ありがとう、″ママ″
私には小学生の息子がいる。
息子には障害があって、人とコミュニケーションを取るのが苦手だったり、お話ができなかったりする。
息子との出会いは、数年前のことだった。
私は出産を終え、分娩室で休んでいると、横づけされていたベビーベッドに息子がやってきた。助産師さんが抱っこして連れてきてくれたのだ。
黒目がちな目で、息子は私のことをじっと見つめていた。
その少し潤んだような目元を見ていたら、私の中で、なにかがあふれてきて、涙がこぼれそうになった。
不妊治療を経て授かった子だった。
会えたね。会えたんだね。
あなたの名前は″たいよう″っていうんだよ。
そう心の中で、私は同じ言葉を繰り返していたのを覚えている。
たいように障害があるとわかったのは3歳の頃だった。知的な障害を伴う自閉症、という診断だ。
たいようは初めから発達がゆっくりだった。ハイハイやつかまり立ち、まわりの子と比べて歩き始めも遅かった。
どうしてだろう。
悶々とした気持ちをずっと抱き続けてきた答えが、つながって、すとん、と、落ちた瞬間だった。
たいように発語はなく、しょっちゅう楽しそうになにかしら声を出してはいたものの、言葉に発展することがないまま時は過ぎていった。
そんなある日、たいように漢方を飲ませるため、私はお椀とスプーンを持って、部屋で遊んでいるたいようのそばに行った。
1袋分の漢方の苦味をマイルドにさせるために、チョコレートアイスクリームを混ぜたものがお椀の中に入っている。
たいようは夜眠っても、中途覚醒が多く、まとまってとれる睡眠時間は1日に4、5時間程度だった。そのため、医師から、睡眠に効くとされる漢方を処方されていた。
「いつもの漢方さんだよ」
私はたいようの前にしゃがんだ。スプーンで漢方入りのアイスをすくうと、たいようの口元まで持っていく。たいようは手に持った人形を手でいじりながら、ぱくっとスプーンを口にした。
再びスプーンに漢方入りアイスをのせて、たいようの口の前に差し出す。
「漢方さん食べられてえらいねぇ」
私はたいように笑いかける。
そして漢方入りアイスをスプーンにのせようとしたその時、
「まーまー」
声がした。
私はお椀から目を離し、顔をあげた。 たいようが私を見ていた。
「まーまー」
たいようがしゃべった! たしかにママと言った。
口の横にチョコレートアイスをつけて、じっと私を見つめている。
もしかしたら、ちがうのかもしれない。
たまたま、そう聞こえただけかもしれない。
深い意味はないのかもしれない。
そうだとしても、
「ありがとう、“ママ”って呼んでくれて。ありがとう」
しぼりだすように、小さな声で話すことしかできなかった。
あなたが産まれてきてくれて、たくさんのもの、もらっているよ。だから、ありがとう。
きょとんとしている息子の前で、涙が出そうになったのと、心がじんわり暖かくなったのは、どちらの方が先だったのかあまりよく覚えていない。
でも、あのとき初めて「ママ」と呼んでくれたことは、きっと、ずっと、忘れない。