一首評の練習(2) 読みと詠みのために - 寝たる手の届くところまで電灯の紐を垂らせば年は終りぬ

寝たる手の届くところまで電灯の紐を垂らせば年は終りぬ
竹山広『遐年』(柊書房:2004年)

最近は見かけなくなった気がするが、昔は部屋の電灯には20センチぐらいの紐が下がっていて、それを引っ張って付けたり消したりしていたものだった。今のようにリモコンで電灯をつけるなどはもちろんのこと、私の若い頃は部屋の壁にスイッチがあるというのも少数派だった。そんな古き時代には無精な人間は電灯の紐を長く床近くまで垂らして、布団に寝たまま部屋の灯りを消したりしたものだ。もちろんこの場合、寝具はベッドなどではなく布団である。長く延ばした延長紐?を引っ張れば、いちいち立ち上がって紐を引く必要がないのである。下宿暮らしの頃の私も適当な紐を結んで伸ばしていたが、紐を延長する便利グッズも売られていた。
さて、この歌はそういう情景を詠んだものであろう。「紐を垂らせば」だから作者の述懐と取るのが自然だが、作者は私のように無精なのではなく、体調を悪くして寝込んでいて起き上がりにくいのかもしれない。いずれにしても天井近くからぶら下がった紐を見て一年の終わりを感じているのだ。その感情は決して楽しいものではなかったと想像できる。独り寝の布団に寝て、これと言って何も残すことがなく過ぎていった一年を垂れた長い紐に見立てた。淋しい作者の述懐が身に染みる。現在からそれを振り返るなら「垂らされた紐」は、その当時の(私なら青春時代の)様々な出来事を想起させるに十分な景色だったのではないか。

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「日々のクオリア」の評を読むと「電灯の紐を垂らす」という行為をどう読むかでかなり違う。評者は若い方なのでわた私が上述したような体験はされていないのだろうと思った。したがって読みが違ってくるのは当然だが、評者は深く読んでいて、そのように評するのか、と参考になった。一方で私は実体験として書かれた情景を体験しているので、それに引っ張られて侘しさや孤独、といったことだけが気になり、これではただ読んだに過ぎないな、と思った。

(練習の題材として過去に砂子屋書房のWEBサイトに掲載されている「日々のクオリア」で取り上げている短歌を使わせていただいた。日々のクオリア自体が一首評の記事だが書く前には読まぬようにしている。
誰がどんな歌を詠んでいるのか、初学者にとって歌集を買うのに大変に参考になる記事である)

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