない」ときを有するが、その際何物も存在していなかったとすれば、今は何も存在していないはずである。しかしそうなってはいないので、全てが可能的なものなのではなく、諸事物の中に、何か必然的なものが存在しなければならない。
必然的なものは、それ自体において必然的であるか、他のものによって必然的になっているかのいずれかである。後者の場合、その系列を無限に遡行することは不可能である。従って、「それ自身として必然的にあるもの」が存在しなければならない。人はそれを神と呼ぶ。
4.「存在の完全性の道」
世界の中には、より多く(あるいは少なく)善なるもの、真なるものが存在する。「より」とは、最大限との隔たりを表す。だとすれば、万物の存在と善の基準となる、「最大限」の完全性の原因となる神が存在する。
5. 「目的因の道」
全ての自然物が合目的的に運動する。全ての自然物がそれによって目的に秩序づけられる、知性的なあるものが存在する。
<参照>
熊野(2005)、225-229頁。
存在の類比
神の存在証明の第三の道は、世界の存在と、その偶然性という本質と、神の本質である必然性が前提となった上で、神の存在が導出されている。つまり、世界の存在と世界の本質との関係と、神の存在と神の本質との関係が比例関係として想定されている(「存在の類比」)。
神は経験的な地平から出発して、その結果から存在が証明される。世界から神の存在へ到達することは、類比的関係の想定によって可能である。
けれども他方、神と世界は断絶している。神は創造主であり、世界は被造物だからである。神と被造物との間には、存在論的に究極の差異がある。
だから、「神と被造物については、あるものが同名同義的に述語されることが不可能である」。例えば神について「知恵あるもの」と語られる時、それは人間について同じ語が語られるのと等しくない。神についての語りは、「表示されているもの」—ここでは「知恵あるもの」—を超えたものとして語られる。その点でトマスは否定神学を受け入れている。
神についての語りは、世界の存在との類比的関係によって成立する。神について、被造物を起点に、世界「から」語ることができる。けれども、世界はそれ自体が被造物である限り、世界は神によって現にそのように存在している。世界は神を出発点として、神によって存在する。被造物は全て、神の存在を分有している。したがって、存在の類比は存在の分有を前提にしている。
神の存在の分有について語る時、それは神による世界の創造についての語りとなる。神の存在から「一切の存在者は『流出』」し、この「流出」を私たちは「創造」と名付けるのである。
<参照>
熊野(2005)、231-235頁。
神からの恩寵
トマスは、何かにとっての幸福とは、その善い部分を最大限働かせることにあると論じる。
人間にとっての善い部分とは知性である。知性を最大限働かせることが人間を幸福にさせる。知性を最大限働かせるとは、知性を最高の対象に向けることである。すなわち、人間にとって最大の幸福とは、神を認識することである。
ただし、人間は通常の認識の仕方では神を認識できない。人間の通常の認識は感覚によって可能になるが、神は感覚できないからである。それゆえ、神の認識は神から「恩寵」を与えられることで、初めて可能になる。
幸福に至るためには徳が必要である。
徳とは「善い習慣」であり、「知性徳」と「倫理徳」に分けられる。これは、人間の魂の知性的部分と意志的部分に対応する。
善い行為を行うためには、「何が善いか」を知っているだけでは不十分である。「知性徳」による認識に加え、善い行為を欲し、そこへ向かうための「倫理徳」があって初めて善い行為が実現される。
また徳は、人間が独力で獲得できるか否かによって「枢要徳」と「対神徳」にも分類できる。
枢要徳とは、善い行為に向けて直接的に影響する徳のことである。
知性徳の中では「知慮」(何が善であるか知る)が、倫理徳の中では「正義」(あらゆる人に対する義務をなす)「勇気」(恐怖を感じても善行をなす)「節制」(肉体的欲望を抑制する)が枢要徳に当たる。
この中でも知慮は、他の全ての徳を実効的なものにする点において、最も根源的な枢要徳である。
対神徳は、神から外的に注入される徳のことである。幸福に至るためには、この神からの「恩寵」が必要になる。具体的には、「信仰」「希望」「愛」が対神徳に当たる。信仰は知性的な徳である。理性によっては論証できない事柄を信じる行為を指す。希望と愛は意志的な徳である。神を欲求し、神を神自身のために愛する行為がそれに当たる。
<参照>
柘植(2016)、40-43頁。
文献情報
熊野純彦(2006)『西洋哲学史—古代から中世へ』、岩波書店、218-236頁。
柘植尚則(2016)『入門・倫理学の歴史—24人の思想家—』、梓出版社、37-46頁。
デカルト
良識
『方法序説』冒頭でデカルトは、「良識はこの世で最も公平に配分されているものである」と述べている。
「良識」は「理性」とも言い換えられ、「よく判断し、真を偽から分ける能力」として規定される。この良識/理性は、真理の探究を主導する力として、「真理の種子」として全ての人間に公平に与えられている。
然るに、この良識を十分に活かせている人は多くない。確かに真理の種子たる良識は全ての人に与えられているが、それだけでは不十分で有り、自らの有する理性をよく導き、正しく使用し、そのための条件や規則を定めることが重要である。
<参照>
柘植(2016)、52-53頁。
学問を学ぶ上での4つの規則
デカルトは『方法序説』の第二部において「私が先例と習慣とによってのみ思い込んだに過ぎない事柄をあまりに堅く信じるべきではない」と述べ、悟性の働きを曇らせる誤りから、私たちは少しずつ解放されなければならないと考えた。
そこで彼は、学問を学ぶための以下の4つの規則を打ち立てた。
1.明晰かつ判明に私の精神に現れるもの以外は判断に取り入れない
「明晰」(clara)とはそれ自体がはっきりしているということであり、「判明」(distincta)とは他のものから明瞭に区別されることを表す。この2つの条件を備えたもの以外を判断の根拠にしてはならない、とデカルトは考えた。
2.対象となる問題を解くために、できるだけ小さな部分に分解する
3.順序に従って思想を導く
最も単純なもの、認識しやすいものから始めて、少しずつ、順序に従って進む
4.完全に枚挙し尽くす
できるだけ見落とすことがないように完全に枚挙し、それから全体に渡る見通しをあらゆる場合に行う
以上の4つの規則に従って「それらの事物を他のものから演繹するのに必要な順序を守りさえするならば、どんな遠くに隔たったものでも明らかになるはずである」として、デカルトは単純な原理から演繹に従って進む姿勢を重んじた。
<参照>
今道(1987)、218-219頁。
3つの暫定的道徳
上記に続く『方法序説』第三部では、実際に生きていく上での3つの道徳規則が打ち立てられている。ただしこれらは暫定的な道徳であり、道徳についての完全な体系が構築されるまでの仮住まいとして考えるべきものであるとされている。
それらは、以下3つの格率(maxim)に分かれている。
1.自分の国の法律と習慣とに服従し、幼い時から教えられた宗教を一応守り続けて生きていく
2.自分の行動において、できる限りはっきりした態度をとる。一旦決心した場合には、それが確実なものであるかのように従い続ける
3.運命によりもむしろ自己に打ち勝つことに努め、世界の秩序よりはむしろ自分の欲望を変えようと努めること
<参照>
今道(1987)、218-219頁。
思惟実体と延長実体
この世の全てを懐疑のふるいにかけたとしても、その思考自体については、内容を問わず私たちは疑うことができない。
というのも、懐疑を遂行することそれ自体が、思考を必要とするからである。思考を排除しようとするときにおいてさえ、私はなおやはり思考せざるを得ない。だから、私は思考する限りにおいて、私は存在するのである。
あらゆる懐疑から守られて、絶対的な明証として姿を現すコギト(cogito ergo sum = I think, so I am. Je pense, donc je suis.)は、確実性と真理性との同一性を示す。明晰にして判明な観念として現れるコギトが、全ての認識を基礎づけ、哲学の真なる「第一原理」となる。
ここに、諸(科)学を基礎付ける準備が整った。科学の対象は、単純かつ普遍的な法則に従う対象であるが、それは<延長>と呼ばれる。<延長>とは、環境の変化によらず留まっている物体そのもののことである。それは知覚可能な物体の性質とは異なり、精神の作用によってしか把握できない。
懐疑する<思惟>—形而上学の対象となる—と、
不変なる<延長>—形而下学/科学の対象となる—が、
この世界の真なる実在である。
<参照>
フォルシェー(2011)、56-58頁。
無限者としての神
あらゆる学知は、<思惟>実体の確実性・真理性(明晰判明な観念として知られる性質)に支えられているが、思惟する<私>はその存在の創造主ではない。<私>はあくまで、思惟実体として真に実在する<私>を見出すだけであって、その存在を作り出すわけではない。
事実、私は不完全で有限な存在である。私の思考には限りがあり、また肉体は数十年で死ぬ。にもかかわらず、そこに完全で無限なる実体がある。だとすると、この実体は、私の外部から到来していることになる。この外部的存在者—完全性・真理性・無限性の創造主—をカルトは「神」と呼ぶ。
神は完全である。完全な存在たる実体をこの世界に創出した。
神は真理である。神は全能ゆえ私たちを欺くこともできたはずだが、あえて真理を創出した。これは神の善性である。
神は無限である。ある特定の瞬間にだけ真理を創出するのではなく、あまねく全ての瞬間に真理を打ち立て続ける。神の善性はここにも現れている。
<参照>
フォルシェー(2011)、59-62頁。
情念論(自由意志と高邁)
デカルトは精神の受動である情念を、自由意志という精神の能動によって支配することを目指している。
受動性から脱した精神の能動性の感受は「内的感動」と呼ばれるが、それは単なる受動的な情念よりも遥かに強く私たちを支配する。名誉や富、健康など、自分の力だけでは意のままにならないものを手に入れることは「幸運」に過ぎないが、知恵や徳といった私たち自身に備わる力を正しく発揮させることで得られる精神の満足にこそ、「幸福に生きる」ことが存すると彼は考えた。
単なる「幸運」を超えた「幸福」に至るためには、自由意志を正当に用いようとする確固不変たる決意を、すなわち自分が最善と判断した事柄を実現しようとする——まさに「徳に従う」ということである——不屈の決意を自己自身のうちに感じることが求められる。
この内的感動が「高邁」(気高さ)と呼ばれ、自己への深い満足、「幸福」を知ることが「知恵の主要な一部」をなす。自由意志は正しく用いられれば、「私たちを私たち自身の支配者たらしめる」。この高邁という徳は「他の全ての徳の鍵であり、あらゆる情念の迷いに対する万能薬」として、情念の完全なる統御を可能にする、最も完全な道徳の果実となる。
<参照>
柘植(2016)、59-60頁。
文献情報
今道友信(1987)『西洋哲学史』、講談社、216-225頁。
柘植尚則(2016)『入門・倫理学の歴史—24人の思想家—』、梓出版社、51-60頁。
フォルシェー、ドミニク(2011)『西洋哲学史—パルメニデスからレヴィナスまで』、川口茂雄・長谷川琢哉訳、白水社、54-64頁。
パスカル
人間は考える葦である
『パンセ』断章347番において、パスカルは次のように述べている。
「人間は一本の葦に過ぎない。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼を押しつぶすために宇宙全体は武装するには及ばない。蒸気や一雫の水でも彼を殺すには十分である。だが、たとい宇宙が彼を押し潰しても、人間は彼を殺すものよりも尊いであろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。
宇宙は何も知らない。だが、我々の尊厳の全ては考えることの中にある。我々はそこから立ち上がらなければならないのであって、我々が満たすことのできない空間や時間からなのではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある」。
人間の行為は機械的に定められているわけではなく、私たちは意志の自由の名の元に行為している。考えることに人間の道徳の根源があり、そこに人間の尊厳がある(後述するように、人間が例え悲惨であるとしても、そうなのである)。
<参照>
今道(1987)、233-234頁。
人間の悲惨
人間は悲惨である。
なぜある時ある場所に自分がいるのかわからないまま放り出されて生が始まる。
やがて人間は、自分がいつか必ず死ぬことを知る。自らが悲惨なものであることを理解する(これもまた悲惨である)。
人間は気を狂わせずに生きるために、この悲惨を深く考えないようにする/忘却する。考えないようにして、「気晴らし」—遊び、狩猟、権力の行使など—に耽る。
哲学者は死の確実さを深く考えない代わりに、自らの理性の絶対性を信じている。しかしこの信仰は傲慢である。理性は理性自身の諸原理すら自らに与えることができないからである。
真に理性的であることとは、理性には限界があることを知ることであり、理性が自足していないのを知ることである。別の言い方をすれば、理性の存在の原理を与える超越者=神に対してへり下ることである。
<参照>
フォルシェー(2011)、68-70頁。
幾何学の精神と繊細の精神
「あらゆる物体、すなわち大空、星、大地、その王国などは精神の最も小さいものにも及ばない。なぜなら、精神はそれらの全てと自身とを認識するが、物体は何も認識しないからである」。
「世の中には物体的な偉大さのみ感心して、精神の偉大さなどはないかのように思っている人々があり、また、精神的な偉大さにのみ感心して、知恵の内にはさらに無限に高いものはないかのように思っている人々がある」。物体の上には、それを認識する精神の偉大さがあり、そのさらに上には、理性の原理を与える無限なる神の偉大さがある。
パスカルいわく、人間の認識は2種類に分けられる。「幾何学的精神」と「繊細の精神」
である。前者が合理的・分析的な認識能力であるのに対して、後者は専ら神への信仰の能力である。
理性と信仰は矛盾しない。むしろ、理性の徹底は神の信仰と一致する。
この点において、パスカルはデカルトと対立する。デカルトはコギトという明証的存在の創造主としての神を認めているが、だからと言って神への信仰が必要だと言っているわけではない。ジャンセニストだったパスカルは、迫害に直面しながらも信仰をやめない人々の生を何よりも尊重し、その価値を説いた。
<参照>
今道(1987)、234-235頁。
文献情報
今道友信(1987)『西洋哲学史』、講談社、232-235頁。
フォルシェー、ドミニク(2011)『西洋哲学史—パルメニデスからレヴィナスまで』、川口茂雄・長谷川琢哉訳、白水社、65-70頁。
スピノザ
自己原因としての神、実体
あるがままの実在から出発しなければならない。
あるがままの実在とは、自己原因(causa sui)、己の原因を自ら積極的に有していることである。
己の原因を自らに内在させていること。これはアクィナスの言葉でいえば、「本質」と「存在者」が一致している、ということである。実在とはまさに、本質と存在が一致するところのものである。
それゆえ、人々が「神」と呼ぶもの、それがまさに「実在」であり、それだけが「実在」である(ライプニッツの多元論、デカルトの二元論と比較して、スピノザの存在論は一元論であると言われる)。
神とは、創造主(デカルト)でも無ければ「摂理」(ライプニッツ)でもない。スピノザは、デカルトやライプニッツのような超越者としての神を否定する。
神とは、唯一で、無限で、普遍で、真に能動的な「自然」である。この「自然」は、実体であって全ての原因であるという点では「能産的自然」と呼ばれ、実在の様態であり結果であるという点では「所産的自然」と呼ばれる(どちらも同一かつ唯一の「自然」である)。
<参照>
フォルシェー(2011)、78-79頁。
物心平行論、属性と様態
実体は唯一、神のみである。従って、デカルトが実体として措定した思考も延長も実体そのものではない。それらはただ、実体の「属性」に過ぎない。
この2つの属性のみが、私たち人間が認識可能な属性であるが、それらだけが属性なのではない。というのも、神は無限なる実体であり、無限な無数の属性によって構成されているからである。
私たち人間は実体の有限な「様態」でしかない。言い換えれば、それ自体による存在を持たない実在でしかないのであり、ただ実体によってのみ存在し、実体によってのみ概念把握される。
あらゆる属性はそれぞれに実体の唯一の保湿全体を包含するのである以上、もはや思考と延長は対置されない。人が思考の次元において把握するもの全ては、その対応物を延長の次元に持つ。これが「物心平行論」である。
<参照>
フォルシェー(2011)、79頁。
存在への傾動(conatus essendi)
スピノザは、人間の認識を3つの段階に分ける。
最初の段階として、想像力の段階がある。これは知覚にほぼ等しい。
次の段階に理性がある。これはいろいろな知覚される対象に共通の性質を抽象的に知っていく力であり、これが学問的認識を可能にして、幾何学や物理学、心理学などを可能にする。
最後の段階に、直観的な知恵がある。これが対象に対する十全な認識であり、前の段階における誤謬を超えた完全な認識である。
認識の段階的発展は、人間が自分自身の完成に向かうことである。私たち一人一人は自己保存の力を持っており「存在への傾動」(conatus essendi)と呼ばれる。この努力ゆえに、私たちは自分の本質たる精神の自由を大切にしなければならない、とスピノザは指摘した。
<参照>
今道(1987)、247-248頁。
神の十全な認識としての神への愛
第三種の認識に到達することで、私たちは自ら自身を概念把握する。そして、身体の永遠的本質を概念把握する精神は、神の十全な認識と、神から帰結する全てのことの十全な認識とを持つことになる。
精神はこうして認識の十全な原因となる。それゆえ哲学者は自己を意識し、神を意識し、諸事物を意識するのであり、言い換えれば完全かつ幸福となる。
対象の十全な認識である第三種の認識は、必然的に神への愛を生み出す。なぜなら神の観念がその知的愛の原因となるからであり、そして愛は外的原因の観念による喜びとして定義されるからである。
<参照>
フォルシェー(2011)、80-81頁。
文献情報
今道友信(1987)『西洋哲学史』、講談社、240-248頁。
フォルシェー、ドミニク(2011)『西洋哲学史—パルメニデスからレヴィナスまで』、川口茂雄・長谷川琢哉訳、白水社、76-83頁。
ライプニッツ
不可識別者同一の原理
どれほどそっくりに見える2枚の木の葉であっても、互いに微細な差異を持つ。全く同一で相互に区別がつかない、二つの個体はあり得ない。水滴や乳滴であっても、仔細に観察すれば、必ず何らかの違いが見出されるはずである。
互いに異なるものは区別される。逆に、相互に識別が不能なものは「同じ」ものである。
これが、一般に「不可識別者同一の原理」と呼ばれる、ライプニッツの思考の基本的な原理である。
<参照>
熊野(2006)、60頁。
モナドと神
ライプニッツは、この世界の個々の存在を存在せしめるような実体について思考した。
全ての存在は何らかの要素の複合体であるが、その複合を分解していくと、それ以上分解できない=部分を持たない実体が存在すると考え、これをモナドと呼んだ(※ここでいう「分解」は自然科学的次元の行為ではなく、形而上学的=論理的な水準での行為である。モナドとはつまり、個々の存在が存在するための根源である)。
この世界は生成変化しているので、モナドは互いに異なっている。では、どのように異なっているか。
そもそもモナドは自然的に発生するものではない(※存在の根源だからである)。
モナドは一挙に生成され、一挙に消滅する。このモナドを司る運動は、この世界に対する超越者の仕事である(※この世界の根源はモナドだが、モナド自身が自らを生成するのは不可能であり、その生成と消滅は、この世界に対する超越者にしかできない)。
この超越者を、ライプニッツは「神」と呼ぶ。
神に起源を持つ個々のモナドは、同一の神を表出している。にもかかわらず個々のモナドが互いに異なっているのは、それぞれがそれぞれの視座から神を反映しているからである。全てのモナドには神が内在しているが、その表出の仕方は置かれた状況において異なる。
<参照>
下村(2005)、55-56頁。
最善世界説
何かが存在することは、それ自体としては偶然である。そうであるならば、偶然的な存在を創造した、それ自身は必然的な存在者が、すなわち「諸事物の最終的な理由」である「神」が存在しなければならない(「理由律」)。
神は至高の完全性であるから、神が創造した諸モナドの世界にはあらかじめ調和が存在し、それはあらゆる可能な世界の中で最善な世界となる(最善世界説)。
<参照>
熊野(2006)、67頁。
自由意志と世界との間の調和
神は無限の分析能力を持つがゆえに、全ての本質と諸本質間の全ての関係の展開を、歴史の終焉まで予見することができる。
ただし、神は予見するのであって、決定するのではない。我々の自由な選択を事前に認識しつつ、神はそうした諸々の選択を予定調和のうちに統合する。人間はと言えば、単に自分にとって最善と思われるものを選択するだけであり、選択や出来事を認識するためには、それが現実存在するのを待つしかない。
<参照>
フォルシェー(2011)、74-75頁。
渾然とした認識
「美学」という言葉を定義したのはアレクサンダー・ゴットリープ・バウムガルテンだが、彼の「美学」思想の背景にはライプニッツの認識論——特に「渾然とした認識」——がある。
ライプニッツ曰く、認識はまず「明晰な認識」と「不明な認識」に区別される。
私たちが、ある概念の表象する事象をそれとして同定し得ない場合、その概念は「不明」になる。他方、そうした同定が可能である場合、その概念は「明晰」であると言われる。
「明晰な認識」は、さらに「判明な認識」と「渾然とした認識」に分けられる。
「判明」な認識とは、ある事象を他の事象から区別するに十分な徴標を分析的に列挙することができることを指す。そうでない場合、その認識は「渾然」と名指される。
「渾然とした認識」の例としてライプニッツは感官の対象を挙げている。私たちは個々の色を明晰に認識し、それゆえにそれぞれの色を区別できるが、その認識は「感官の証拠」によるにすぎず、「徴標」に基づくわけではない。
この区別に基づき、ライプニッツは芸術家の作品の判断は「渾然とした認識」であると指摘している。というのも芸術家は、作品の良し悪しを正しく認識する一方で、その証拠を徴標によって分析的に示すことができないからである。
「理由を示すことができない」ということは、ライプニッツにおいては合理性の欠如を意味しない。むしろ渾然とした認識=感性的な認識には、人間の意識されざる合理性が宿っていると考える。このライプニッツの考えを背景として、バウムガルテンは美の在処を「渾然とした認識」のうちに求めた。
<参照>
小田部(2009)、70-71頁。
微小表象
理由を示すことができない「渾然とした認識」は、知性的な分析ないし反省的な意識が働く以前の表象を含んでいる。ライプニッツはこれを「微小表象」と呼ぶが、それは単に感性的認識や審美的認識のうちに認められるだけではない。
微小表象とは、我々をそのいわば無意識下において宇宙と結びつけるものであり、有限な存在である我々は、微小表象を通じて無限と触れ合っている。
モナドは宇宙全体を、過去から未来に至る宇宙全体を表出するとされているが、それが可能なのはこの「微小表象」ゆえである。
<参照>
小田部(2009)、72頁。
文献情報
小田部胤久(2009)『西洋美学史』、東京大学出版会、67-78頁。
熊野純彦(2006)『西洋哲学史—近代から現代へ』、岩波書店、58-74頁。
下村寅太郎(2005)「来たるべき時代の設計者」『モナドロジー/形而上学序説』(ライプニッツ[著]、清水富雄・竹田篤司・飯塚勝久[訳]、中公クラシックス、2005年)、1-58頁。
フォルシェー、ドミニク(2011)『西洋哲学史—パルメニデスからレヴィナスまで』、川口茂雄・長谷川琢哉訳、白水社、70-75頁。
ベーコン
4つのイドラ
フランシス・ベーコンは、中世スコラ哲学の理性主義的傾向に不満を示し、演繹的三段論法を中心としたアリストテレスの『オルガノン』へのアンチテーゼとして『ノヴム・オルガヌム』を著した。
その開陳に先立って、ベーコンは、人智に宿りその偏見と錯誤を助長する4つの「イドラ」を主張し、実験や観察を行う際はこれらの「イドラ」に注意しなければならないことを説いた。
種族のイドラ
人間の感覚における錯覚や人間の本性にもとづく偏見
洞窟のイドラ
それぞれの個人の性癖、習慣、教育や狭い経験などによって生じる偏見
劇場のイドラ
思想家たちの思想や学説によって生じた誤り、ないし、権威や伝統を無批判に信じることから生じる偏見
市場のイドラ
社会生活や他者との交わりから生じ、言葉の不正確ないし不適当な規定や使用によって引き起こされる偏見
その上で彼は、後世に「帰納法」と言われるものの原型を提出し、経験的観察による具体的事例の収集とそれらを踏まえての自然の一般的法則の抽出を示唆した。
文献情報
金井新二(1998)「経験主義」『岩波哲学・思想事典』、廣松渉ほか編、岩波書店、401-403頁。
ロック
タブラ・ラサ(白紙の状態)
ロックは『人間知性論』の中で、知識を可能にする知性の能力自身を吟味し、知一般が成り立つ範囲と、その限界を確定することを目指した。
この点において、ロックの問題意識はデカルトに非常に近しい。しかしロックの主張は、デカルトの思考と鮮やかな対照をなす。ロックはその主著において、知性にいくつかの「生得的な原理」があるとする考え方=合理主義的観念論を批判した。
医師としても活躍していたロックは、観念論者の主張を以下のように批判している。
「例えばしばしば生得的な原理として挙げられる『存在するものは存在する』、『同じものが、存在すると同時に存在しないことは不可能である』といった命題を、またその根底にあるだろう『等しさ』といった観念を、子どもが胎内から携えて世界へと産まれ出てくるとは思われない」。
人間の心は、言ってみれば「白紙の状態」で生まれてくる。そして一切の知識・観念は経験から得られる。
<参照>
熊野(2006)、49-50頁。
第一性質/第二性質
またロックは、実体の性質を「第一性質」と「第二性質」に区別したことでも知られている。彼は、デカルトが言う「延長」に属する性質だけが実在に対応する性質であると考え、それを第一性質と呼ぶ。他方で、例えば蜜蝋を火に近づけた時に散逸していく甘味、失せていく香り、移ろう色(延長以外の蜜蝋の特性)を第二性質と名付けている。
ロックは第一性質を「本源的な」性質と呼ぶ。それは、それらの性質が「物体自体のうちに実際に存在している」からである。第一性質は、物体それ自体が有する属性の「似像」であるとロックは言う。しかし、第一性質と物体それ自体との類似は、いかにして経験的に確認できるのか。この論点については、のちにバークリーとヒュームによって問題とされることになる。
<参照>
熊野(2006)、52-54頁。
文献情報
熊野純彦(2006)『西洋哲学史—近代から現代へ』、岩波書店、40-56頁。
バークリ
視覚と触覚の相違(『視覚新論』)
バークリーは、最初の著作『視覚新論』において、視覚が与える諸観念と触覚の諸観念との間にある相違点について論じている。
その中で彼は次のように主張している。
生まれつき視覚を欠いた人が、開眼手術によって視覚を与えられたとしても、「最初は、視覚による距離の観念を全く持たないだろう」。対象の接近は確かに、視覚が、たとえば対象像の鮮明さによって示すこともありうる。とはいえ距離は、「固有には触覚に属するのである」。
つまり、目の前に視覚に対して広がっているこの空間が、目を閉じたときに手が触知するあの空間と同一である保証は、経験それ自体の中には存在しない。それどころか、視覚は実際には空間的でない。一切の視覚の対象は「等距離である。あるいはむしろ眼から距離を持たない」。したがって、視覚と触覚は、数的にも種的にも同一でないと考えなければならない。
<参照>
熊野(2006)、81-84頁。
存在するものは知覚されたものである(『人間知性論』)
ロックの場合、観念とは思考の対象一般であるが、バークリーでは概ね例外なく知覚像あるいは想像心像を意味している。このバークリーの言葉の用法に従うと、「速くも遅くもなく、直線的でも曲線的でもない、運動一般の観念」はあり得ない。
また、第一性質と第二性質の区別もまた批判の対象になる。経験によって物体の「観念」は与えられても、その観念の原型となる物体そのものについては、どのような観念も与えられないはずである。それゆえ人は、物体自体の性質について一切知ることができない。
物質は存在しない。少なくとも、観念に与えられているものとしては存在しない。存在するとは、知覚されていることでなのである。「私がものを書いている机について、存在すると私は言う。すなわち、それを見て、それに触れるのである。もし私が書斎の外にいたとしても、私はその机は存在すると語ったことだろう。その場合意味されているのは、もし私が書斎の中にいたとするなら、それを知覚しただろうということ、あるいは他の精神が実際にその机を知覚しているということである。[中略] 存在とは、知覚されていることである。思考しないものが、心の外部、つまりそれらを知覚する、思考するものの外部に存在することは、全く不可能なのである」。
しかし、だとすれば誰も見ていない樹木は存在しないのだろうか。バークリーは、この問いに否と答える。彼によれば、それは「ある永遠的な精神のうちに存在する」。
人々が物体的な世界と考えるものはただ、神が知覚するもの、神の観念としてのみ存在する(それゆえ、誰も見ていない樹木が存在しないことにはならない。それは「ある永遠的な精神のうちに存在する」)。私が現に世界を知覚している限りで、世界は存在する。
<参照>
熊野(2006)、87-89頁。
文献情報
熊野純彦(2006)『西洋哲学史—近代から現代へ』、岩波書店、76-90頁。
ヒューム
類似、近接、因果—「観念連合」
バークリは、純粋に思考の対象でしかないような抽象観念の存在を批判し、ロックが「観念」と呼んだものを(直接現前する)知覚像と(想像・想起される)想像心像に限定して捉えた(「存在するものは知覚されたものである」)。
この区別を、ヒュームは更に「印象」と「観念」の差異として考え直している。バークリの「知覚像」が「印象」にあたり、「想像心像」が「観念」に当たる。
例えば目の前にあるリンゴの赤さは、勢いよく眼に飛び込んでくる。それは生き生きとした現在の「印象」である。
これに対して、想起されたリンゴ、「リンゴ」という言葉によって喚起されたその像、一般にリンゴの観念は、どこか曖昧で生気に乏しい。それは第一次的な知覚、印象の「淡い像」である。とはいえ、「印象」も「観念」も共に知覚である限り、双方を隔てる基準は知覚に内在していなければならない。「勢いと生気」という内的な徴でなければならないのである。
従って、ヒュームの言う観念は(ロックとは違って)決して「抽象観念」ではない。観念は観念である限りで特殊なものであるけれど、「他を代表する」ことで一般的なものとなる。それは、特殊的な観念が「一般名辞 general term」と結合されるからに過ぎない。そこに存在するのは単なる「習慣的な連結 customary conjunction」である。
観念と観念は、想像力の働きの中で、緩やかに接合される。そこには大きく分けて3つの規則がある。すなわち「類似」、「時間あるいは場所における近接」、「原因と結果」である。
<参照>
熊野(2006)、93-97頁。
習慣、信念—「因果関係」批判
原因と結果の結びつきは、第一に対象の近接性を必要とする。そして第二に、原因が結果に対して先行しなければならない。そして第三に、「必然的結合」が求められる。これはア・プリオリな存在ではなく、一つの「印象」である。「近接と継起という規則的な秩序」、「恒常的な連結」が、必然性の印象を産む。
いわゆる因果的な推論は、心の「習慣」による。二つの事象が、繰り返して接近して継起するのを知覚する結果、事象の間に必然的な関係を想定するように習慣づけられた、想像力の働きによるものである。その点で、因果関係は習慣に由来する「信念」の関係である。
<参照>
熊野(2006)、97-101頁。
道徳感覚
道徳的区別は理性から引き出されるのか、それとも感覚から引き出されるのか。
この問いに対してヒュームは「道徳は行為に直接的に影響する。それゆえ道徳的区別は情念から引き出されている」と解答している。
では、その道徳的区別——ある性格(感情、行為)が有徳とされたり、悪徳とされたりするのはなぜか。それを見ると、特定の種類の快楽や苦痛が生じるからである。徳を感じることは、ある性格を眺めて、特定の種類の満足を感じることに他ならない。
道徳的区別を引き出す感覚を「道徳感覚」と呼ぶが、それは「共感」によって生じている。
共感とは、感情が人から人へ移ることであり、具体的には、観念が印象に変わることによって、感情が伝わることである。
例えば巧みに仕事をする人を見ると、私は敬意を感じる。ここでは、その相手の人の幸福に対して私が共感している。このように、共感は道徳的区別において不可欠であり、その意味で「道徳的区別の主要な源泉」である。
だが共感は変わりやすい。あらゆる人は特定の立場にあり、特定の観点からしか道徳判断できないとすれば、我々は分別を持って交際することさえできない。
そこで我々は、「不動で一般的な観点」を選び、現在の位置がどうであっても、考えるときは常に自分をその観点に置くのである。この一般的な観点や基準を取ることによって、道徳的区別はより正確になる。
<参照>
柘植(2016)、83-93頁。
趣味の二律背反
審美的判定能力である「趣味」(※いわゆるhobbyではなく、英語のtaste、フランス語のgoût、ドイツ語のGeschmackのような「味わうこと」「嗜好」の意味に近い)の基準の存在を巡って、ヒュームは1つの二律背反を提示している。
趣味は、実在する事物の性質に対する判断ではなく、「対象と精神の器官ないし能力の間のある種の適合」に過ぎず、それゆえ趣味は個人ごとに異ならざるを得ない。これは私たちの「常識 common sense」に照らして正しい。
他方で、「常識」は優れた作家と劣った作家を区別し、趣味の優劣を認める。従って、「常識」は「趣味の自然本来的同等性の原理」を全く忘れて、趣味の「基準」を暗黙のうちに肯定している。
この二律背反——「常識」に照らして、「趣味の基準は存在する」という判断と、「趣味の基準は存在しない」という判断が同時に成立すること——の解消が、ヒュームの課題となる。結論から言えば、ヒュームは趣味の基準の存在を肯定しているのだが、それは単に後者の「常識」判断の追認ではない。
確かに、作文や詩が従うべき趣味の基礎を、客観的・普遍的な推論によって導くことはできない。しかしだからと言って、趣味の基礎の存在が否定され尽くすわけではない。というのも、趣味の基礎は私たちの内的な経験、人間本性に共通の感情の観察に基づいているからである。人間本性の内的普遍性があるがゆえに、「2000年前にアテナイとローマで人々を喜ばせたのと同一のホメロスが、なおパリとロンドンで賞賛される」ことになるとヒュームは考えている。
だが、「人間の感情はあらゆる場合にこれらの規則に適合している、などと想像してはならない」とヒュームは注釈をつける。
ヒュームは、いわゆる懐疑主義のように、趣味の多様性を一種の相対主義としてそのまま肯定するわけではない。むしろ趣味の基準を認めた上で、その基準からの逸脱の数だけ趣味は多様に存在すると考えている。
趣味の基準の存在を確かめつつ、趣味の多様性も擁護する形で、ヒュームはこの二律背反の解消を試みた(しかし、これはのちにブルデューやガダマーによって批判されることになる)。
<参照>
小田部(2009)、103-107頁。
文献情報
小田部胤久(2009)『西洋美学史』、東京大学出版会、103-115頁。
熊野純彦(2006)『西洋哲学史—近代から現代へ』、岩波書店、92-106頁。
柘植尚則(2016)『入門・倫理学の歴史—24人の思想家—』、梓出版社、51-60頁。
カント
認識論におけるコペルニクス的転回
ヒュームを読んで「独断の微睡」から目覚めたというカントは、従来の哲学がなしてきた独断的形而上学を回避しつつ、何についても正しい判断ができないような徹底した懐疑論にも陥らない新たな学究の道を構想した。
その道—「認識論におけるコペルニクス的転回」と呼ばれる—とは、普遍的な客観から主観を基礎付けるのではなく、主観の側に、客観自身では基礎づけられない客観性の前提を見出すというものである。
言い換えれば、勇み足で認識されたもの(外在)の客観性を考察するのではなく、そもそもの認識の可能性(内在)に立ち返ることで、客観の客観たる所以を検討すべきだとカントは考えていた。
物自体と現象
認識論におけるコペルニクス的転回において重要になるのが、「物自体」と「現象」の区別である。人はものを、ありのままにではなく、私たちに現れる仕方に従って認識する。つまり私たちが知りうるのは、現象に限られる。
ありのままのもの=「物自体」に対する知は不可能であり、そこに至ろうとする知は理性の越権的使用であり、旧来の形而上学における独断論に転落してしまう。それゆえに、認識可能な現象とそうでない物自体との区別は、カントの批判哲学において最も重要な態度になる。
<参照>
柘植(2016)、114頁。
直観の形式としての時間・空間
今、あるところに赤い色が見え、別の場所に青い色が見えるとしよう。あるいは、あるとき鐘の音が聞こえ、間隔を置いてもう一度音が響いたとする。この経験においてすでに、あるところとは別の場所が区別されており、またある「時」ともう一つの「時点」が識別されている。
このような区別を可能にするのは、経験には由来せず、かえって経験自体を可能にするア・プリオリな形式である。
私がここにあり、対象がそこにあって、感覚が私の外部に生じていると語るためにも「空間の表象が既に根底にある」ことが必要になる。また、互いに継起する現象が経験されるのに先立って先後関係を可能にする、時間の表象そのものは「経験から引き出される」ことができない。それゆえ、空間と時間は、対象を受容する「感性の主観的条件」であり、現象一般の「ア・プリオリな形式的条件」となる。
時空がア・プリオリな直観形式であることによってあらゆる知覚経験が成立するわけだが、「空間と時間において直観されるもののすべて、従って、私たちに可能な経験の一切の対象は、単なる現象に過ぎない」。時空が経験的認識を可能にするものである以上、それ自体として見られたもの、「物自体」については、そのあり方が経験的には決して認識されないことになる。
<参照>
熊野(2006)、129-130頁。
カテゴリー(純粋悟性概念)
カントは、実体も因果性も悟性が感覚の多様を秩序づける枠組みであって、悟性概念であると考える。悟性による総合は必ずその概念を経由するがゆえに、経験に先立ち、経験を可能にする悟性概念=純粋悟性概念は、認識の普遍性と必然性を、つまりは「客観性」を保証する。
カントは、純粋悟性概念を、アリストテレスに従って「カテゴリ」と名付ける。
カントの挙げる純粋悟性概念は以下の通りである。
量(単一性、数多性、総体性)
質(実在性、否定性、制限性)
関係(実体性、因果性、相互性)
様相(可能性、現実性、必然性)
<参照>
熊野(2006)、131-133頁。
超越論的統覚
対象の認識は、感覚の多様が統一されることで成立する。しかし、多を一とするためには、究極的な「一」が設定されなければならない。この「一」を与えるのが、私の意識が一つのものであること、その超越論的な統一である。
「私は考える」が私の表象の一切に伴わねばならない。仮にそうでないならば、「表象は不可能であるか、私にとっては少なくとも無であることだろう。この意識の純粋で根源的な統一を、カントは「超越論的統覚」と呼ぶ。
<参照>
熊野(2006)、133-134頁。
アンチノミー
カントは、「物自体」を認識の対象としてきた伝統的な形而上学を前提とした場合に生じる二律背反を、以下の通り4点に渡って指摘している。
世界は、有限であるとも無限であるとも語ることができない。
時間と空間は、独立した存在ではなく、私の感性の形式である。したがって、独立して存在するものとして世界を語ることはできない。
世界は、単純なものとその合成物から構成されるとも言えないし、単純なものは存在しないとも言えない。
世界の構成事物が有限か無限かという問題は、世界が空間であることを前提にしているが、空間は感性の形式の一つであり、空間それ自体が実在するわけではない。
世界には自由があると主張することが可能であり、同時に一切は自然法則に支配されていると主張することもできる。
現象界の秩序は原因-結果の連関から構成されるので、その点で世界は自然法則に支配されていると言える
一方で、人間の理性からなる行為の次元においては自由が存在しうる。私たちは必ずしも自然現象の法則に基づいた行動をとるわけではない。その秩序から独立した理性の法則に則って行動できる
世界には必然的な存在者が存在するとも言えるし、必然的存在者が存在しないと言うこともできる。
<参照>
熊野(2006)、137頁。
定言命法の格率
絶対的に善いものは「善意志」だけである。もし使用者の意志が悪であれば、どれだけ素晴らしい富も名声もまた悪になってしまうからである。
この善意志は「義務」という形で認識される。善意志とは「是非とも〜〜したい」という心の働きではなく、「〜〜しなければならない」と思う心である。
義務概念の分析は、行動の主観的原理である「格率」を通じてなされる。格率とは、「嘘をつくな」「他人を助けよ」など、ある特定の行動を導く規則である。
格率は、「仮言命法」と「定言命法」に分類できる。
仮言命法は、ある条件のもとに成立する規則である。カントいわく、仮言命法は、究極的には自分の利益や幸福のためになされる命令である。他方、定言命法は、利益になるかどうかに関わりなく、普遍的に成立する規則である。
それゆえ、義務的な行為の格率は、定言命法として表されなければならない。
<参照>
柘植(2016)、115-116頁。
格率の普遍化可能性
定言命法として示される格率は、「普遍化の方式」によって構築される(「君の格率が普遍的法則になることを、当の格率によって同時に欲しうるような格率に従って行為せよ」)。
同時に、その格率が普遍性を持ちえないなら、それは道徳的に正当な法則とは認められない。例えば「嘘も方便」という格率は、全ての人が嘘をついた場合に社会的生活が成立しなくなるので、普遍性を欠いており、道徳的に正当な法則とは認められない。
またカントは、行為の手段-目的という観点から、道徳法則の別の形式を提示している。
いわく、「自分自身の人格及び他の全ての人の人格における人間性を、決して単に手段としてではなく同時に目的として扱うよう行為せよ」。
人間の人格は、それ自体が至上の目的であり、他の目的の手段にしてはならない(カントはこの絶対的価値を「尊厳」と呼ぶ)。
<参照>
柘植(2016)、116-118頁。
自律としての自由
定言命法としての格率は、自分以外が生み出すいかなる原理とも一切関わりなく、それ自体で、無条件的になされるべき義務を提示する。カントはこの事態を、医師の「自律」(Autonomie)と表現する。
人間は自然的存在者であり、その点で自然の法則に従わねばならないが、意志の次元においては「自律」という形での「自由」の可能性が開けている。
<参照>
柘植(2016)、118-119頁。
永遠平和のための予備条項
道徳の根拠づけを行った後、カントは『永遠平和のために』に置いて、戦争の発生をなるべく抑えるために諸国家が守らなければならないルールとして、次の6つを挙げている。
将来の戦争を見越した休戦協定の締結の禁止
他国との統合の禁止
常備軍の廃止
戦費のために国債を発行することの禁止
内政不干渉
暗殺やスパイといった非人道的な手段の禁止
カントは、国家間の紛争に裁定を下す法廷が存在しない場合、いわば国家間の自然状態においては戦争が許されるが、それでも諸国家はこれらのルールを守らなければならないと考えている。
<参照>
柘植(2016)、120-121頁。
永遠平和のための確定条項
上記予備条項を踏まえ、平和が単なる休戦状態ではなく、戦争を永遠に放棄した「永遠平和」の状態となるためには以下の3つの条項が必要であるとカントは指摘する。
共和制の確立
共和制においては、自らの意志で戦争に参加する人しか戦場にいないようになるので、必然的に戦争の数が減る
国家連盟の設立
他国との衝突は、戦争ではなく、複数の国家によって設立された国家連盟での裁定を通じて解決しなければならない
植民地活動の禁止
人は自国以外の土地を訪れることが(拒否されない限り)許されるという「訪問権」を有するが、その土地を勝手に所有してはならない
カント自身、これらの政治的体制の実現が極めて困難であることを認めつつ、それでもなお、理念として希求されなければならないと述べている。
<参照>
柘植(2016)、121-122頁。
趣味判断
カントは『判断力批判』において、美的判断(あるものを美しいとするか否か)は、結局理性的認識ではなく趣味判断であると述べている。
カントは趣味判断としての美的判断を、質・量・関係・様相の面から性格づけている。
美的判断によって得られる美という快さは、人間の本能的な傾向性によって束縛されるものではなく、また理性的な尊敬の念によって命じられるものでもなく、ただ人に気に入っているところの満足として、全く規制するもののない自由な遊びの状態である(「質」の問題)。
美的判断の対象は個物なので、量は単称になる。しかし、単称判断の妥当領域がある程度普遍的ではあるが限定的でもあるので、主観的普遍性を持つ。
また絵画作品を鑑賞するとき、そこに一本余計な線が加わるだけでも、絵の完全な合目的性が失われたように感じる。そうなると美は、ある種その対象の合目的性の形式なのではないかと考えられる。
またその合目的性は、必然性を持っていなければならない。美しいとは、目的の表象・概念無くして、しかしそれがこういう構造を持っている以上は美を感じざるを得ないという必然性を認めることになるようなものである。
崇高
カントが、いわゆる神の存在論的証明を批判したことはよく知られている。しかし、神の理念はカントにとって無意味なものではない。端的に無条件な存在、一切の条件を超越した存在者は、条件づけられたものの系列をその果てまで歩み抜こうとする理性にとって、むしろ不可避のものである。
理性はその本性上、自らに与えられた課題を突き進み、ついには思考それ自体の底知れない裂け目へと到達する。それは「人間の理性にとって、本当の深淵である」。
理性の深淵の中で、回答のない問いかけが反響している。このことこそが、世界の中に姿を表すことのないもの、神が不在のままに現れる形であり、世界における神の痕跡なのである。
隠れた神としての神は、「崇高なもの」として現れる。崇高なものとは、「構想力にとって法外なもの」であり、「いわば一種の深淵である」。決して完結することのない無限なものとは、理性の理念を巡って断じて自然のうちに現前することがない。自然はしかし、時にその莫大さ、強力さにおいて無限なものを表示している。「自然は、それを直観することが、自然の無限性の理念を伴っているような自然の諸現象において崇高なのである」。自然の計り知れなさ、自然の到達不可能性が「理念の提示」になる。提示されないものの提示、提示することの不可能性による提示になる。
<参照>
熊野(2006)、138-142頁。
文献情報
小田部胤久(2009)『西洋美学史』、東京大学出版会、131-146頁。
熊野純彦(2006)『西洋哲学史—近代から現代へ』、岩波書店、124-146頁。
柘植尚則(2016)『入門・倫理学の歴史—24人の思想家—』、梓出版社、113-122頁。
ルソー
人間不平等起源論
人間は、その自然状態においては、「自己保存」と「憐れみ」という2つの情念だけを持っている。この状態では人間関係が成立しておらず、それゆえ道徳判断も存在しない。
この自然状態において、人間は平等に自由である。しかし、人間が定住して他人と関係を持ち始めると、他人との比較を通して、「自己保存」の情念が「自尊心」に変わり、やがて虚栄心や嫉妬を生み出す。これらの事態が、不平等や悪徳の起源である。
次いで、財産の私有が始まる。財産の私有が認められるようになると、貧富の差がますます拡大し、人々は自らの利権をめぐって戦争を行うようになる。富めるものにとって戦争はリスクであるので、国家や法の制定によって戦争を回避しようとするが、その国家や法は富めるものに利するものなので、不平等はどんどん拡大していく。
そうした社会において人間は、自分の欲望を他者からの評価を重んじるようになり、自分の「存在」と自分の「外見」を乖離させるようになり、「徳なき名誉、知恵なき理性、幸福なき快楽」だけが追求されるようになる。
こうして人間は、自由で平等な存在として生まれたにもかかわらず、支配/隷属と不平等の中に生きることになる。
<参照>
柘植(2016)、95-97頁。
一般意志に基づく社会契約論
以上を踏まえルソーは、「どうすれば、社会は人間を疎外せずにいられるか」「どうすれば、社会に属する人間が、それでもなお自律し・自由で・平等でありうるか」を考え、この課題に対する答えとして「一般意志に基づく契約の締結と、その契約に基づく国家=共和国の成立」を提示した。
ここでいう契約とは、「全員の意志を一つにして(一般意志)、共同体全体の公益を目指し、各構成員が自分の一切の権利と共に自分を共同体へ完全に譲渡=疎外すること」である。
この契約が締結されれば、人々は自らの意志(全員の意志と一致する一般意志)に従いつつ—つまり自律し・自由でありつつ—、全ての人が自らの権利を共同体に譲渡している点で平等になる。この契約の締結によって成立する共同体をルソーは「共和国」と呼び、共和国の実現には、人間にとっての「契約」の価値を人民に説く「啓蒙」が必要であると論じた。
ルソーが唱えた「一般意志」は、特殊意志と乖離する場合にその特殊意志を一般意志に従わせるという点で、全体主義的なのではないかという批判が寄せられた。しかし、一般意志への従属は個人の意志に基づいて行われるので、厳密には「従わせ」ているわけではない。むしろ個人の側から「従おうと」している。
また、「一般意志はどうすれば見出せるか?」という問いについて、ルソーは「十分に情報があること」と「徒党を組まないこと」の2点が必要であると論じている。十分な情報がなければ、人は自分に固有な意見を形成することができない。また、1つの党派に与する人が多ければ多いほど、意見の種類の数は減少し、偏りが生まれる。それゆえ、仮に党派を組むとしても、できるだけ少人数で、かつ党同士が独立して存在するようにすべきである。
<参照>
柘植(2016)、97-99頁。
人民主権
ルソーにとっては、主権とは一般意志を行使することである。そして全人民による全人民の取り決めが「法」であり、法の制定は一般意志の具現化である。さらに立法権は主権者としての人民にのみ存する。従って、この「法」によって統治される国家は必然的に共和国になる。
またルソーは、立法権と執行権の違いに注意を払っている。立法権は主権者である人民に属する政治体の意志であり、執行権は政府に属する政治体である。
ルソーは、政府を「民主政」「君主政」「貴族政」の3種類に分けている。民主政では、人民の全員が政府の構成員になるので、現実的でない。君主政では、政府が主権者である人民に逆らう危険がある。貴族政は活動が迅速であり、人々に必要とされる徳が少なくて済む。それゆえ彼は、この3種の機能を果たすような政府が望ましいと考えている。
<参照>
柘植(2016)、99-100頁。
エミールの教育論
教育哲学において、ルソーは「子供を発見」したと言われている。彼は、小さい大人として子供を捉えるのではなく、子供に固有なあり方を見出し、その年齢や発達段階に応じて教育することの重要性を説いた。
ルソーによれば、人間は生まれつき善良である。教育は、この本源的な善良さが成長過程で変質しないように導くべきである。(→消極的教育)
また、自己愛は人間の自然な傾向であるが、同時に、人間には正義を求める心や不正に憤る心、善悪を判断して善を愛させ悪を憎ませる「良心」が生まれながらに備わっている。
さらに、善行は快いものであり、自分が善良な者であるという確信は自分に対する満足感と喜びをもたらす。
そして傲慢と卑屈の双方が戒められ、自暴自棄にならずに生きるためには、自己尊重が重要であり、弱い存在である人間同士が慈しみ合うためには、憐れみが重要である。
このように『エミール』で描かれている人間は、自分と他人を共に尊重し、善行に喜びを見出し、他人の幸福を願い、他人の不幸を憐れみ、善や正義を愛し、悪や不正を憎み、善良で有徳で幸福に生きる。そのような生き方は、あるべき人間の生き方の一つであろう。
<参照>
柘植(2016)、100-102頁。
言語起源論
原初の言語は「自然の叫び声」であった。コンディヤックはことばの起源を論じるにあたって「情念」にも言及するが、その知識論では「欲求」が大きな役割を果たしている。彼は「自分自身の中で生起していることを人間に初めて意識させ、それをまず身振りで、やがて名前で表現する機縁を与えたのは欲求である」と論じている。
これに対してルソーは、「最初の欲求の自然な結果は、人間を互いに遠ざけることであり、近づけることではなかった」と考える。言語の起源は欲求ではなく情念であり、飢えでも渇きでもなく、愛であり憎しみであり、共感であり怒りである。
<参照>
熊野(2006)、117-118頁。
文献情報
熊野純彦(2006)『西洋哲学史—近代から現代へ』、岩波書店、116-119頁。
柘植尚則(2016)『入門・倫理学の歴史—24人の思想家—』、梓出版社、97-102頁。
フィヒテ
事行
カントによれば、超越論的統覚は純粋悟性概念の、つまり「カテゴリーの可能性の根拠」である。
「私」についての概念を獲得しようとすれば、常に私という表象を用いなければならない。
ここに困難が生じる。自我に対する反省から自我を発見する必要がある。他方で、自我が自我として既に存在していたのでなければ、反省は自我を見出すことができない。
自己意識を意識するとき、「私が私自身にとって客観」となっている。自己意識の成立を説明するためには、さらにそれを説明する主観が必要となる。以下、その説明の道程は無限に継続することになる。
この困難についてフィヒテは、『全知識学の基礎』において、「自我は、根源的かつ端的に、自己自身の存在を定立する」という「第一根本命題」を唱えた。
問題の無限後退を支えている前提は、「一切の意識において、主観と客観が互いに区別されている」ということだった。この前提のもとでは、「私が私を意識している」という自己意識の事実が解けず、自己そのものの成り立ちも説明不可能になる。
そうであるならば、「そのうちで、主観的なものと客観的なものが全く分離されず、絶対的に一にして同一であるような一個の意識が存在する」ことが認められなければならない。
『全知識学の基礎』においてフィヒテが説く「事行」とは、そのような、作用とその結果が同一であるような意識である。フィヒテはその意識を改めて「主観-客観」と呼んだ。
同様にして、矛盾律=Aは非Aではないという命題から、第二根本命題が導出される。「自我に対して端的に非我が定立される」。また、第三根本命題はこうである。「自我は自我において、分割可能な自我に対して、分割可能な非我を反定立する」。
ここに、自我以外の理性的存在者=他者が明示的に登場し、ヘーゲルの承認論へ継承されていくことになる。
文献情報
熊野純彦(2006)『西洋哲学史—近代から現代へ』、岩波書店、149-154頁。
シェリング
同一哲学
他の知識を介して到達される知識は「制約された知」である。知が一般に可能であるためには、それ自体として制約されていない知が存在しなければならない。
制約するとは、あるものがそれによって客観的事物となる作用を指す。したがって、無制約的なものとは、決して客観とはならない絶対的な自我以外ではあり得ない。「自我は一切の実在性を含んでいる。自我は無限である」と論じるシェリングは、フィヒテを越えてむしろスピノザに接近する。
シェリングにおいては、スピノザの言う「所産としての自然」が切断され、「能産としての自然」だけが残されて、自然哲学が超越論的哲学と縫合される可能性が生まれる。彼の同一哲学の課題は、自我と自然の、主観と客観の「絶対的な合一性」を構想することとなる。
『超越論的観念論の体系』において彼は、「絶対的に合一なもの」の実現を芸術に託していた。絶対的に合一なものを客体として有する直観を、シェリングは「知的直観」と呼び、知的直観を対象的に実現するものは芸術それ自体であると論じた。
他方、『私の哲学体系の叙述』では、「主観的なものと客観的なものとの全き無差別」である「理性」を認め、哲学が理性の立場に立つことを承認している。美的観念論者とも言われるシェリングは、この段階で美の理想と一度決別している。
絶対的なものが絶対的である限りで、絶対的なものの他に哲学の立場は存在せず、理性こそが「絶対的なもの」なのである。
文献情報
熊野純彦(2006)『西洋哲学史—近代から現代へ』、岩波書店、154-158頁。
ヘーゲル
即自/対自
哲学は絶対性を目指す。では、絶対性はどこに現れるか。
絶対の絶対たる所以は、その必然性にある。必然性は理性的思考の中で見出される。
それゆえ哲学においては、思考の方法(理性)と思考の対象(絶対者)を分けて考えることができない。思考の対象は、常に思考の方法に宿る。
絶対者についての思考は、言い換えれば私たちの思考に対する思考である。
哲学的思考は、どんなものであれ何らかの前提を必要とする。絶対者に至るためには、あらゆる思考の前提が証明されなければならない。それゆえ、哲学的思考は一つの円環を形成する。
自我の直観から始まり、その正しさを検証する無限のプロセスを経て、最終的に自我自身に戻ってくるような円環。今、ここに存在している自我(即自)を、自我として再び知ること(対自)。哲学の方法/内実=絶対者は、この円環である/にある。
<参照>
フォルシェー(2011)、111-112頁。
弁証法—存在、理念、自然、歴史
思考するということを開始するに当たって、絶対的ロゴスの只中での存在・本質・概念のあらゆる諸々の規定の内在的産出を明らかにすることから始めるというのは論理的(logic)である=ロゴスに適っている。宗教的に言えば、《論理学》とは「世界と有限精神とを創造する以前の神」を提示することである。そして哲学的に言えば、論理学とは「即自的かつ対自的な《理念》についての学」となる。
存在は『論理学』の最後の言葉ではなく、最初の言葉である。
その無媒介的な未規定性においては、存在は未規定な無であり、識別不可能なものである。
規定は関係を要求する。換言すれば、本質についての自己反省を要求する。
神はある一つの概念なのではなく、厳密な意味における《概念》そのものである。《概念》は否定の否定であり、本質であり、自己による自己の定立である。従ってそれは絶対的自由、言い換えれば、他者を定立し、その他者を自己へと再び還帰させる絶対的自己-規定の作用である。
その点において絶対者たる神は《主体》である。《主体》としての絶対者の生は、《概念》において顕現するのである。
『論理学』において人はまだ、概念と客観性の統一として定義される絶対的《理念》に留まっている。完全なる体系において、《理念》は自己の外へ出て、他者のうちへと自らを疎外し、そして《精神》となって自己のうちに再帰する。
これは神学的性質を持つ構造である。《父》は《息子》を自らの他者として生み出し、《聖霊=精神》の調停的運動によって《息子》を自らのうちに再回収する。被造物としての我々の世界は、《理念》が自らを疎外する運動の帰結である。《理念》の空間における疎外が《自然》であり時間における疎外化が《歴史》である。
絶対的《理念》はロゴスとして自らを思考し、自らを疎外して、最後に《精神》として自らを完成する。それ自体としては=即自的には、絶対《精神》は常に永遠に和解している。しかしながら、被造物の世界から考察された場合、絶対《精神》は自らの内的運動を構成する諸形態に生気を送り込みつつ自己を探究していく途上にある。
人間的意識の道のりは、意識が探し求める真理とは決して等しくならない諸々の確実性を継起的に経由しながら、様々な形態を次々と通過していく。それは、主人と奴隷の弁証法のような、懐疑と絶望に満たされた弁証法的道のりとなる。
他方、キリスト教の啓示では、順序が全く逆になる。啓示においては、絶対的真理は人間たちに委ね渡されているのだが、それに対応する確実性の方は欠如している。真理と確実性とが合流するためには、意識が絶対知へと到達しなければならない。絶対知とは、概念化作用と直観作用が同一となる場である。
この最終形態としての絶対知は、至福のヴィジョンの映し絵であり、その射程は終末論的なものとなる。
<参照>
フォルシェー(2011)、113-116頁。
人倫
弁証法の形式に従って<絶対知>を展開したヘーゲルは、人間の善「人倫」について、以下のような正→反→合の流れで論じた。
客観的善とは何か。それは客観的な「法」、主観的な「道徳」、そして両者を止揚する「人倫」という3つの段階において展開するものである。
まず法は、「抽象的な権利」とみなされる。すなわち法は、自由な意志が物件に関わることによって「所有」として現れ、これを媒介に「契約」や「刑罰」という形態をとるようになる。
次に、意志が外にある物件ではなく自分を対象として意識するとき、道徳が成立する。
人々は、自ら決定して目的を実現する。この段階では善は、主体が自分自身のうちで知るものであり、それのみが善である。だが当人の知る善が、現実に客観性を持つとは限らない。
客観的善を知るためには、道徳から人倫への展開が不可欠である。人倫は、共同体の制度や掟として現実存在する。人倫は、様々な原則や義務が個々人の単なる意見を超えて存在するという客観的契機と、それらが主体によって担われるという主観的契機を併せ持つ。
<参照>
柘植(2016)、130-131頁。
家族/市民社会/国家
ヘーゲルは人倫を、「家族」「市民社会」「国家」という3段階の共同体に従って説明している。
家族は、夫婦と親子という自然的関係であり、愛を原理として成立する。この段階において自己は他者と一体のものとして感じられているが、子供は親からの教育を通して自立した主体となり、市民社会へ参与するようになる。
市民社会は、自立した個人が共に生活する場である。人々は欲望を持ち、それを充足するために、労働をしてその成果を他の人々と交換する。欲望を媒介とした共同体である市民社会は、本質的に欲望の体系である。
欲望を媒介とした市民社会では、個々の欲求によって、様々な対立や不平等が生じる。これらを調停する存在として、国家が立ち現れる。個々人は国家の一員となることによって、自立した主体でありながら、他者と共存し秩序だった社会に生きることができる。そこで主体は、欲望に従う存在としてではなく、国家の普遍的な法則・原則に従う存在として完成されている。
主体が国家の成員として存在することで、人倫が現実存在として完成するとヘーゲルは考えた。
<参照>
柘植(2016)、131-132頁。
文献情報
柘植尚則(2016)『入門・倫理学の歴史—24人の思想家—』、梓出版社、123-132頁。
フォルシェー、ドミニク(2011)『西洋哲学史——パルメニデスからレヴィナスまで』、白水社、111-118頁。
キルケゴール
単独者となること
実存とは何か。それは、無限なものと有限なもの、永遠的なものと時間的なものとの間に生まれた子供であるとキルケゴールは言う。
実存とは、キリスト教的には永遠と時間の両方に関わりながら存在するのみならず、罪ゆえに「絶対的差異」によって神から隔てられており、にもかかわらず神が人となるという逆説と、超人キリストによる贖罪を通じて、罪の赦しという恩恵の手を神から差し伸べられる、そんな存在である。
実存へと開かれるとき、人は自らの抹消不可能な罪に苦しむ。そこで人間は、神が人となったという歴史的出来事に自らの永遠の幸福を賭ける可能性=キリスト教的実存として<実存>する可能性に開かれる。
<実存>する主体的思考者は、実存する者として自己自身の思考に本質的に関与し、その思考のうちに実存する。
その内面的反省は、主体的思考者の二重の反省である。実存者は、「キリスト者になること」とは一般にどういうことか、「罪」「逆説」「赦し」といった概念を用いて普遍的次元で思考しつつ、この私の罪が超人キリストの贖罪によって赦されるとはどんな事態なのかなど、普遍的次元の思考を我がものとする思考にも携わる。
それゆえ主体的思考者は神とただ一人で向き合うことになり、孤立を深める=「単独者」となる。
<参照>
鈴木(2022)、72-76頁。
実存の三段階
哲学は真理を求める。だが、哲学が私たちにとって意味あるものになるには、「真理の自己化」が必要である。
真理の自己化は、以下の3つの段階を辿る。
最初に、真理の現れを垣間見て享楽する段階(美的段階)がある。
次にその現れを維持する/固定化しようとする段階(倫理的段階)があり、
真理の体現である神を己の中に見出して—質的に絶対的に異なるはずの神が受肉して現れるという矛盾が生じており、その矛盾に直面してなお情熱を持って信仰を決断し選び取って—神に無限の信仰心を持つとき(宗教的段階)、人は自らの実存を自覚して神の前に立つ「単独者」として生きることができる。
<参照>
フォルシェー(2011)、122-123頁。
不安の概念
実存の不安とは、根本的に、神の意志により現実にこの世に存在するようになった実存を、神的なもの=永遠的なものとこの世的なもの=時間的なものの総合である精神と見た場合の、その精神の自由、その総合のあり方が人間に委ねられていることからくる自由の可能性の現れである。
不安は大きく2種類に分けられる。
1つは、その不安の中で個人が質的飛躍によって罪を定立する不安である。これは人間に自由の可能性とともに自覚させられる罪であり、その罪への意識とともに精神としての生が始まる(「自由の可能性をアダムに目覚めさせるからこそ、禁断は彼を不安に陥れる」)。
もう1つは、罪とともに入り込んでいる/くる不安である。
人間は精神の可能性に目覚め、キリスト教的な罪という概念にリアリティを感じるようになったとしても、いつでも罪を犯してしまうという可能性を前に不安を感じる。
さらに、その可能性に目覚めながらもかえって悪の中に止まることもあり、その場合には自由の回復、贖い、救いといった可能性を前に不安を感じる。
不安は最終的に「信仰により救うものとしての不安」に行き着く。「不安は自由の可能性であり、この意味での不安だけが信仰の力により絶対に育成的なのである」。
<参照>
鈴木(2022)、22-23頁。
死に至る病
『死に至る病』においてキルケゴールは、人間の自己を、『不安の概念』で述べたような神的なもの=永遠的なものとこの世的なもの=時間的なものとの総合関係としての精神的人間として捉えている。
しかし人間は自己として措定されていながらも、それでもさまざまな仕方で自己のことを、そしてまた他者(神)のことを蔑ろにしてしまう。ここに「絶望」=「それ自身に関係する総合の関係における不協和」があり、自己についての意識が明晰になればなるほど、絶望の度合いも深まる。
その最果てにある最高度の絶望は「悪魔的な絶望」と呼ばれる。この段階において人は、自己について、そしてその後見人である他者(神)について極めて明晰に意識しながら、自己として措定されていること自体に反抗的になり、自分を他者(神)の失敗作として顕示したがるようになる。
<参照>
鈴木(2022)、24-26頁。
文献情報
鈴木祐丞(2022)『<実存哲学>の系譜—キェルケゴールをつなぐ者たち』、講談社選書メチエ。
フォルシェー、ドミニク(2011)『西洋哲学史——パルメニデスからレヴィナスまで』、白水社、119-124頁。
マルクス
労働する動物としての人間
マルクスは、哲学に対して最もラディカルな批判を企てた思想家—その点でマルクスを「哲学者と呼べるか否かは検討が必要である—の一人である。彼は、哲学が現実をただ解釈するだけで、具体的に変容させようとしないことを批判した。
ところで現実とは何か。マルクスにとって<現実>とは、絶対<精神>や<理念>ではなく、一つの<歴史>である。<歴史>は力関係・生産関係によって織り成される。
なぜ歴史が力関係・生産関係によって成立すると言えるのか。それは、歴史の主体たる人間が「労働する動物」だからである。
人間はまず、生存する手段を生み出すことができる自然的存在者として実在している。そしてその手段を介して、新たな欲求が生み出される。その欲求を安定して満たすために、最小の共同体として家族が組織され、家族から派生する社会関係が生まれる。その社会的関係の中で労働が要請され、新たな欲求がまた生まれ、新たな社会関係が生じる……。
このように、人間はその本性からして労働する動物である。それゆえ、人間の歴史は力関係・生産関係の歴史に他ならない。
階級闘争
さて、労働とは、最初にあった価値を増大させ、剰余価値を生み出す行為である。その剰余価値を資本として、新たな労働が開始される。この運動の繰り返しによって、価値は無限に増大していくが、この運動の反復は、人間を、労働という無限なるシステムを制御する<資本家>(ブルジョワ)と、システムを実際に駆動させる<労働者>(プロレタリアート)という2つの階級に分ける。
プロレタリアートは、生産手段を奪われ、疎外された人間であり、分断された労働を強いられている。ここに暴力的闘争・革命の契機がある。だからこそ、プロレタリアートは普遍的であり、かけがえのない使命を帯びている。「プロレタリアートは何物も所有せず、積極的には何者でも無いために、疎外の根源を占めている生産手段の私的所有を放棄し、それによって階級の分裂を取り除くのである」。
この革命によって、社会は資本主義から共産主義へ移行する。
共産主義では、生産手段が共有され、共同で生産が行われる。人々は、労働によって生じる剰余価値を平等に分け合いつつ、自分達の欲求を自由に満たすことができる。
共産主義の確立によって、人間の歴史は終焉を迎えるとマルクスは考えていた。しかし実際には資本主義から共産主義への移行は起こらず、資本主義は社会主義の諸政策を取り入れることで「福祉国家」になった。
貨幣と商品
さまざまな商品は、使用価値としては差異を持つ。例えばリンネルと上着とは、端的に異なっている。差異のうちにある商品が等置され、交換されるとすれば、それは使用価値の捨象による他ない。生産物が商品となるのは、単に他の商品との関係においてなのである。
しかし「商品」として異なる生産物が等価に置かれるとき、そこには必ず非対称性がある。この非対称性が、商品と貨幣との間の非対称性に感染していく。
貨幣は商品から生まれる。それはものとものとの間の幻影的な関係であって、アナロジーを見出すには、宗教的世界の霧幻境に逃げ込む他ない。貨幣とは、商品世界の神であるからだ。
他者に対して使用価値のある生産物が商品となる。けれども生産物が商品であるかどうかは、交換が可能になって初めて明らかになる。生産物は、使用価値を保つだけでなくあらかじめ交換価値をも保つことで、貨幣的価値に等しくなる。使用価値は交換価値としてのみ証明される。
商品はかくして、「使用価値として実現される前に、価値として実現されなければならない」。
「人間が、彼らの労働生産物を互いに価値として関係させるのは、これらのものが彼らにとって一様な人間的労働の外皮として認められるからではない。事態はその逆である。
彼らは、自分達の異種のさまざまな生産物を、互いに交換において価値として等置することによって、彼らの種々異なった労働を、互いに人間的労働として等置するのである。」
マルクスは、生産物の価値の本源を使用価値ではなく交換価値/交換可能性として捉える。そしてこの議論は、私たち人間自身にも当てはまる。『ドイツ・イデオロギー』にて言われている通り、「環境への私の関係が、私の意識である」(同書p28)。意識とは意識された存在であり、存在はそれゆえ、意識よりも広く深い。
人間の本質は、個人に内在する何かではない。「現実には、それは社会的諸関係の総体」である(「フォイエルバッハに関するテーゼ」6)。私の存在(wesen)は、意識されたその存在を超えて、関係として定立し、その総体を見渡し難い仕方で存在する。『経済学草稿』において「人間の意識が、その存在を規定するのではない。逆にその社会的存在が、意識を規定する」(序文)と言われるのは、まさにそのためである。
<参照>
熊野(2006)、187-192頁。
文献情報
熊野純彦(2006)『西洋哲学史—近代から現代へ』、岩波書店、182-192頁。
フォルシェー、ドミニク(2011)『西洋哲学史——パルメニデスからレヴィナスまで』、白水社、119-124頁。
ニーチェ
パースペクティビズム
客観的で変化することのない基底的な実在があるのだという見解に対して、ニーチェは痛烈に反駁する。深遠な実在への信念の代わりに、彼は世界を理解する最も有効な手段としての感覚や常識への信頼を力説する。
ただしそれは、常識の見解が物事のあり方について正確な見方をもたらしてくれるからではない。というのも、元々正確な見解など、どこにも存在しないからだ。むしろ常識は、我々がそれによって生きているところのパースペクティブをもたらしてくれるのであって、根底に横たわる真なる実在を隠してしまうただの上部構造なのではない。
彼はこう述べている。「仮象の世界が唯一の世界である。『真の世界』など単なる虚言に過ぎない」。私たちの解釈を差し引いたところに真の世界があると考えてはならない。常識が擁護されるべきなのは、それが真だからではなく、我々が実際に世界に関わる仕方を提示してくれるからである。
<参照>
コリンソン(2002)、267頁。
力への意志
ニーチェのいくつかの観念と実存主義との間には、一つの密接な類縁性がある。実存主義者同様、ニーチェもまた、価値や意味は発見されるものではなく創出されるものであり、この創出は行動によって実現されると考えている。
結局のところ、個人の本来性の表現であるその行動が根拠を通して正当化されたり根拠づけられたりすることは、現実的にも可能ではないのだ。
我々は事物の無意味な流れから自分たちを引き離さなければならないし、現存する因習や既に受け入れられた「真理」を退けて「力への意志」を行使することによって、新たな理想や価値を創造していくことを自分に要求しなければならない。
この力への意志は、豊かな経験への手段として苦悩さえも進んで引き受け、理性の命令よりはむしろ心の願望を叶えてくれるものである。
<参照>
コリンソン(2002)、268-269頁。
ルサンチマン
キリスト教的道徳の根源を辿っていくと、「ルサンチマン」と呼ばれる人々の生に行き着く。ルサンチマンとは、「積極的に自己を肯定できないが、それでも自分の力への意志を消し去ることができない者たち」である。
キリスト教における利他的精神は、まさにこのルサンチマンたち(例えば奴隷や女性たち)が、他を魅惑するために自らの弱さを利用するという(それによって同情を誘うという)戦略によって実現されている。
この戦略が遍く広まることで、そのキリスト教的道徳なしに自己を肯定していた人々が、自らに罪悪感を覚えるようになり、その罪を救済するには苦しみが必要であると考えるようになる。
キリスト教の道徳は、全ての生に対してその生を否定させるような、病人の道徳である。
神の死、永劫回帰、そしてニヒリズムの超越(「超人」)
近代においてキリスト教的神は、その求心力を縮退させることになるわけだが、「神の死」とは全てのものの真理・意味・統一・目的の終焉である。
全ての生の価値を否定するような「不道徳な」神を退けるとき、私たちは意味や目的なしに自足する世界を認めなければならない。
世界には始まりも終わりも中間もなく、ただ、ある(永劫回帰)。私たちの生も、世界も、永遠に「救済」されず、無限に反復され続ける。それでもなお、神なしで生を肯定しなければならない。そうでなければ、この世は絶望で満ちることになるだろう。
神に依存せず生を肯定するには、事物の意味・存在の意味を自ら創造することが必要である。自らの力への意志(存在せしめんとする意志)のもとで、自らが価値の立法者となるとき、私たちは「善悪の彼岸」で私自身を創造する「超人」となる。
文献情報
コリンソン、ディアーネ(2002)『哲学思想の50人』、山口泰司・阿部文彦・北村晋訳、青土社、266-273頁。
フォルシェー、ドミニク(2011)『西洋哲学史——パルメニデスからレヴィナスまで』、白水社、119-124頁。
ベルクソン
純粋持続と自由
ベルクソンは、数量的・空間的な「量」と心理的な「質」を明確に区別しており、後者を特に「持続」と呼んでいる。
数や空間が問題であるなら、大小という言葉で語られている事柄は明確である。ベルクソンによれば数が空間に還元される以上、両者の場合「他方の空間を含んでいる空間の方が、より大きいと言われる」からである。
だが、より大きい感情がより小さい感情を「含んでいる」とは、どのような事柄であるのか。より大きな希望、悲しみと行ったものが、事実存在しているのだろうか。願望や悲哀についてその大小が語られる場合、本当は別の事柄が問題となっているのではないか。
希望は未来に向かい、希望において現在が不定の未来に繋ぎ止められる。最初はほんのかすかな光明だったものが、やがて心の全体へと浸透する。一切が、希望する歓びの、その固有の色彩によって染め上げられていく。全ては希望の色を帯びて、人はほとんど「存在することの脅威」に打たれるほどである。
このように、大きな希望について語られる時、問題となっているのは心的な状態の大小ではない。問題になっているのは量的な変化ではなく、質的な変容である。量的で等質的なものに対して、質的で浸透し合うものが心的なものを特徴づける。この心的なものをベルクソンは「純粋持続」と呼ぶ。
心的なものの中では全てが浸透しあっている。自由な行為とは、まさにそのようなものである。というのも心的なものは外的・空間的な量から独立して、「<私>から、そして<私?からのみ発する」行為だからである。
<参照>
熊野(2006)、211-215頁。
純粋記憶と習慣
『物質と記憶』においてベルクソンは、人間の記憶を2種類に区別した。一つは習慣的な記憶であり、もう一つは過去の出来事そのものを記憶する「純粋記憶」である。
例えば詩の朗読を繰り返す時、いつしかその詩句は自動的に再生されるようになる。これはある種の習慣に等しく、このような仕方で記銘された記憶は、身体の感覚ー運動機能と統合される。習慣とは一般に、行動の反復によって運動の図式を形作り、過去の経験によって現在の状況に適合しようとする身体の働きである。
他方で、一回一回の朗誦それ自体も想起可能である。過去の出来事そのものを保存するこの記憶を、ベルクソンは「純粋記憶」と呼んで習慣から区別している。
この両者の違いは、「再認」という問題において顕著に現れる。
習慣の方は、「見たことがある」という感覚を伴う、日常的な意味での再認と結びついている。例えば「街を見たことがある」とは、街の細部をありありと思い浮かべ、表象できる能力を指すわけではない。この意味での街の再認はむしろ、目的地へと間違いなく最短距離をたどって到達できる能力を指す。
これに対して、純粋記憶の方は、記憶されている当の過去の深奥へと向かう精神の能力を指している。ここで想起されている過去は、単に過ぎ去ったものではない。むしろ、精神の深奥で夢見られている。純粋記憶の作用によって呼び起こされるのは、前述の純粋持続たる内的な生であり、そこには<私>に固有な——それゆえ真に自由な——生がある。
<参照>
熊野(2006)、217-221頁。
生命の跳躍
純粋に質的な生は、客観的・物理的な法則には捉えられない形式で「躍動」する(生の躍動= élan vital)。この「躍動」は多様な方向へ炸裂し、「植物的内在性」「動物的本能」「人間的知性」という3つの極致に到達する(※ベルクソンは生命の進化を、「生の躍動」の自由な運動の中に位置付けている)。
この奔放な生の躍動の中で、それでも意識が一つの意識として連続性を保てるのは、私たちの記憶が生の躍動の中に一つの道筋を見出しているからである。私たちの生の運動の系譜が記憶として保存され、意識のうちに見出される。その道筋が、自我の自我としての連続性を担保してくれている。
<参照>
フォルシェー(2011)、150頁。
文献情報
熊野純彦(2006)『西洋哲学史——近代から現代へ』、岩波書店、211-224頁。
フォルシェー、ドミニク(2011)『西洋哲学史——パルメニデスからレヴィナスまで』、白水社、149-150頁。
ウィトゲンシュタイン
『論理哲学論考』(前期ウィトゲンシュタイン)
生前あまり多くの著作を残さなかったウィトゲンシュタインの思想は、『論理哲学論考』に代表される「前期」の思想と、『哲学探究』に代表される「後期」の思想に大別される。
前期の思想を語る上で最低限必要な手がかりは、「像の理論」と「真理関数理論」、そして「語り得るものと語り得ないものの区別」である。
ある事実が事実として私たちに現れるのは、命題の持つ論理形式を通して諸対象が秩序づけられるからである。言葉を通して記述される可能性があるからこそ、事実として現れる。命題は事実の単なる模写なのではなく、命題になりうるものが事実となるのである。まずこれが「像の理論」(写像理論)である。
そして、世界を記述する命題は、その最小単位である「要素命題」に還元できる。あらゆる命題の真偽は要素命題の真偽に依存するので、「全ての真なる要素命題を挙げれば、世界は完全に記述される」。これを「真理関数理論」と呼ぶ。
事実は要素命題を核として、その組み合わせとして「自然に」生起する。世界では、全てが生起するようにして生起し、かくして成立した事態が事実として記述される。したがって「世界のうちには、いかなる価値も存在しない」。「それゆえにまた、いかなる倫理の命題もあり得ない」。「倫理は超越論的である」。
世界の中で生起する事実は単なる事実であり、そこに絶対的な価値・善が付与されているわけではない。それゆえに倫理の命題はあり得ない。対応する事実が存在しないからである。
しかしながらウィトゲンシュタインは、絶対的な価値や善に関する倫理の「存在」を否定したわけではない。曰く、「語り得ないものが存在することは確かである。それは示される。それは神秘なのである」。
語り得ないものは、存在しないわけではない。語り得ない、つまり命題にならない倫理は、ただ「示される」。語りうることと示しうることの区別が、『論理哲学論考』の形而上学を記し続けている。両者の間の、いわば存在論的差異の設定には、倫理的な態度が孕まれていた__倫理について語らないという、それ自身倫理的な態度が、である。
『哲学探究』(後期ウィトゲンシュタイン)
『論理哲学論考』の完成によって哲学は終わりを迎えたと考えたウィトゲンシュタインだったが、その後彼は自らの思想を大きく転回させることとなる。先に述べた「像の理論」も「真理関数理論」も、日常的な言語使用の場面に照らせば立ち行かなくなることが発見されたからである。
日常生活において言語は極めて多様な仕方で使用されており、事実を映す「像」としての言語の想定も、世界を記述する「要素命題」の想定も成立しない。例えばおままごとにおける「りんご」という発話と「私の欲しいのはりんごである」とが同一の意味であると言えるのは、両者が同じ使用価値を有するからであって、言葉の使用の脈絡こそ言葉の意味を考える第一の基盤なのである。
ここで示唆されている言葉についてのモデルは、ある使用状況のもとで、ある人とある人との間で、一定の規則に従ってなされる言語使用という「言語ゲーム」のモデルなのである。
ある語は、実在との直接的な結合をするのではなく、背景となる状況や規則を介してのみ有意味に用いられる(「直示的定義批判」)。
「言語ゲーム」的な仕方で言語が使用されるとき、共通の同一の本質などないにもかかわらず、それぞれの間に重なり交差しあった類似性があって、それゆえに複数の現象が同一の名で呼ばれることがある。この場合の類似性を「家族的類似性」と呼ぶ。
文献情報
熊野純彦(2006)『西洋哲学史——近代から現代へ』、岩波書店、249-254頁。
フッサール
超越論的還元
現象学の始祖とされるフッサールは、『イデーン』と称される書籍において、自然的態度において私たちが抱いている「世界が存在している」という素朴な確信(「自然的態度」における「一般定立」)に「エポケー(判断中止)」を加える「現象学的還元」を方法とする現象学を確立した。
また彼は、この現象学的還元を通して「純粋意識」の領野を取り出し、「意識は常に何かについての意識である」という志向性を意識の根本特性として、純粋意識において世界がどのように構成されるかを分析した。
志向性:ノエシスとノエマ
志向性とは何か。
事物は、知覚に対してその表面しか提示しない。例えば書棚に並ぶ本は、その背表紙を見せているだけである。だから、事物は「原理的に言って、単に一面的な射映においてのみ与えられる」。
他方で例えば机の知覚は、時間的に展開する一連の射映としてだけ可能であるにもかかわらず、机そのものは同一的で変わらないものとして意識される。
従って志向性は単に、「意識は常に何かについての意識である」というだけの事柄ではない。志向性が示しているのはむしろ、「意味を持つということ、あるいはあるものを『意味において所有すること』が意識の根本性格である」ことに他ならない。
およそ一切の対象は、或るものとして規定されることで存在している。何らかの意味において思念され、意味づけられることで存在している。かくして、あらゆる実在的統一は「意味の統一」となる。意識はそれゆえ、一般に体験であるばかりではなく、意味を持つ「ノエシス的」な体験である。
素材が、あるものとして「統握」され、意味付与されるこのノエシス的作用によって、対象が同一的なものとして構成される。そのような対象的な統一が「ノエマ的相関者」あるいはノエマであり、広義の「意味」と総称される。
ノエマとは純粋意識の対象的-意味的な側面に他ならず、体験の流れに、実的には内在しない。例えば樹木を知覚するとき、そこには「知覚された樹木そのもの」という「全きノエマ」が属している。他方、このノエマ自身は「現実の樹木と同じように、知覚のうちに実的には含まれていない」。
樹木の幹の色は、陽光の加減であるいは濃く、あるいは薄く現出する。それにもかかわらず、樹木の幹の色それ自体は、同一の色彩として意識される。それゆえ、幹の色自体は一個のノエマである。
したがって、「ノエマは各々、ある『内容』すなわちその『意味』を持っており、それを通じて『自らの』対象に関係することになる」。こうした「ノエマの対象核」が存在することで、「全ての意味がその『対象』を持つばかりではなく、相異なる意味が同一の対象に関係することになる」。
形相的還元/本質直観
還元の結果あらゆる対象は,もはや端的な超越者とはみなされず,もっぱら意識の志向的相関者として,すなわち認識されている限りにおいて,意識体験の領域に志向的に内在するノエマ的対象(思念されている対象)として,その認識の可能性と存在性格を究明されることになる(ノエシス)。この超越論的還元と並行して現象学者はさらに、個々の事実をその本質(形相=イデア)へ還元する形相的還元を行わねばならない。
なぜなら学問が真に求めているのは,単なる事実認識ではなく,本質認識であり,しかも個々の事実はその本質と関係づけられることによって初めて真に論理的に理解されうるからである。
生活世界
晩年、フッサールは、世界の存在とその妥当性への問いを、意識とその相関項との志向的関係の中に位置付けた。
その探究の中でフッサールは、その都度の対象意識の背景あるいは基底として、常に隠れた仕方で働いている諸地平の全体=あらゆる意味形成と存在打倒の根源的な地盤たる「生活世界」を見出した。
フッサールによれば、近代科学は、こうした存在の地盤としての生活世界を、数学的に客観化可能な世界という単なる方法の産物に過ぎない世界と取り違えてきた。科学の客観主義とは、生活世界の隠蔽と忘却に他ならない。
この「生活世界」の概念は、それが究極的な「根本知」なのか、分析の手引きとすべき「先行知」なのかという論争を招いたが、後世の現象学に多大なる影響を与え続けている。
文献情報
熊野純彦(2006)『西洋哲学史——近代から現代へ』、岩波書店、226-240頁。
新田義弘(1998)「現象学」『岩波哲学・思想事典』、廣松渉ほか編、岩波書店、461-462頁。
ハイデガー
存在論的差異
「存在すること(存在)」とはどういうことか。「存在するもの(存在者)」の本質=存在すること—古代ギリシア語の “ousia”は、「本質」と「存在」両方の意味を持つ—についての問いは、哲学の歴史と同じだけ古い。
ところで、存在と存在者は、切り離して考えることができない。存在者から独立して想定された存在は、もはや存在者の存在=本質ではなく、それ自体として独立した存在者となってしまう。他方で、存在者の方も、存在を欠いては存在できない。
「存在」について、プラトンはイデアと呼び、アリストテレスは「最高存在者」と呼んできたが、他ならぬ存在者の他ならぬその存在を問うためには、こうした伝統的な形而上学の解体が必要である。ハイデガーは、存在者と存在との間の差異=存在論的差異を維持した状態で、他ならぬその存在者の存在を問う方策を求めた。
現存在/世界内存在
私たち人間は、自らの存在について問わずにはいられない。そこでハイデガーは、<私たち自身がその都度それであり>かつ<問うという存在可能性>を持った<存在者>のことを「現存在」(Dasein)と呼んだ。
この現存在は、神のような存在論的に特別な存在者ではなく、世界のうちで日常的に存在している存在者である。現存在は世界と関わり、世界へと身を呈する形で存在している。その意味で現存在は「世界内存在 In-der-Welt-Sein」に他ならない。世界内存在として存在している中で、世界内の全ての事物は現存在を中心とする連関の網をなしており、その全てが滑らかに破綻なく機能している。
不安/死に臨む存在
「現存在」と呼ばれる私たち人間主体は、その日常的なあり方(「世界内存在」)において本来性を失っている。
現存在は日常的には周囲世界に対して「配慮的気遣い」という仕方で関わるのであり、単なる客観的な事物に対面しながら生きるのではなく、現存在自身の存在へと最終的に辿り着くような「適所性」を伴った道具的連関の中を生きている。また、世界は「共世界」であり、現存在は他者たちとともにある「共存在」であって、他者たちは「顧慮的気遣い」の相手である。その中で現存在は、他者たちに存在可能性を操られており、その本来の存在を奪い取られており、誰でもない存在である「世人」と化している。
現存在は、いつも何らかの形で「情態性」を有している=「気分づけられている」。そして、日常性において現存在は「不安」を抱えている。すなわち、現存在は世界そのものを前にして不安であり、「無であり、どこにもないことのうちで告げられている完全な無意義性」を前にして不安を抱えている。
不安は、現存在を平均的日常性から本来性へ転じさせる役割を果たしうる。
現存在の本来性は、それが「死に臨む存在」であることに存する。現存在は、死という無に絶えず直面しているので、その本質からして不安である。もちろん現存在は、不安を抑圧してそこから逃避することも可能である。それでも現存在は、「良心」の呼び声に応じることで、不安により日常性から引き戻され、本来的な存在可能の可能性が与えられる。この応答が「最も固有な責めある存在へと向けて、沈黙したままで、不安に耐えつつ自己投企すること」、すなわち「先駆的決意性」である。
先駆的決意性によって現存在の本来的な全体性が明らかになるとき、その本来性のみならず、気遣いそのものが<既在し現成化する到来>としての<時間性>によって構成されていることが帰結される。
「総駆り立て体制」における技術
第二次世界大戦を経た後期のハイデガーは、技術の本質について考察し、技術に対して取るべき私たちの態度と、そうした態度から見えてくる世界のありようを描いた。
現代においては、あらゆる存在者が駆り立てられ、徴用物質として用立てられている。人間も自然も、一切例外はない。全ての存在者が徴用物質としてしか存在しないことになる現代技術の本質は「総駆り立て体制 Gestell」である。
とはいえこうした体制は存在の歴史の中で運命づけられている(世界内存在)。ハイデガーが提唱するのは、こうした技術を賛美することでも拒絶することでもなく、距離をとってその本質を引き受ける「放下した平静さ Gelassenheit」という態度である。
放下した平静さにおいては、物が物として立ち現れ、世界が露わになる。例えば瓶という物においては、大地の養分と天空の太陽によって育てられたワインが、死すべき者たちである人間の喉を潤したり、御神酒として神に捧げられたりする。後期ハイデガーは、「大地」・「天空」・「死すべきものたち」・「神的な者たち」の四者からなる「四方界 Geviert」を「世界」の概念として提示し、その内に私たちが存在しているその仕方をこそ注視すべきであると説いた。
文献情報
熊野純彦(2006)『西洋哲学史——近代から現代へ』、岩波書店、242-247頁。
柘植尚則(2016)『入門・倫理学の歴史—24人の思想家—』、梓出版社、179-188頁。
フォルシェー、ドミニク(2011)『西洋哲学史——パルメニデスからレヴィナスまで』、白水社、163-166頁。
レヴィナス
レヴィナスについては、以下のnoteに詳細に記載しているので、そちらをご確認ください。
https://note.com/rarirurero_philo/n/n282db9ac9494
サルトル
即自と対自
人間の存在の様式は、普通のモノのそれとは決定的に異なっている。
普通のモノは「即自」として、すなわちただそこにあるだけの存在として、意識によって見出される一対象として存在している。
一方、意識としての人間は、意識自体に対する意識を有しており、自己に向かう存在—「対自」として存在している。
対自としての人間は、即自的対象として捉えることができない。確かに人は自分自身を対象として認識することはできるが、自己意識そのものと自己意識によって捉えられる「私」との間には常に隔たりがある。
実存は本質に先立つ
例えばペーパーナイフの存在について考えてみよう。
ペーパーナイフは「紙を切るもの」という仕方でその本質が決定されている。それゆえ、「ここにペーパーナイフが存在している」ということが言えるためには、ペーパーナイフというものの本質があらかじめ規定されていなければならない。この意味で、ペーパーナイフの本質はその実存に先立っている。
他方で人間は、ペーパーナイフのようにあらかじめ用途が決まっている存在ではない。人間はまず端的に「存在する」という仕方で世界の中に現れた後で、様々な状況の中で行為することで未来に向かって自分自身を作り上げていく。従って人間においては、「実存は本質に先立つ」。
人間は自由の刑に処されている
人間は自らの行動によって自分自身の本質を作り上げられるという点において、人間は「自由」である。しかしこの意味での「自由」は必ずしも喜ばしいものではなく、むしろ不安や責任を伴う。
物理的な制約はあるにせよ、人間はもし「それをやろう」と思えば原理的にはどんなこともできる。サルトルによれば、人間は自分自身のこのような自由について、内心では不安を感じ、また自由に行為した結果としてその責任を負うことを恐れている。
私たちは、こうした不安や責任から目を背けるために、あたかも人間の本質や道徳があらかじめ決められたものであるかのように生活している。しかし実のところそのような本質や道徳は存在しない。このことを直視すると、私たちは自分が「自由の刑」に処されていることが明らかになる、とサルトルは考えている。
アンガージュマン
ところで、私たちが自由に行為する場合であっても、そこには必ず何かの具体的状況が存在し、その状況から一定の条件を課せられた上で私たちは行為する。このとき、私が目の前にある状況とどのように関わるかを主体的に選択することを、サルトルは「アンガージュマン」(engagement)と呼ぶ。
欲求のままに動く人間は、自由であるように見えて、実際のところは欲求を刺激する物質に従属させられている(この状態にある人間の集団を「集列」(série)と呼ぶ)。「アンガージュマン」を実現するとき、人は互いに互いを<人格>として認め合いながら—他人の人間性を手段としてではなく至上の目的として尊重しながら—生きることができる(この状態を実現した共同体を「熔融集団」(groupe en fusion)と呼ぶ)。
文献情報
柘植尚則(2016)『入門・倫理学の歴史—24人の思想家—』、梓出版社、191-200頁。
フーコー
狂気と理性の分割(『狂気の歴史』)
フーコーによれば、中世末期からルネサンス期にかけて、狂気は無秩序の印であったが、社会において肯定的な位置を占めるものであった。
それが17世紀になると、理性への信頼の高まりによって、狂気は排除の対象になる。狂人はさまざまな社会不適合者と共に、隔離・監禁されることになった。フーコーは、ここに理性による非理性の排除を見出す。
しかし監禁の時代は長くは続かず、近代が近づくと、狂気は他の非理性から区別され、医学的に治癒されるべきものとして扱われるようになる。
だがこの一見博愛主義的で人道的な施策を、フーコーは別の形での狂人の閉じ込めとして捉える。狂人たちは、「正常者」たる医師や職員の視線の下に晒され、道徳的で社会的な型に自らを嵌め込まれ、道徳的意識を持たせられる。自分が狂人であることに罪悪感を覚えさせられ、自分自身をたがにはめることを強いられたのである。
知の考古学(エピステーメー)
『狂気の歴史』で心理学・精神科学の成立を語った後、フーコーは『言葉と物』において、西洋の諸科学全般にわたる知の枠組みが歴史的にどのように変化し、近代の諸科学と近代的人間がどのように成立するかを探っている。
この研究方法をフーコーは「考古学」と呼ぶ。「考古学」の分析の最小単位は「言表」=「言われたこと」であり、複数の言表がある規則のもとで集められたまとまりを「言説」と呼ぶ。このまとまりがどのような規則のもとで作り上げられるのかを分析するのがフーコーの「考古学」である。
知の枠組み=エピステーメーは、それぞれの間に隔絶を持つ。曰く、西欧文化はルネサンス期、17世紀〜18世紀の古典主義時代、19世紀以降の近代に分けられる。
このエピステーメーの探求を通して、生命を持ち、言語を話し、労働する個人としての「人間」は19世紀以降の近代において初めて、それぞれ「生物学」「言語学」「経済学」によって対象化されるようになったことを明らかにした。
古典主義時代にも、それらの前身にあたる考え方はあったが、古典主義時代のエピステーメーにおいては、世界は普遍的な合理性によって計算・分類され、言語は世界を十全に記述すると想定され、経験的存在としての人間は存在していなかった。
古典主義のエピステーメーと近代のそれを分けるのが「時間性」である。生物学は人間の生の有限さを示し、言語学は言語の歴史性を証明し、経済学は人が死の脅威のもとで働くことを示す。
人間は確かに「生きて、話し、労働する」ことに先だてそれらを認識する主体でありながら、それぞれ生物学・言語学・経済学の客体でもある。フーコーによれば、この両義性において「人間」という近代の概念が現れる。
こうした概念はあくまで近代という一時代のエピステーメーによるものであり、新たなエピステーメーが打ち立てられれば、人間という概念は消滅するとフーコーは指摘する。
この意味で人間を終焉に導くと考えたのは、当時フランスで隆盛を極めつつあった構造主義的学問である。これらの学問は、言語を分析の手がかりとしつつ、もっぱら人間の意識の外にあるものに取り組む。フーコーは、人間の無意識を規定する言語によって人間の能動性が奪われるのではないかと推測したのである。
2種類の生権力
フーコーは、近代以降の権力について、中世の権力とは区別する形で「生きさせる」権力であると指摘した。中世の王は、秩序を逸脱した臣民を懲罰することを重点的に考えていたのに対して、効率良い生産を重んじる近代においては、人々を可能な限り生存させ、労働させ、繁殖させることを目標とするようになった。いわゆる「生権力」の誕生である。
生権力は大きく2種類に分けられる。個別の人間に施される「規律としての権力」と、数としての人間=人口集団(population)に対して施される「生政治」である。
近代社会において人は、学校や職場で、社会の期待する規格に適った主体となるようトレーニングを受ける。「こうしなければならない」という教師の教えは、やがて当人に内面化され、教師/監視人なしでも「こうしなければならない」と思うようになる。規律としての権力は、上から押さえつけられるものとしてではなく、各人の内面から自己統制を行わせるような仕方で働く。
生政治の目的は、もっぱら人口の調整管理である。どんな人間がどれだけの数だけ存在し、どのように生きているのかを可視化・管理することで、国家という巨大なシステムが最も効率よく駆動するように調整する。最近よく耳にする「データドリブン」な意思決定プロセスの根幹には、この生政治の思想がある。
パレーシア(自己陶冶の倫理)
権力は他者を支配する技術であるが、フーコーは自己が自己を統治する技術についても論じている。
フーコーによれば、古代ギリシアでは、快楽の主体たる自己が節度を持って行動できるかが問われていた。自由市民たるギリシア市民は、自己の欲望に打ち勝ち、自己自身を統御できるものでなければならなかった。他者との関係のうちで、自己を陶冶していくのがギリシア世界における道徳だった。
フーコーが目指したのは、権力の作用によって規格化された主体であることを拒否し、自らを道徳的主体として自己を作り上げることである。そして、フーコーにとってはこうした自己自身への働きかけこそが「倫理」なのである。他者との関係のうちで、レトリックやおべっかを使わず、誠実に率直に語ること——「パレーシア」がそこでは重要になり、「パレーシア」の語りによって人は規律権力に従属しない自律した主体となる。
文献情報
柘植尚則(2016)『入門・倫理学の歴史—24人の思想家—』、梓出版社、207-216頁。
デリダ
脱構築
「脱構築」とはデリダの思想の鍵語であり、簡単に説明すると「物事を『二項対立』、つまり『二つの概念の対立』によって捉えて、良し悪しを言おうとするのをいったん保留する」ということである。
脱構築の手続きは以下のように進む。
二項対立において一方をマイナスとしている暗黙の価値観を疑い、むしろマイナスの側に味方するような別の論理を考える
対立する項が相互に依存し、どちらが主導権を取るのでもない、勝ち負けが留保された状態を描き出す
その際、プラスでもマイナスでもあるような、二項対立の「決定不可能性」を担う第三の概念を使うこともある
私たちは普段、ほとんど無意識にA vs. Bという二項対立の図式を使っている。
例えば「本質的/非本質的」という対立は最も典型的な二項対立の一つである。例えば、「自然なものの方が良く、人工的なものはよくない」という価値観はよく見受けられる。この価値観は、地球に元来備わっている自然のプロセスが本質的で、そこから離れることは非本質的であるとする発想に由来している。
ここからはデリダ特有の思想になるが、デリダは全ての二項対立の根源には、話し言葉=パロール(parole)と書き言葉=エクリチュール(ecriture)の対立があると指摘している。パロールは直接意図を伝えるが、エクリチュールは文字を介して間接的にしか意図を伝えられないので、非本質的である___プラトン以来、西洋哲学はこの図式を前提に思想を深めてきた。
パロールとエクリチュールの対立は、直接性と間接性の対立であり、先の本質的/非本質的の対立もここから説明できる。本質的なものはより直接的なものであり、非本質的なものはその直接性から離れた間接的な存在である、というわけである。
実際エクリチュールは、一つの同じ場所に留まっておらず、いろんなところに流れ出して、誤解を含む多様な解釈を生み出していく。この性質は、対象の意味を一つに規定しようとする西洋哲学にとって忌むべき存在だった。しかしデリダはむしろ、エクリチュールの多義性はコミュニケーションにおける根源的な性質であり、それを抹消するのではなく、それに向き合って人と付き合う必要があると論じた。この意味でのエクリチュールの性質を「誤配可能性」と言う。パロールにおける意味も、エクリチュールの多義性から生じうると論じることで、デリダはこの根源的な二項対立を転倒させたのである。
この概念的脱構築(差延)は、倫理の問題も射程に含んでいる。というのも、二項対立でマイナスとされるのは基本的に「他者」の側であり、脱構築の思想は「余計な他者を排除して自分が揺さぶられずに安定したい」という思いに介入するからである。
私たちは、何か意思決定を行う際に、二項対立の図式でマイナスとされたものを排除する。その際、当の二項対立が「仮固定」—絶対的な関係性ではなく、脱構築可能であるような形で存在している関係性—であることが理解されていれば、私たちは「何かを切り捨ててしまった、考慮から削除してしまった」ということへの忸怩たる思いを持つに至る。
こうした未練こそが他者性への配慮である。倫理的主体は、決断を繰り返しながら、ふとした瞬間に想起される未練の泡立ちに対して、別の機会にどのように応えるかを考え続けねばならない。
郵便モデル
だが、デリダが「音声=ロゴス中心主義」や「現前性の形而上学」を批判=脱構築するために、「差延」を想定したとしても、こうした想定そのものはロゴス中心主義ないし現前性の形而上学に見える。エクリチュールの多義性は、記号のさまざまな差異を生み出す超越論的なものであって、下手をするとヘーゲル的な<精神>にさえ見えるのではないだろうか。
そこでデリダは、こうした「超越論的脱構築」の危険性を徹底的に排除した。経験的な領域を一気に超えて超越論的次元に至るのではなく、個々のエクリチュールの具体的な実践を通して、その全体を浮かび上がらせようとした。この戦略をデリダは「郵便」モデルによって展開している。
一般的に考えて、郵便物が、途中で廃棄されたり、誤配されたり、遅配されることは不思議なことではない。「郵送すること、それは停止、中継ないし中断的遅延、配達人の場、横領=迂回や忘却の可能性を計算に入れつつ郵送することである」(『絵葉書』)。
デリダが「郵便」にこだわるのは、「超越論化」をどうしても排除したいからである。郵便物は、必ずしも宛先に届くわけではなく、その行程は常に同一であるわけではない。こうした郵便のあり方を、デリダは「郵便的な差延」と呼ぶ。
「郵便的な差延」という言葉でデリダが指示しているのは「テレ(遠隔)コミュニケーション」である。これは第一義的には文字言語(エクリチュール)によるコミュニケーションを指すが、それだけを意味するわけではない。
一般に、音声言語(パロール)的コミュニケーションにおいては、対話の送り手と受け手は相互理解によって合意に到達すると考えられている。だが、そもそも対話者同士が分かり合っているならば、コミュニケーションは生まれない。そもそも話す必要がないからである。
コミュニケーションには、常に「隔たり(テレ)」が前提されており、郵便的な「テレ(遠隔)コミュニケーション」は音声言語的なコミュニケーションに先立っている。
文献情報
岡本裕一朗(2015)『フランス現代思想史—構造主義からデリダ以後へ』、中公新書、168-206頁。
千葉雅也(2022)「現代思想入門』、講談社現代新書、31-54頁。
ドュルーズ+ガタリ
同一性よりも差異の方が先行する
千葉雅也は、ドュルーズの思想を「存在の脱構築」と形容している。この表現はおそらく「差異は同一性に先立つ」というテーゼを背景にしている。まずはこの主張の中身を見ていこう。
まずは主著の一つ『差異と反復』から、ドュルーズ自身の声を拝聴する。
同一性は最初のものではないということ、同一性はなるほど原理として存在するが、ただし二次的な原理として、生成した原理として存在すること、要するに同一性は《異なるもの》の周りを回っているということ、これこそが、差異にそれ本来の概念の可能性を開いてやるコペルニクス的転回の本性なのであって、この転回からすれば、差異はあらかじめ同一的なものとして定立された概念一般の支配下に留まっているわけがないのである(財津理訳、河出文庫、121-122頁)。
ここでドュルーズは「同一性は最初のものではない」と強調しているが、これは具体的には何を意味するのか。
私たちの世界は、個々の存在者がそれぞれ独立して存在しているように見える。
例えば私がこの原稿を書いているパソコンはパソコンであって他の何物でもないように見える。
しかしドュルーズはそうは考えない。パソコンがパソコンとして存在している「ように見える」のはあくまで結果論であり、その同一性は仮固定の状態でしかない。実際には、見えざるところで—同一性が確立される手前の段階で—まだ存在者となっていない無数の何かが複雑に関係しあって均衡を形成している、と指摘する。
したがって、同一的だと思われているものは、永遠普遍に一つに固まっているのではなく、諸関係の中で一時的にその形をとっているにすぎない。
別の角度からこの主張を見ると、全ての事物は異なる状態に「なる」途中にあり、存在するものは全て何かの「出来事」であると考えられる。本当の始まり、本当の終わりはなく、全ては「途中」にある、という「中動態」的な思想が浮上してくる。
欲望する諸機械/欲望のパラドクス
『アンチ・オイディプス』の基本的なメッセージはシンプルである。それは、「欲望を全面的に肯定する」ということである。
「欲望」を基本的な原理とするために、ドゥルーズ+ガタリは「欲望する諸機械」という概念を提示している。
欲望が「諸機械として作動する」というのは、2つの矛盾した側面を有している。
一方で諸機械は相互に連結・接続し、それによって作動するが、他方でその連結には必然性がなく、すぐに断絶される。
この相矛盾する2つの側面を、ドゥルーズ+ガタリは「流れと切断」という言葉で表現している。「欲望」は他のものと連結しなくては働かないが、同時にその連結を絶えず断ち切り、別のものとへと向かい、新たな連結を作り出す。欲望は多様な方向へと流れているのであって、その流れを規制=コード化することは、その本質に反する。
それゆえ、欲望は本来脱コード的である。欲望は、それを限定して意味づけして一定の方向へ導くような規制(コード)を持っていないからである。ここから、ドゥルーズ+ガタリの欲望に対する基本テーゼが導出される_「欲望は本質的に革命的である」。
この点において、欲望は本源的に肯定的である。しかし68年5月において欲望されたのは秩序であり、抑圧であり、否定だった。だとすれば、人はなぜ自分の抑制を欲望するのだろうか。
この問いをドゥルーズ+ガタリは「欲望のパラドクス」と呼ぶ。『アンチ・オイディプス』の中で両者は、この逆説に対するアプローチとして以下の3つを提示した。
スキゾとパラノの二元論
欲望史観
死の本能
スキゾとパラノとは、「スキゾフレニー(分裂症)」と「パラノイア(偏執症)」という精神医学上の概念を援用した、欲望の2つの極である。一方の「スキゾ」の極は革命的であるのに対して、他方の「パラノ」の極は反動的であると言われる。
ただ、この二元論の説明は、「欲望のパラドクス」という現象の言い換えにすぎず、その内実の説明にはなっていない。
そこで、2つ目の「欲望史観」を見ることにする。『アンチ・オイディプス』では、欲望の概念を正当化するために、欲望と社会との普遍史的な展開が記述されている。
その展開は未開・野蛮・社会の三段階に分けられ、それぞれ原子共同体・専制君主国家・近代資本制に対応している。さらにそれらの特質は、コード化・超コード化・脱コード化として示されている。
ドゥルーズ+ガタリが描くこの普遍史は、基本的に2つの方向から構成されている。一つは過去から現在まで続く脱コード化へと向かう「欲望の多様な流れ」であり、もう一つはそれを常に規制する社会である。
ここでは、スキゾ・パラノの二元論とは違って、欲望は徹底して脱コード化する革命的なものとして記述され、それに対置されるものとして社会がある。しかし、これでは社会が何か超越的な存在となって、常に謎に止まるのではないだろうか。
3つ目の「死の本能」説はどうだろうか。『アンチ・オイディプス』第4章で、ドゥルーズ+ガタリは次のように言っている。「未解決のままにしておいた問題を私たちが再び取り上げるとすれば、今こそその機会である。今取り上げなければ、その機会は永遠に来ない」。それに対して、彼らは「答えは、死の本能である」と語る。
「死の本能」がどのようにして「欲望のパラドクス」を解決するのか、ドゥルーズ+ガタリは明示的に語っていない。彼らは「欲望の多様な流れ」に対して、「死の本能が抑制装置を奪取」し、「欲望」を再コード化すると考えている。だが、そこではどのような事態が想定されているのか、ほとんど分からない。
リゾーム/アジャンスマン
『アンチ・オイディプス』から8年後に発行された『千のプラトー』においてドゥルーズは、本書の中心的テーマが「動的編成(アジャンスマン)」であると語っている。
この「動的編成」は、「リゾーム」という概念によって構築される。リゾームとは、多様性と非等質性を原理とした「非中心化システム」であり、もう一方の「序列(中心化)」システムの「樹木」と対置される。木の根=リゾーム的な仕方で、他のものと多様に結びつくことがアジャンスマンであるとされる。
このリゾーム的アジャンスマンは、『アンチ・オイディプス』で提示された「欲望のパラドクス」に対してどんな回答を与えるのか。
『アンチ・オイディプス』との最大の違いは、欲望と抑圧を切り離して考えないという点にある。『千のプラトー』ではむしろ、欲望そのものが既に自分自身の抑圧を目指すとされる。リゾーム的構造はいつでも樹木構造に転化し、逆に樹木構造もまたリゾーム構造に転化する。こう考えると確かに、欲望のパラドクスの問題は生まれない。
本書第4章でドゥルーズ+ガタリは、リゾーム的空間を「平衡空間」、樹木的空間を「条理空間」と呼び、それらはお互いがお互いに移行したり結合したりすると指摘している。
確かに革命的な勢力がいつしかファシストになることは不思議ではない。しかし逆に、国家的装置がいかにして戦争機械となるかは、示す必要があるだろう(この点に対する答えは明示されていない)
管理社会
ドゥルーズは、フーコーの権力論を踏まえ、現代社会は「規律社会」から「管理社会」へと変容していることを示した。
ドゥルーズが「管理社会」を語る時、念頭にあるのは資本主義の変化である。
規律社会から管理社会への移行は、「生産を目指す資本主義」から「販売や市場を目指す資本主義」への変化、つまり消費社会や情報社会への変化に対応している。彼によれば、「市場の獲得は管理の確保によって行われ、規律の形成はもはや有効ではなくなった」。こうして、管理社会では、実質的にはコンピュータによる管理が重要な仕事になる。
文献情報
岡本裕一朗(2015)『フランス現代思想史—構造主義からデリダ以後へ』、中公新書、129-167頁。
千葉雅也(2022)「現代思想入門』、講談社現代新書、56-81頁。