高速ハイハイ
「ハイハイを教えてくださる先生がいらっしゃるのですが、ぜひ参加されてみませんか?」
数年前の冬のある日、私の息子、たいようの担当の保健師Aさんからそう電話がかかってきた。
ハイハイをし始める目安の時期を過ぎても、まだハイハイができない子どもを対象に声をかけているのだという。
「うちの子にハイハイのやり方を教えてくださるということでしょうか」
「はい、そうです」
「その方はハイハイの、プロの方なんですね?」
「おっしゃる通りです」
Aさんからのお誘いに、私の心は踊った。
その手のプロならば、きっとたいようにハイハイのコツを教えてくれるに違いない。
その会は今月末に保健所の一室で開催されるという。
だいたいの子はもっと早い時期にハイハイをするものなのかぁ。と、壁にかけられたカレンダーを見ながら、私はなんとなく思う。
偶然にも月末に1歳を迎えるたいようを連れて、参加してみることにした。
それにしても、おとなになったとはいえ、自分の知らないことはまだまだあるものだ。
ハイハイのプロ。
なんという響きだ。そのような方が世の中に存在しようとは。
いったいどんな人なのだろう。
ハイハイのプロということは、おそらく子育てについても詳しいに違いない。
子育てのベテランは、ハイハイを極める。
きっとそういう領域にたどり着かれた方なのだ。
もしかしたら、ハイハイのコツだけじゃなくて、ハイハイの奥義たるものを伝授してくれるのではないだろうか。
そうだとしたら、そんじょそこらにはない、スペシャルなハイハイを、いつかたいようが披露してくれる日がくるかもしれない。
いや、待てよ。
ハイハイ現役の赤ちゃん先生が現れて、目の前でハイハイを実演してくれるというのはどうだろうか。それもありえる。
あれやこれやと考えているうちに、そういえば、たいようは寝返りも遅かったことを思い出した。
定期健診の時、担当のAさんとは別の保健師さんがやってきて、寝返りができるかどうか確認するため、たいようをベビーベッドの上に仰向けに寝かせた。
「ごろん、してごらん」
保健師さんの問いかけにも、上を向いたままで、たいようは動かない。
すると保健師さんはたいようを横向きに寝かせると、たいように寝返りを体験させるべく、ぐいっと背中を押していった。
右に、くるっ くるっ くるっ
たいようの体が横に回転していく。不本意にも転がされたたいようはぎゃーぎゃー文句を言っていた。
「いい足だ」
保健師さんはたいようの足を見て呟いた。
たいようの太ももは太ももらしくしっかりと肉付き、ふくらはぎはキュッと締まっている。
「しっかりした、いい足をしている。体格だってがっちりしているし、もう充分、寝返りができる頃だと思うんだけどねぇ」
と少し残念そうにしていた。
ねぇ……。
心の中でそう私もあいづちを打ったことを覚えている。
それはハイハイを教わる会の、ちょうど2週間前のことだった。
なんと、たいようがハイハイで1歩、2歩……3歩と前へ進んでいるのを私は目撃した。
手の平を床につけ、少しづつ、ゆっくりと、手足を交互に動かしているたいようの姿を私は目で追った。
たいようはふらふらと安定しない体を支えようと、懸命にその1歩を踏みしめていた。
ついに、その時がきたか!
込み上げた喜びと共に、不穏な感情が私の心にちらつき始める。たいようがハイハイを始めてしまったからには、もうハイハイを教わる会には参加できないのではないか。
そうなったら、もうハイハイのプロには会えない。
まさかここまでハイハイのプロの存在が私自身の中で大きくなっていたとは思いもよらないことだった。
さて、どうしたものか。
先ほどから私の前をどうにかして通り過ぎようと、行きつ戻りつしているたいようの姿を見て私は考え込む。
「たいようくんはお元気ですか?」
たいようがハイハイを始めて1週間ほどが経った頃、保健師のAさんから電話で連絡があった。
私はたいようがハイハイをし始めた経緯をAさんに伝えた。
「それはよかったですね!」
Aさんの嬉しそうな声が受話器の向こうで弾けた。
ではもう、ハイハイを教わる必要はないですね。それでは、さようなら。
そう言ってAさんに電話を切られる前に、私は早口で語った。
たしかにたいようはハイハイをしているものの、その姿はまだたどたどしく、できたらハイハイを教わる会に予定通り出席させてほしい、と。
込み上げる私の熱い思いが伝わったのか、Aさんは快く承諾してくれた。
よかった。
私は安堵した。
これでハイハイのプロに会える!
プロはどうやってハイハイを子供に教えるのだろうか。
やはり自らがお手本となり、子供たちの前でプロのハイハイの技をお披露目してくれるのか。
それとも、もっと子供の本能をくすぐるような、呼び覚ますような、“なにか”に訴えかけてハイハイを促すのだろうか。
もしかしたら、ハイハイ専門の秘密の小道具があるのかもしれない。
Aさんと電話で話した数日後、私は居間でいちご味のアイスキャンディーを食べながらそんなことを考えていた。
たいようは先ほどから隣の寝室で昼寝をしていた。
その間に、私は暖房でぽかぽかに温まった部屋であぐらをかいて、アイスキャンディーの甘ずっぱいおいしさと至福の時をこっそり味わう。
もう一口、アイスキャンディーを頬張った瞬間、視界の片隅でなにかが動いた。
居間と寝室の間の廊下を素早い動作でなにかがサカサカ通っていった。
ゴキブリ? ねこ?
いや、ちがう、たいよう!!
脇目もふらず、ものすごいスピードで、たいようがハイハイで廊下を駆け抜けようとしていた。
迷いなく玄関の方に向かっている。
ハイハイの最中に履いているズボンがずれてきて、オムツが丸出しになったお尻が見えた。
「ま、待てーーーー!」
慌てた私は食べていたアイスキャンディーを口にくわえると、あぐらの姿勢から、一気に立ち上がった。その衝撃で右足が思い切りつりそうになる。
「ぎゃっ」
叫んだ拍子に、口にくわえていたアイスキャンディーがぼとっと床に落ちて崩れた。
足同士が絡まりあい、奇妙なステップを踏み、それをどうにかしようと、私の体は瞬時にくねくねとおかしな動きを繰り出していた。
もう止まれない!
ダンッ! ダ ダ ダン ダン!!!
弾くように床に着いた足裏の衝撃が、そのまま骨を伝って、じんじん上りつめてゆく。
リズミカルな足音を轟かせ、つんのめりながらも、たいようを追った。
私はどうにか玄関の前あたりでたいようを捕まえると、たいようのわきの下に両腕を入れて上に持ち上げた。たいようの脱げかかっていたズボンがすぽっとその場に落下した。
約10kgのたいようの体がびろーんと縦に伸びて、レッサーパンダがふいに立ち上がった時のようになる。
たいようをびろーんとさせたまま、私は居間まで運ぶと、たいようを床におろした。
この間まで、どうにか前へ進んでいくのがやっとの、ハイハイ初心者だったではないか。
それなのに、いったい、どうした。
ああ、もうだめだ。
ハイハイを教わる会へ行くことは叶わないだろう。
その時、ふと気がつく。
ハイハイのプロになら、すでに会えているではないか。
なぜか私をよけるようにして、たいようが高速でどこかに行こうとしている。
私の足元を通り過ぎていったたいようは、立派なハイハイのプロになっていた。
急な息子の成長ぶりに戸惑いつつも、たいようの背中を追いかけている最中、ぐにゃりとしたものを踏んだ。
それは先ほど、私が落とした食べかけのアイスキャンディーだった。
右足の裏を見てみると、うっすらとピンク色した液体があやしくてらてらと光っている。
足がつりそうになったり、足の裏がいちご色に染まったり、まったく今日の右足はツイてない。
その時、玄関のチャイムが鳴った。
チャイムの音につられたのか、たいようは即座に進行方向を変えて、また玄関に向かい出した。
「待って!」
宅配便かな?
ま、まさか、私がうるさい足音を立てたことに対するご近所さんからのクレームだったら、どうしよう。
そう、ここはマンションの一室。
たくさんの人が一つ屋根の下、暮らしている。
アイスキャンディーがべっとりついた足を引きずりながらも心配になる。
そうだ、寝ぼけてタップを思い切り踏んでしまったことにしようか。
それとも、それとも……。
言い訳をどうしようかと、頭の中をあらゆる思いが駆け巡る。
玄関のドアのそばで私はたいようを抱き上げた。
ひょっとしたら私がふつうに歩くスピードより速い、かもしれない。
おそるべし、高速ハイハイ。
「どちら様でしょうか」
玄関のドアの前に立って、私はおっかなびっくりそう口を開いた。