2020年3月13日
悪疫の流行により,「無観客〇〇」を目にしない日はない.昨晩もニュース番組で,ラグビー元日本代表の方が自身の無観客試合の経験を語っており,「トライしてもホイッスルのみで,歓声がないこと」へのやりきれなさを語っていた.
プロスポーツにとっての「観客」とはいかなる存在なのか,考えるうちに自身が向き合う問題との相似を感じていた.
当地で悪疫の知らせが舞い込んだ途端に,黒船来航の如く?,街はパニックとなった.そんな姿に苦笑するしかないのだが,各病院は,面会禁止令を出し始めた.ホスピスも例外ではなく,Webでも「ホスピスにおける家族の面会禁止令」に対する対応や,やりきれなさが聞こえてくる.実際に自分がこの問題に接すると,根の深さを思い知ることになった.
ある日,回診で病室に入ると,患者と家族が抱き合って泣いていた.間をおいて事情を伺うと,「今生の別れをしていたのです」と仰る.何のことかと問うと,明日から家族も面会の禁止となると聞きました・・・と.(え?私は聞いていませんが・・・)
ホスピスでの「厳密な」面会禁止令とは,「今生の別れ」と同義なのだ.ホスピスへの入院が患者と家族との永遠の別離となってしまい,次に対面するときには・・・.
そんなことはあってはならないので,「病状説明のため」など,例外規定を最大限利用して,職を賭して,面会禁止令に抜け道を作っている.
「医療スタッフと患者」以外の第三者をホスピスから排除してしまうと,「無観客試合」と同じ心理状況となるのではないだろうか.
例えば,手術や治療をして,自宅などの「病院外へ出る」ことが想定されている場合と異なり,当ホスピスでは9割程度の方がここで最期を迎えるのが現状だ.
最期のひとときを必死に生きようとする姿を見せる「対象」,これまでの人生を振り返って,誰かに感謝を述べる「対象」がいなければ,医療スタッフは「ケアの達成感」「もっとより良いケアをしようという緊張感」,「快や喜びを分かち合いたいという気持ち」を「誰」とも共有できないのではないか.
そして,患者とスタッフは「暗闇の中でのあてどもないケア」を行っているような身の置きどころのない不安を感じるようになってしまうのではないか.
何のために生きているのだろう?
何のためにケアをしているのだろう?
医療スタッフと患者という当事者同士の関係性だけでは,良いケアを紡ぐことは出来ないのではないかと,こういう事態に接して思う.
もちろん,「誰か」に評価されたいがためにケアをしているわけではないのだが,そのケアを見てくれる「誰か」がいなければ,とにかく寂しいのだ.
この寂しさは,無観客試合に臨むスポーツ選手と同じような心境なのではないか.