一首評の練習(8) -浴身のしづけさをもて真昼間の電車は河にかかりゆくなり
浴身のしづけさをもて真昼間の電車は河にかかりゆくなり
水原紫苑 『びあんか』(決定版)(2014)
「浴身」の意味を確認しようとネットを見たら、「ゆあみ」と読むと書いてあるのがあった。岡本かの子の歌集にも「浴身」があり、国会図書館では「ヨクシン」と振っているし、音数的にはヨクシンの方が合うので「ヨクシン」なのだろう。いずれにせよ意味は入浴することとのこと。
初めからつまづいたが、通勤通学時間帯を外れた昼間に電車に乗ると、妙に静かだと思うことがある。一方で風呂に入っている時の静けさというのも分かる。私にとっては、どちらも時間が止まったような感覚を伴う静けさだ。その電車が河を渡る景色が詠まれている。「河」という漢字を使っていて余計に非日常感がする。「かかりゆくなり」がその瞬間の動きをとらえていてうまい。
上の句の「浴身のしづけさ」を「真昼間の電車」に結び、その電車が「河」にかかろうする瞬間。実際の景色では無く作者の心中で再構成された幻想的な景色だと思う。「河にかかりゆく」のは作中主体そのものの心の動きで、「電車」は修辞上の道具に過ぎず、作者は裸の己の心のざわめきを描いている気もするのだ。
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「日々のクオリア」の評者は水に浸かった半身の女性的なイメージに触れていたが私は映像よりも「しづけさ」という音繋がりで真昼間の電車に繋がった。
(練習の題材として過去に砂子屋書房のWEBサイトに掲載されている「日々のクオリア」で取り上げている短歌を使わせていただいた。日々のクオリア自体が一首評の記事だが書く前には読まぬようにしている。誰がどんな歌を詠んでいるのか、初学者にとって歌集を買うのに大変に参考になる記事である)