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田中一村展を見て気がついたこと〜日本の近代日本画と古典的絵画の決定的な違いについて

前回からの続きです。

これまで、日本の古典的絵画の立体の描き方について、と、表現の仕方について書いてきました。
田中一村展を見て、改めてこのような作品がなぜ日本の画壇では受け入れられなかったのか、自分なりにきちんと整理したいと感じたからです。

ここからは田中一村の作品を落選させた院展を代表とする近代日本画の特徴について触れてみたいと思います。

そもそも日本画という言葉は明治になってから、西洋画、あるいは洋画に対して新しく作られた言葉でした。

それには当時のお雇い外国人フェノロサの関与が大きいようです。フェノロサは捨て去られようとしていた日本の伝統美術や廃仏毀釈で破壊されようとしていた仏像など文化財保護に貢献した人です。
日本の美術も評価していて、岡倉天心とともに新しい日本画を作ることに関わりました。
時代の西洋に追いつけ追い越せ、の風潮と、日本の文化を何とか復興させようという思いが背景となって明治以降の日本画壇は出来上がっていきました。

その中心的存在が岡倉天心が作り、のちに横山大観や下村観山が引き継いだ日本美術院でした。

西洋画に負けない日本画を描かなければいけない、という使命感もあって、横山大観らが必死に新しい画境を切り開こうとした努力は尊かったと思います。

ただ、「新しい」「発展した」作品を作る、という事が、フェノロサが指摘した伝統的な日本画は平面的で奥行きがない、余白を多くとる構図への批判、色数の乏しさ、浮世絵の題材の卑俗さなどの指摘もあって、奥行きを直接感じさせる絵を描いたり、歴史的な題材をもとにしたり、精緻な描画をしたり、多彩な色を使ったり、といった「改革」が行われていきました。

結果的に明治以降の日本画の権威の作品の多くが今見ると確かに完成度が高くて絵としては素晴らしい部分がありつつも、正直、私は欲しいとは思えない作品が非常に多いです。
若い頃そういう近代日本画の権威の作品を見るたびに、何か悲しい気持ちになったものでした。昔の絵と近代はなぜこんなに違うのだろう?と。

(あとから竹内栖鳳や菱田春草など、好きな作品にも出会うことになりますが、竹内は京都画壇で、菱田春草は夭折して作品数が少ないことから両者とも私の若い頃は触れる機会があまりありませんでした。)

田中一村が落選したのがまさにその日本美術院の院展だったわけです。

横山大観の作品もいろいろありますが、代表的なのはこのような作品でしょう。

横山大観 雨霽る

朦朧体という線描をなくしてぼかす描法で立体感を出しています。


富岡鉄斎水墨山水図

富岡鉄斎の作品との違いは明らかでしょう。

田中一村のベースが南画です。

日本の伝統的な絵画は絵の中に視覚的に三次元空間を感じさせる描き方はあえてしてきませんでした。

日本美術を西洋のものより劣っていると感じた明治時代の人たちは、西洋画のように”奥行きが見える”よう描くことが日本画の進歩だと思ったに違いありません。

それは敗戦後、今度はアメリカに追いつけ追い越せ、の時代になったときには余計強化されていった側面でもあったと思います。

時代は世界的にもアメリカ文化が先導する物質中心文化真っ盛りです。
日本も高度成長時代に突入していった時代でした。

画面の中に物質的世界を作ることの方が、三次元空間を二次元化、平面化する旧来の日本画よりも価値があるように感じられても無理がなかったのかもしれません。

どこまでも私の個人的な意見でしかありませんが・・・。
日本の伝統的な絵はあくまで物質世界を描くものではなく、物質ブラス目に見えない世界を描くものであるから、むしろ極力奥行きはなくして平面に徹することは重要な要素だった、と私は思うのです。

村上隆がスーパーフラット、といったのはその表面上の描き方についての指摘なのだろう、と思います。

実際に富岡鉄斎が描く山水は単なる物質としての山を描いているわけではないでしょう。

それに対して横山大観の方は山に雲がかかる実際の風景を描いています。
これは水墨で描かれてはいても、実質的には西洋画の風景画に近いものです。

田中一村の芸大の同期である東山魁夷や平山郁夫など、もてはやされた作家の作品は皆、画材は岩絵具を使っていますが、描いているのは西洋画にとても近いものになっています。


田中一村はベースはどこまでも古くからの日本の絵画の伝統を踏襲しています。

これだけの描く力がありながらも公募展で入選しなかったことが逆に当時の主流とのギャップを示しているようにも思います。

ここまで主に技法的なことを書いて来ましたが次は精神について書きたいと思います。

続く


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