vol.2 議員になりたいあなたへ「議員の仕事って何だと思う?」①
こんにちは。らぷちゃです。
議員という立場・職業に興味がある方に向けて発信をしています。
その辺の議員に「議員って何ですか?」「どんな仕事なんですか?」って聞いてみてほしい。たいていは「市民の代弁者」です、とか「議会には一般質問というのがあって」とか「行政監視機能」とか言うと思う。
行政監視はAIが良い。そのほうが優秀。条例改正の是非ならば、国の法律と照らし合わせ、他市町村の条例と照らし合わせ、妥当ならオッケー!ってすればいい。予算決算も、審査のための基礎的な数値データをはじき出してくれたら精度も上がるし、時間短縮にもなる。そもそも議員定数を半分に減らして、半分はバーチャル議員で良いと思う。AI優秀。
議員が「代弁者」っていうなら、まず人の話を聞かなきゃねぇ。たいてい聞けない人が多いんだけど。要領を得なかったり、自分の話ばっかりしたり。
議員が「代弁者」っていうなら、話上手じゃなきゃねぇ。議会で緊張して何言ってるかわからない議員多いけど。今なんの話してんの?って聞きたくなる人多いけど。
そんな代弁者を見たら「あのー、やっぱり私、自分で市長に言います」ってなると思う。
選挙でもいるね「私に一票を託してください」って人。託してほしいだなんて信じられない!託されたら困るよ。万能人間じゃないんだから、いきなり託されたって無理って話。一緒にやってもらわなきゃ、絶対無理。
私はずっと地方議員の仕事は、1人でも多くの市民に「成功体験」をしてもらうことだと思ってきた。課題は目の前のリアルで、市民と議員はもちろん、市民と首長も近い存在だから。
身近な問題は、議員じゃなくても変えることはできるから。
議員になるずっとずっと前、1人目の子を出産して仲良くなったママ友に「なんで3カ月検診なのに保健センターの自動ドアが手動なのよ!」と愚痴った。おむつ、おしりふき、哺乳瓶、ミルクのためのお湯と水の水筒2本、着替え、ガーゼ、おくるみで、バッグは重いし大きい。それを肩にかけて、首の座らない3カ月の子を抱っこしてドアを開けるなんて至難の業。自動ドアって手で開けるとめちゃめちゃ重いし。
施設の人に思わず聞いたよね。どうして開かないんですか?って。そしたら「ずっと壊れたままで」って言われて衝撃だった。町に直すお金がないからそのまま放置になってるってことだった。
長男が2歳になった頃、私はある人を介して、この田舎町で虐待の相談件数が多いことを知った。隣の自治体の2倍以上。
子どもと散歩してると畑のおじいちゃんが野菜をくれるようなこの田舎町で!? 道行くおばあちゃんが飴玉くれるこの田舎町で!?虐待!?
衝撃が大きすぎた。私にできることってなんだろうと考えた。お母さん同士がつながって、孤独になりがちな育児にホッとできる瞬間が作れないかな?と思った。ガラケーの時代だし、子連れで行けるcafeとか遊び場を探すこともなかなか難しかった。だから、そういうところを紹介するフリーペーパーを作ろうと思った。
当時はmixiが始まったばかりだった。私は町のお母さんたちのコミュニティを作ってメンバーを集めた。ネットの世界からリアルで会うことをオフ会って言ってたときで、小さな小さな町なのに、初のオフ会には10人以上が来てくれた。フリーペーパーを作りたいっていう私の提案にみんなが乗ってくれた。「私なんか何もできないけど、面白そう」って。
費用がないから広告を取らなきゃいけなくて、子どもをおんぶして商店街に営業に行った。取材のやり方もわからないまま、いろんな話を聞きに行った。フリーペーパーを設置してくれるお店を探しまくった。A4で8頁、1万部を発行。50店舗に設置できて、発行してから1年後には、広告スペースがすぐ埋まって新規が入れなくなった。
町に初めて頭にきた保健センターの自動ドアの故障は、当時からさらに2年放置されたままで「保健センターの自動ドアはすぐ直すべきだ」って意見も載せた。「雨の日に遊べる場所がない」「公園の砂場が不衛生」「子育てサロンの案内が見づらい」などなど。
それは、小さな町で起きた、若い世代の、ママたちの、初めてのクーデタだった。町のいたるところに、おしゃれで楽しくて、内容の濃いフリーぺーパーが設置されたことは、保護者のみならず、町役場でもちょっとしたニュースになり、知らないうちに保健センターの自動ドアは直っていた。
あるとき、メンバーの子が入院することになった。かかりつけで紹介状を書かれたのは「泊まれないし、面会時間以外に会うことが許されない病院」。お母さんは「面会終了時間になると毎回わたしが泣いちゃうの」と言いながらすでに涙ぐんでいた。一方であるお母さんは数年前に「ずっと付添ってください、泊まってくださいという病院」を紹介をされて、仕事をしていたからとんでもなく大変だったと語った。最初から病院の情報を知ってたらどんなに良いか!そんなことから、フリーペーパーでの病院特集の企画が決まった。
「私なんて何もできない」と言っていたお母さんが、いつか来るかもしれない我が子のその瞬間に備えて、積極的に病院に電話をして取材を始めた。子どものために出てくるお母さんのエネルギーはすごい。
フリーペーパーの発行がされるたびに「私なんて・・・」と言っていたお母さんたちが「私、〇〇ならできるかも」という言い方に変わっていった。自信にあふれた顔はキラキラしていて、いつもみんなが笑っていた。それを見て子どもたちも笑い、子どもの笑顔でまたお母さんが笑った。私たちの集まりには、笑顔の連鎖がいつもあった。
そんなある日、町中から突然ブランコが消えてしまった。一つや二つじゃない、町の公園の8割のブランコがいきなり無くなったり、黄色と黒のロープでぐるぐる巻きにされて使用不可になったのだ。
騒ぎになってすぐ、私たちに市民派の議員からお声がかかった。
「公園について情報公開請求をしたから一緒に話を聞いてみる?」
結論から言えば「町が初めて公園遊具の法定検査をしたら、ほとんどが基準に合わなくて撤去になった」ということだった。仕方ないといえば仕方ないけど「今は紙おむつがあるんだから子育てなんか楽だろ」とモロ言っちゃう町長じゃブランコがいつ再設置されるかなんてわからない。
なんで撤去されたか大部分の人は知らない。「あと2,3年はきっとこのままだね」という暗い気持ちの中、現状を知らせることも大切だよねと「3歳の我が子は、今日はブランコあるかな?って毎日公園に行くんです」という切ない話も載せてフリーペーパーを発行。
数日後にある地区長さんから連絡があった。「ブランコ、〇〇公園にはおれらが設置してやっからな。地区会費でなんとかしようって決まったんだ」という。一つの地区、一つの公園でのできごとだったけれど、地域の人たちの温かさに触れ、町が大好きになった瞬間だった。「あんたたちが教えてくれたから、子どもたちのために、なんとかしてやろうってなったんだぞ」と言ってもらえたことも嬉しかった。次の号に嬉しいお知らせを掲載できたこともまた、本当に嬉しかった。
そういう経過をいくつも経て、改善してほしいことは自ら動き、さらに議会には陳情書、町には要望書を出すようにもなった。
「私なんて何もできない」というお母さんはいなくなった。「自分たちのことは自分たちで変えられる」自信に満ちたお母さんたちばかりになった。いつもうまくいくわけじゃなかったし、涙を流すほど悔しい思いもしたけれど、成功体験を積み重ねた経験は大きかった。だから楽しかった。小学校5,6年の子や中学生の子がいるお母さんは「自分たちが変えたいと思うことがあるなら、自分たちで考えて、変えるための行動することが大切」と子どもたちに伝えるようになった。
それからそれぞれが忙しくなり、私も一度町を出なきゃいけなくなったりで活動は休止になった。さらに数年が経って私が町に戻り、議員になると決めたとき、一緒に成功体験を積み重ねたお母さんたちに声をかけた。「私、議員になろうと思う」って。
そしたらみんな「やっほー!またやるのー!!!いえーい」だった。選挙とか、議員がどうとかじゃなかった。またみんなでやれるんだね、そういう感覚で、まさにマツリゴトだった。選挙も楽しいだけだった。
「投票に行ったら選挙は終わり!じゃありません。選挙はスタートです!選挙をきっかけに、私と、一緒に、町を変えていきましょう!」今までやってきたことだったから、それを演説で伝えた。
初めての選挙の結果は、トップ当選だった。(②へ続く)